bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(1)

日曜日(4月24日)に、東海道53次の宿場の一つである神奈川宿を、この地に30年住んだことがあるという知人に、案内してもらった。

東海道は、律令制度での五畿七道の中に含まれているが、街道として広く利用されるようになったのは、江戸時代になってからである。神奈川宿は、起点の日本橋からは品川・川崎に続く3番目の宿場である。天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、神奈川県内の宿場の規模は次の通りである。

宿名 人口(人) 家数(軒) 旅籠数(軒)
川崎
2,433
541
72
神奈川
5,793
1,341
58
保土ヶ谷
2,928
558
67
戸塚
2,906
613
75
藤沢
4,089
919
45
平塚
2,114
443
54
大磯
3,056
676
66
小田原
5,404
1,542
95
箱根
844
197
36

これから神奈川宿は、県内の他の宿場と比べて、旅籠の数は多くないが、人口が多いことが分かる。これは神奈川湊と呼ばれる大きな港を擁していたことによる。神奈川湊の歴史は古く、鎌倉時代には記録の中に現れ、その頃は鶴岡八幡宮に、室町時代には関東管領上杉氏の領地であった。江戸時代には、湊は神奈川宿とともに幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。

安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結され、「神奈川」を開港すると定められた。しかし大老井伊直弼は、街道上での外国人との接触により事件が起き、それが江戸近くでの重大な紛争になりかねないことに配慮して、対岸の横浜村に港湾施設居留地を作り、外国人にはこれを神奈川の一部と称した。

神奈川宿と横浜港の位置関係を、明治期迅速測図(明治13~19年制作)で示す。二つの地域が内海を挟んで対岸にあることが分かる。なおこの地図では両地域が堰堤で結ばれている。これは明治5年(1872)に新橋・横浜間に鉄道を開設するために、高島嘉右衛門が埋め立てて、鉄道を通せるようにした構造物である。横浜駅はそのあと北に移り、当時の横浜駅は現在では桜木町駅と呼ばれている。

領事館を設立するときに、幕府は横浜港のある横浜村にそのための場所を用意したにもかかわらず、諸外国からは、条約に神奈川となっていることを楯にして、神奈川宿に領事館を設置することを要求された。その結果、米国は神奈川宿を見下ろす本覚寺に、オランダは長延寺(廃寺)に、英国は浄瀧寺を領事館に、普門寺を宿舎に、フランスは浦島寺として知られている慶雲寺を領事館に、甚行寺を公使館にした。また成仏寺は、アメリカ人宣教師の宿舎に充てられ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだ。

神奈川地区センターに復元模型があった。その中心部を撮影したのが下の写真。下部の堡塁は、侵攻してきた船舶を撃退するために砲台を設置した場所で、神奈川台場跡と呼ばれている。左側手前の小高い山は権現山で、神奈川台場を増築するための土取場となった。また権現山とその奥の本覚寺は一続きの山になっているが、その間は新橋・横浜間の鉄道を通すために削られ、そこから掘り出された土は、鉄道用の堰堤を海の中に構築するために使われた。中央部で上から下の方に青く塗られているのが滝の川で、その向かって右側(江戸の方)は神奈川本陣、左側は青木本陣である。

神奈川宿は、東海道宿村大概帳によれば日本橋から7里(27.5km)。江戸時代の旅人は1日40km歩いたので、日本橋を出発したあとの最初の宿は保土ヶ谷か戸塚だった。神奈川宿の客引きたちは、何とか泊らせようと躍起になったことであろう。なお神奈川宿の長さはおよそ4kmである。

江戸の方から小田原の方に向かってこの宿場を訪ねようということで、JR東神奈川駅で待ち合わせた。近くにある京浜急行の駅名も現在では東神奈川だが、少し前までは仲木戸であった。江戸時代に将軍の宿泊施設の「神奈川御殿」があり、木の門を設けて警護していた。このためこの一帯は仲木戸と呼ばれていた。京浜急行はこの地名を用いていたが、2020年に改められた。

