bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横須賀美術館で「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」を鑑賞する

運慶は、源頼朝から多大な庇護を受けたが、彼の作品はなぜか鎌倉にはない。鎌倉の近くでは、伊豆の願成就院と横須賀の浄楽寺にある。願成就院は北条氏の氏寺、浄楽寺は和田義盛夫妻の発願によるものである。和田氏は三浦一族であるものの、この寺は三浦氏の氏寺ではない。現在残されている運慶作の仏像は偏在しているように見える。どうしてだろう。この疑問を解くために、この二つの寺院のつながりを求めて横須賀美術館を訪れた。

この美術館では、特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」が開催されている。コロナがまだそれほどでもなかった頃に、特別展中に開催される講座に申し込んだところ、運よく当選した(この講座は人気があり倍率は2倍だったそうである)。しかし家からは遠く、マイカーでは帰りに居眠り運転の危険があり、電車利用では混雑に巻き込まれそうで、直前まで躊躇していた。それでも運慶の作品を観るチャンスはそれほど訪れないだろうと考えて、思い切って出かけた。

美術館は、観音崎灯台の近くにあり、前方に展開する海を広大な空間とし、建物の前面は緑豊かな芝生にして、巨大なキャンパスを作り出している。建物は自然との調和を考えて高さが抑えられ、後方の丘に溶け込むように造られている。これ自体が一つの美術作品となっていて、目を楽しませてくれる。


展示物は撮影禁止なので、ここからは文字だけとなる。講座で話をしてくれたのは、金沢文庫主任学芸員の瀬谷貴之さん。今回の展示は、横須賀美術館神奈川県立金沢文庫との共催で、金沢文庫でもこの秋に巡回展示の一環として特別展が予定されている。瀬谷さんの説明は歯切れがよくとても分かりやすかった。

彼の話をまとめると次のようになる。

NHK大河ドラマでは、坂東彌十郎さんが演じている北条時政は、とぼけていてなかなか面白く、人気もうなぎ上りである。近年、北条家の家系が詳しくわかるようになり、それによれば、北条氏は従来言われていたような田舎の武士団ではなく、名門の伊勢平氏の流れで、時政の祖父が北条氏の養子となり伊豆に住むようになった。このため時政は京および興福寺に親類・知人を有していた。一方運慶の父の康慶は、瑞林寺(静岡県富士市)の地蔵菩薩坐像を造立(治承元年(1177))しており、のちに鎌倉幕府の要人となる人達と繋がっていた。これらから北条と運慶一族には共通の接点があったと推測される。時政が願成就院を建立するときに、運慶が招かれて阿弥陀如来座像などを造立(文治2年(1186))した。

これより数年前に源頼朝は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮寺を現在の地に遷し(治承4年(1180))、父義朝の供養のために勝長寿院を建立(元暦元年(1184))し、本尊を成朝(運慶とともに定朝の流れをくむが、成朝は嫡流)に造立させ、さらに奥州合戦をはじめとする怨霊・英霊を鎮めるために永福寺(ようふくじ)を発願(文仁5年(1189))し、本堂を完成(建久3年(1192))させた。永福寺は、奥州中泉の中尊寺大長寿院・毛越寺金堂円隆寺・無量光院などをモデルにして建てられ、宇治の平等院毛越寺に匹敵するような大寺院であったが、残念なことに応永12年(1405)に焼失し、運慶作の仏像も一緒に失われたようである(跡からは仏像の破片らしきものが出土)。歴史研究者の醍醐味は、失われたものを蘇らせることである。永福寺建立後に造られた仏像、特に模刻と思われる仏像を調べることで、失われた仏像を知ることができるというのが、今回の講座の主題である。

大河ドラマでは、横田英司さんが和田義盛を教養のない鬚もじゃな田舎侍として演じている。しかし初代の侍所別当(軍事・警察を担った組織の長官)に任じられていることを考えれば、武勇に優れ、人望もあり、教養もあったのだろうと推察される。また慈円の『愚管抄』によれば、三浦の長者となっているので、三浦一族の長者であったと考えられる。ライバルであった北条時政が願成就院を建立したことに対抗して、和田義盛もそうしたいと思ったのであろう。頼朝に願い出て、西に富士山が眺望できる横須賀の芦名に浄楽寺を建立した(日が没するとき、富士山と太陽とが重なり西方極楽浄土を醸し出す)。この寺には、阿弥陀三尊像とともに不動明王毘沙門天立像が伝来した。像の銘文には、和田義盛とその妻(武蔵七党小野氏の出)が発願(文治5年(1189))して、運慶が小仏師10人とともに制作したと記載されていた。これらの像は、運慶彫刻の新風を充分に含みながらも図像的に保守的な一面を保っていることから、勝長寿院に源流があると見られている。さらには模刻関係にあるという説もある。

