bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

川崎で「雅楽装束師」の仕事を観る

半年も前なので覚えている人は少ないだろうと思われるが、NHK大河ドラマ『光る君』で藤原道長の子供たちが舞楽を舞うシーンがあった。一条天皇の母で道長の姉である栓子が40歳を迎えたので、その祝が催された。現在では40歳なんて若いと思われているが、短命な平安時代にあっては、40歳は初老と言われ、「四十の賀」で長寿を祝った。この後は十年ごとに「五十の賀」「六十の賀」...と続く。藤原実資の日記『小右記』と藤原行成の日記『権記』には、道長の長男・田鶴(たづ・後に頼通、母は源倫子)が雅楽『陵王』を、道長の次男・巌君(いわぎみ・後に頼宗、母は源明子)が『納蘇利(なそり)』を舞ったと記されている。大河ドラマの中でも、原型を活かしながらオリジナルの陵王・納蘇利が披露された。

陵王は中国・北斉(550~577年)のイケメンの若武者・高長恭(こうちょうきょう、蘭陵王)に由来している。彼は味方の兵士の士気を高めようと獰猛な面をかぶって合戦を指揮し、次々に勝利を重ねた。そして、これを祝しての舞楽が陵王になった。『光る君』では、田鶴役の三浦綺羅さんが陵王を舞った。

音楽を演奏する人たちも華やかな装束である。楽器には、太鼓、鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、篳篥(ひちりき)、竜笛(りゅうてき)、笙(しょう)が用いられる。尺八は平安時代初期まで使われていたが、音色があまりにも小さかったためにこの頃には外されていたそうだが、ドラマでは用いられた。

納蘇利は、天から龍が降りてきたことを祝し、それを表現した舞楽とされている。一人舞と二人舞とがあり、一人舞を落蹲(らくそん)、二人舞を納蘇利と呼ぶことが多いが、奈良では逆のようだ。納蘇利は、巌君役の渡邉斗翔さんが演じた。

小右記』には明子を母とする巌君の舞の方が賞賛されたと記されていたので、ドラマの方もそのようにしたとのことであった(道長には二人の妻・倫子と明子がおり、子供たちはライバル関係だが、倫子の子供の方がより高い身分についた。四十の賀では明子の子供の方が舞が上手だった。これからの人生において、実力ではなくエコヒイキが予想される場面である)。日記に忠実にドラマでも納蘇利の方が切れ味良く演じられていた。舞楽で、中国大陸・西方諸国から伝わったものを左方と言い、朝鮮半島・南方諸国からのものを右方という。陵王は左方であり、納蘇利は右方である。そして、装束の色は、左方は「赤」、右方は「青」と決まっている。演奏者の装束もこれに倣っている。

昨年は、ボランティア活動している場所で舞楽に関する話題が多く、自然と興味を持つようになった。そして、東海道かわさき宿交流館で「納蘇利の装束を着装する実演」があるという情報を得たので、見学に出かけた。着付けの実演者は、雅楽装束師の高橋忠彦さんで、長年、宮内庁式部職楽部の衣紋方として活躍され、2020年には黄綬褒章を受章された。下の写真で、左側が高橋さんである。着付けは二人で行うのだが、もう一人の方はこの日は都合がつかなかったようで、代わりに笙奏者の野津輝夫さんが手伝った。また、納蘇利の衣装を着たのは竜笛奏者の纐纈(こうけつ)拓也さん、解説をしてくれたのが篳篥奏者の高多祥司さんであった。

今回は、納蘇利の着付けを実演してくれた。使用された衣装は以下のようである。左上が袍(ほう)、左中が赤大口(あかのおおくち)、その下の靴のように見えるのが絲鞋(しかい)、右上では2点が一緒になって見えるが、上の小さな装束が銀当帯(ぎんあておび)、そして下の殆どを占めているのが裲襠(りょうとう)、右中が差貫(さしぬき)、下は装束をしまうための紙・袋類である。

納蘇利の面である。

最初に、雅楽の奏者である野津さん、纐纈さん、高多さんによる演奏があった。そして、高橋さんによる着付けの実演が行われた。着付けの仕方について、赤大口を着ける高さ調整や、帯の結び方などかなり詳しく説明して頂いた。着崩れしないようにしかも舞い易くするために、ゆるみを持たせてしっかりと締めることがとても大事であると教わった。高橋さんはこのような技術を先輩に教わることなくその作業を見ながら習得したそうである。しかし、現在ではこのような流儀は通用しないし、伝統芸術を守るということもあって、若い人たちには手取り足取り教えていると現状を話された。着付けが終わった後の納蘇利、



納蘇利の一部を纐纈さんが舞ってくれた。着付けの時に舞うことがいかに大変かを聞いていたので、一つ一つの動きを納得しながら観察できた。特に面は大切で、これを付けると舞う人の視界は想像以上に限定されるので、舞う時に事故が起こらないように、舞う人が納得する位置でしっかり固定するように心がけているとのことだった。

最後に、雅楽奏者による「君が代」の演奏があった。知る機会が少ない裏方の仕事をしっかりと学ぶことができ、貴重な時間を過ごせたことに感謝して、会場を離れた。

館内では、「東海道五十三次・押絵羽子板展」が行われていたのでついでに立ち寄った。正面に展示されていたのは大型の羽子板で「牛若丸と弁慶」である。

ここに展示されている羽子板は、徒然流古今押絵教師・吉田光寿さんが作られたものである。吉田さんは、歌川国貞(三代豊国)が描いた「役者見立東海道」や「歌舞伎十八番」を題材に、押絵羽子板を制作された。会場には日本橋から白須賀までの作品が展示されていた。

川崎宿ももちろんあった。ここに描かれている人物は白井権八で、ブリタニカ国際大百科事典には、「歌舞伎狂言の主人公の名。実名平井権八という因幡 (いなば) の武家の嫡男であったが,父の同役本庄助太夫を殺害して国元を出奔し,江戸で渡り徒士 (かち) 奉公をしているうちに吉原三浦屋の太夫小紫に深くなじみ,金に詰って強盗殺人を重ねて延宝7 (1679) 年に処刑され,小紫もあとを追って自害したという。この実説から美しい若衆の白井権八と幡随院長兵衛の一件が加えられ,安永8 (1779) 年『江戸名所緑曾我 (みどりそが) 』として初めて歌舞伎化されて以来,種々の趣向によって多くの作品を生んだ。なかでも有名なものは文政6 (1823) 年,4世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻 (うきよつかひよくのいなづま) 』で,特に大勢の雲助を相手に立回る権八とそこに来合せた長兵衛の出会いの「鈴ヶ森」の場が名高い」とある。羽子板の権八を演じているのは、五代目の岩井半四郎である。

元絵である歌川国貞の『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』は、下の絵である。

別の階には、川崎宿が復元されていた。下のジオラマは、宿の中心である田中本陣とその周辺、

下は川崎宿の風景。ピーク時の旅籠の数は天保期に編集された「東海道宿村大概帳」に記された72軒で、神奈川県下9宿の内3番目の旅籠数だった。

近くのお店に入ってパンケーキを食べながら感想を述べあった。「演技の方がもう少しあればよかった」とか「着付け教室みたいだった」とか言いながら、スイーツを味わった。