bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武相寅歳薬師如来霊場(1):福壽院・常楽寺・観音寺を訪ねる

寅歳薬師霊場という風習は、この時期、全国どこでも行われるのだろうか。グーグルでググってみると、武相二十五、都筑橘樹十二、武南十二、相模二十一、稲毛七、足立十二、中武蔵七十二、伊予十二、四国四十九、京都十二などと次から次へと現れる。いろいろな地域で行われているようだが、その起源や規模は分からない。なぜ寅歳にという疑問も生じてくるが、これへの適切な回答も得られない。地域に根付いた習慣だろう程度のことしかわからなかった。

取り敢えずいくつかの寺を訪れて、その習慣を体験してみることとした。選択したのは、武相寅歳薬師如来霊場武蔵国相模国とにまたがる地域の25寺が参加している。いくつの寺を回れるかわからないが、初日(4月11日)は田園都市線の西側終点近くにある福壽院、常楽寺、観音寺を巡った。コースは、田園都市線つくし野駅からつきみ野駅までの間を歩く道筋で、距離にして6.2Kmである。

最初に訪れたのは福壽院。「旧小机領子歳観音第24番霊場」と「武相寅歳薬師如来第22番霊場」という石碑がある。ウシ歳の薬師如来とは別に、ネズミ歳にも旧小机領の33寺とともに、観音を開扉して、近隣の人たちの参拝を仰いでいる。そして薬師とともに観音も重要な信仰の対象であることが分かる。

福壽院に上る階段付近、

石段を登りきると、

写真では本堂は閉じているが、お寺の方が開けて下さり、木造の薬師如来を拝ませていただいた。町田市史によると、開基は山下市右衛門で寛文11年(1689)に寺領主高木伊勢守守久より検地の際に除地を得て、小寺を創立したとなっているので、江戸時代中期に建てられたのだろう。昭和33年に台風で倒壊し、そのあと再建されたそうである。

ここを後にして次の寺へと向かう。途中、むじな坂を歩いた。今でもムジナが住んでいるのだろうか。

2番目の常楽寺に到着。お寺とは思えない建物。正面奥に薬師如来が鎮座している。左側のテントが少しだけ見えるところに町内会からの応援の人々が控えている。古くからの地縁社会がこの辺りではまだ続いているのだろう。参拝客も近所の方が多いようで、応援の人々と親しそうに話をしていた(後で分かったことですが、このお寺は町内会が維持管理していて、薬師如来が祀られていたのも、町内会館とのことでした)。

ここの薬師如来は黄金、福壽院よりも少しだけ大きい。開山・起立などは不明。この辺りの江戸時代の村名は町屋(現在は町谷)で、古代東海道駅路の店屋(まちや)があったところと推定されている。常楽寺の本堂、先ほど見た福壽院の本堂とよく似ているのにびっくり。

次の場所に向かって、武蔵国相模国とを分ける境川沿いに歩く。前述の寺は武蔵国に属し、これから訪ねる観音寺は相模国にある。境川の川べりには、菜の花とそれに隠れるように紫大根の花が咲き誇っていた。

また反対側の庭にはシャクナゲがきれいに咲いていた。

携帯のマップ案内に従っていたら、観音寺の裏手に導かれた。正門に回るのも億劫なので、そのまま進んだ。

この寺は、「武相卯年観世音札所第1番霊場」で「武相寅歳薬師如来第21番霊場」でもある。寺のホームページに観世音札所のホームページがあり、八王子・日野・多摩・町田・相模・横浜・大和にある48寺がウサギ歳の春に、秘仏の観音を開扉しているとのことであった。寺内には平成元年に落成した観世音菩薩が立てられていた。

正門から本堂に向かう参道に沿って、寅年薬師如来霊場を知らせる旗がなびいていた。またそばには供養塔も立てられていた。

この反対側には、立派な石碑に縁起が彫られ、そこには中興開山の頼満和尚が慶長13年(1608)に入寂したこと、昔は金亀坊と呼ばれたらしいが開山・開基は不明であること、市重要文化財厨子が天文13年(1544)につくられたこと、本尊の11面観世音菩薩が造られたとき(宝暦年間(1753~63))の経緯などが記されていた。

寺内には太子堂も、

そして順序が逆になったが、最後は山門、

このあと八王子街道つきみ野駅へと向かう。寺を出てすぐのところに道標があり、この場所は元弘3年(1333)に新田義貞が進撃した鎌倉街道であると記されていた。現在は、八王子街道大山街道が交差するところに位置していて、鎌倉時代には鎌倉街道上道として、江戸時代には大山へ向かう矢倉沢往還として、この辺りは栄えていたのであろう。

道標のそれぞれの面に行先の案内がある。この右横の面に新田義貞のことが書いてある。写真を撮ったが、人が鮮明に映り込んでいるので残念ながら使えないので、想像してもらうしかない。

この日は、4月にもかかわらず岩手県では30℃を越えた。東京や横浜でも25℃を超え、地球温暖化が着実に進んでいることを肌で感じさせてくれた。地域で霊場を定めて、春先になるとこれらの霊場を巡り始めたのは、旅行が盛んになった江戸時代のことだろう。この時代は小氷河期とも呼ばれ、今とは違って寒かったため、暖かさが戻ってくる春先は、人々にとって今よりもずっと特別な意味があったようだ。桜が満開を迎えるこの時期を待ち焦がれ、何日間かかけて霊場巡りを楽しんだと思われる。