bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(2)

今回紹介するのは神奈川宿の西半分で、しかもその全部ではなく東寄りの部分である。午前中は、雨は降らないだろうと淡い期待を寄せていたが、見事に裏切られた。最後の方は急ぎ足になったこともあり、写真を撮る余裕がなかったので次の日に再挑戦した。今回は、雨に降られる前までに訪れた神奈川宿の遺跡である。すなわちイギリス領事官となった浄瀧寺から始めて、滝の川を通り、神奈川台場を作るためにその一部を削られた御殿山までを紹介する。

下の写真は、神奈川地区センターにある神奈川宿復元模型の左側部分を撮ったものである。今日、我々が見慣れている海岸線は、かつての東海道のずっと南の方にある。江戸時代には、今の横浜駅は海の中にあり、旧東海道はその両側を海岸線と小高い丘で挟まれていた。写真の左奥は、台町の茶屋があったところで、急坂であることが分かる。写真の中央部辺りは、今日では、第一・第二京浜という大きな国道が二つも通り、電車もJRと京浜急行が走る。今も昔も、交通の要所であることに変わりはないが、便利さには雲泥の差がある。

前回説明した通り、日米修好通商条約(1858)締結の後に、神奈川宿には、各国の領事館が置かれた。最初に紹介する浄瀧寺にはイギリス領事官が置かれた。このお寺のホームページには、寺の縁起が記載されている。文応元年(1260)、尼僧妙湖が現在の横浜に庵を構えていたときに、日蓮安房より鎌倉に向かう途中で、妙湖に出会った。妙湖は法華経の教えを日蓮より聞き、たちまちにして弟子となった。そして自身の庵を法華経の道場としたのが、この寺の幕開けとなった。もとは街道近くにあったが、徳川家康入府の際に現在地に移転した。

二つの本陣の真ん中を流れる滝の川。この川の江戸側には神奈川本陣、京都側には青木本陣がかつてあった。今はその名残はない。

神奈川の大井戸。この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられたそうで、次に紹介する宗興寺は「大井戸寺」と呼ばれていた。この水は、江戸時代初期に神奈川御殿で徳川将軍のお茶としても使われた。また宗興寺に滞在した宣教師のシモンズやヘボンもこの井戸を利用した。

前回の記事で、成仏寺を紹介するときにヘボン博士の活躍を記したが、その博士が施療所を設けたのが宗興寺である。伊豆海島風土記によると、永享12年(1440)に神奈川宿宗興寺の住職が、八丈島に宗福寺を創建したという記述が残されているので、かなり古くからあった寺と考えられている。

ヘボン博士が施設所を開いたことを知らせる石碑。

神奈川宿を描く絵図には一段と高い山として描写される権現山。

権現山の頂上は公園になっている。その南側には表忠碑があり、日清・日露の戦いで亡くなった方の慰霊が顕彰されている。その左側には古戦場であったことが記されている。戦国時代、関東管領上杉一門の家臣であった上田蔵人が、主人を裏切り、伊勢宗瑞(北条早雲)に内通し、砦をここに構えた。管領方は二万の軍勢で包囲し、落としたと言われている。

権現山から、京急・JR線越しに、本覚寺を望む。江戸時代は権現山から本願寺までは一続きの山だったが、明治5年に新橋・横浜間に鉄道を敷設するときに開削された。その土は、海を埋めて鉄道用の堰堤を構築するために使われた。建造したのは高島嘉右衛門である。

国立公文館のデジタルアーカイブには新橋横浜間鉄道之図がある。鉄道が開通した頃の図は次の通りである。短い距離で繋がるように努力したことがよく分かる。

最後は洲崎大神である。源頼朝が、安房安房神社の神をこの地に招いたとされている。

境内にある御嶽荷社。

洲崎大神でぽつぽつと雨が降り出した。残りの遺跡をさっと見たが、写真撮影は翌日に見送った。そこでこの続きは改めて紹介する。