横浜市神奈川区が「神奈川宿歴史の道」というルートを設定しているので、それに沿って説明していこう。このルートは長延寺跡・土居跡で始まるが、そこには碑しかない。そこで次の、笠のぎ稲荷神社(「のぎ」は禾に皇と書く)から始める。奇妙な名前だが、「笠をかぶった人がこの前を歩くと、笠が脱げ落ちそうになる」ことに由来している。瘡蓋などが取れるご利益があるそうである。社伝によれば、平安時代の天慶年間(938-947)に建立されたとなっている。

境内には横浜市指定有形文化財の「板碑」があり、鎌倉時代末期から南北相時代初期につくられた。高さは172.5cm、幅は上下で差があっておよそ40cmである。

次は良泉寺。宣教房聞海が開基し、慶安元年(1648)に現在地に移転。開港のときに、領事館にされるのを嫌って、屋根をはがし修理中と断ったそうだ。そのあと幕府からお咎めはなかったのだろうか。
山門、

そして本堂。なぜか修理中。参拝して欲しくないのかな?

次へ向かう途中の第一京浜国道はつつじがきれいに咲いていた。

そして能満時。このお寺は、武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。先週まで回っていた武相のそれと同じ趣旨の催事である。この寺は鎌倉時代の創立とされ、内海新四郎という漁師が、海中から虚空菩薩像を拾い上げ、祀ったと伝えられている。
山門、

本堂、

山門の四天王。順番に、国を支える神「持国天」、恵みを増大させる神「増長天」、特殊な力の目を持つ神「広目天」、あまねく聞く神「多聞天」。



次の場所への途中で、神奈川小学校の傍らに神奈川宿の紹介があった。

東光寺。この寺の本尊は太田道灌の守護仏。道潅の小机城攻略後に、小田原北条氏家臣平尾内膳がこの仏を賜り、東光寺を草創したとされている。また道灌は内膳に与えるに際し「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここも変わらじ」と歌を詠んだことがお寺の名称の由来になっているそうである。ここも武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

熊野神社。結婚式の最中(写真は省略)。

米軍によって10年間も埋められていたものを修繕して元の場所に祀られた満身創痍の狛犬

樹齢400年のイチョウの木。何度かの火災に遭ったが再生して今につながっている。

神仏分離されるまでは、熊野神社と一緒だった金蔵院。勝覚により寛治元年(1087)に創建されたと伝えられている。
山門、

本堂、

境内の弘法大師像、

高札場跡、

成仏寺は、永仁年間(1293-1299)に心地覚心が開基。寛永7年(1630)に家光上洛の際に神奈川御殿が境内に造営されたため、代替地として現在の場所に移転。日米修好通商条約締結後にアメリカ人宣教師の宿舎となったが、その中の一人が前述したヘボンである。ヘボンは医療伝道宣教師で、ここで医療活動に従事すると共に、聖書の日本語訳に携わった。また和英辞典『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字を広めた。そして明治学院を創設した(ヘボン夫妻はこれに先立ちヘボン塾を始めたが、その教師であった女性の宣教師ギターは、フェリス女学院を設立した)。さらに生麦事件(1862年)では、負傷者の治療にあたった。

慶雲寺は、室町時代の文安4年(1447)に定蓮社音誉聖観によって開創。慶応年間の大火で観音寿寺が類焼し、浦島伝説にかかわる記念物がもたらされ、それ以来「浦島寺」とも呼ばれている。

浦島観世音堂。太郎が竜宮城へ行ったおり乙姫からもらったとされる浦島観世音像が、左側の亀化(きけ)龍女神像と右側の浦島明神像とともに、祀られていた。

ここまででちょうど神奈川宿の中ほどの滝の川の東側の見学を終了した。続きは次号で、お楽しみください。