源頼朝は恩義に厚い人だったようで、彼の挙兵に対して一命を捧げた三浦義明への供養として、供養堂を発願(建久5年(1194))した。満願寺はこれまで三浦義明の子である佐原義連の開基とされてきた。しかし満願寺から出土した瓦・大型礎石建物・観音菩薩腕釧さらには仏像高などが永福寺のものと類似していることが近年判明した。一方『吾妻鏡』には、鎌倉での永福寺造営が一段落しつつあった建久5年9月に源頼朝の意向で、衣笠合戦で落命した三浦義明の供養のために一堂を建立したとある。この一堂が満願寺ではないかと瀬谷さんは今回見立てている。そして髪際高185cmの観音菩薩像・地蔵菩薩像(これらは重要文化財、現存していないが中尊の阿弥陀如来像も含めて)は、永福寺のそれらと同じであったと推定され、運慶一門による作と見なしている。さらには佐原義連では永福寺と同じ大きさの像を作ることは許されず、この規模の像をつくれるのは頼朝以外にはないともみている。そして満願寺佐原義連の開基とされるのは、宝治合戦(宝治元年(1247年))で三浦氏が滅んだあと、佐原盛時(義連の孫)が再興したことに起因しているとしている。

ところでこれに関して一つの疑問がわく。衣笠城の近くにある満昌寺に三浦義明像がある。満願寺ではなくなぜ満昌寺なのだろうか。さらに、満昌寺は義明の菩提寺として頼朝が建立したとこれまで言われてきた。瀬谷さんの説明によれば、三浦義明が没してから間もなくのころ、亡くなった地(衣笠城)に近いこの場所に廟所が設けられ、この像も義明の神格化に伴い、鎌倉時代以降にこの廟所に安置されたとしている。現在は、義明像は満昌寺境内の御霊明神社に主神として祀られている。

横須賀の曹源寺には、永福寺の模刻と思われるものがある。この寺は、おそらくは郡寺に起源をもち、三浦氏ゆかりの寺院の一つと考えられている。ここには、十二神将像が伝来し、本尊の薬師如来坐像室町時代のものである。昭和57年からの修理のときに、十二神将像の戌神(実は酉神)から正安2年(1300)の修理銘が発見された。そこには建久の頃の仏(原文は仮名で書かれていた)であると記されていた。十二神将像の中で、巳神はひときわ大きい。特別な造像意図があると考えられ、巳時に生れて宗元寺(曹源寺)で安産祈願が行われた源実朝と関係があるとする説がある。さらに十二神将像は、北条政子を願主として、実朝の安産を祈願して建立された永福寺薬師堂の安置像と模刻の関係にあるのではとの指摘もされている。永福寺薬師堂安置の十二神将像は運慶一門の制作の可能性が高く、さらには北条義時の大倉薬師堂安置の十二神将像(建保6年(1218))にも影響を与えていると言われている。大倉薬師堂は現在の覚園寺である。2週間前に訪れた寺でもあり、思いがけず関連のある十二神将像に巡り合うことができ、親しみさえ感じた

運慶は、永福寺造営のあと、頼朝から手厚い支援を受けて、奈良と京都で東大寺大仏殿所蔵の造像(建久7年(1196)~)と東寺復興の造像(建久8年(1197)~)を行った。

今回の講座は、これまでの通説を破って源頼朝が発願した三浦義明の供養堂は満昌寺ではなく萬願寺であることを立証するもので、パズルを解くようなワクワク感がありとても面白かった。講座に先立って鑑賞した展示は、話の中に出てきた仏像をはじめとして、運慶と三浦氏の関連を時系列で追えるようになっていて楽しめた。残念ながら説明に出てきた寺院は訪れたことがない。今年の夏は特に暑いので、涼しくなったらと思っている。百聞は一見にしかずである。現地に行くことで、三浦一族の繁栄と没落が肌身で感じられることを期待している。身近に三浦一族の末裔(義澄の次男山口有綱の子孫)もいるので、興味は尽きない。