bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-城めぐり・姫路城(白鷺城)

姫路城はよく知られているように日本を代表する城で、ユネスコ世界文化遺産に指定され、国宝でもある。是非見学したいと思ってはいたが、今に至るまで果たせずにいた。今回が初めての見学になるが、一緒に旅行する仲間から、ガイドをして欲しいと依頼された。見ていない場所をガイドするのは憚られたが、友達同士なので上手に説明できなくても許してくれるだろうと思い、引き受けた。このためちょっと荷の重い見学となった。

姫路城は兵庫県の西部にあり、山陽新幹線の姫路駅で降り、北口から大手前通りを北の方に向かうと辿りつく。姫路城の近くには動物園、美術館、歴史博物館、文学館、図書館、好古園、公園、学校などがあり、文教地域となっている。

姫路城として現在残っている部分は内堀とその内部である。かつては内堀の外側には、中堀、外堀があり、外堀は姫路駅の近くを巡っていた。外堀と中堀の間の外曲輪には町人の居住地が設けられ、中堀と内堀の間の中曲輪には武士の屋敷が造られ、内堀の中の内曲輪には天守・櫓・御殿など城の中枢が置かれた。*1

姫路城は播磨平野(播州平野とも)の中に建てられているため山城ではない。しかし平城でもない。天守などの城の中枢は鷺山・姫山と呼ばれる小高い丘の上に造られているので、平山城である。

それでは姫路城を見ていこう。内堀では数日前から和船の運航が始まったので、なんでも体験ということで、乗り込んだ。なんと乗客は、江戸時代体験ということでもないだろうが、笠をかぶらされた。理由を聞くと、大手門前に架かる高さがあまりない橋をくぐるとき、乗客の頭が何かの調子でぶつかっても大事にならないようにするためだと教えてくれた。

舟からは城壁の様子がよくわかる。下の写真は石垣が切れるところである。左側の木があるところは、急斜面をそのまま利用して、城内への侵入を防いでいるとのことだった。

舟から見た大手門。左側の橋は桜門橋。この門は昭和13年に新造された。当時、姫路城は陸軍の練兵場として使われていたため、軍用の車両を通すため、間口が大きくなっていると話してくれた。

大手門を抜けると三の丸。姫路城がとても優雅に見える。

これから姫路城の奥へと入る。

城の中は次のようになっている。今回は、東京に戻らなければならない仲間がいて、時間が限られていたので、一気に天守へと向かった。

最初にある菱の門。華頭窓・格子窓の金色の装飾金具が輝いていた。また木彫りの花菱が冠木(かぶき)に取り付けられているのが見えた。

門を抜けると三国堀がある。ここからの城の眺めが一番良いとされている。

いの門。門にはイロハ順に名前がふられている。この門のつくりは高麗門である。

ろの門。これも高麗門である。

はの門。櫓門で、通り抜けるときに上から鉄砲や槍で攻められるようになっている。

にの門。やはり櫓門である。

ほの門へと進む。

ほの門の近くに「姥ヶ石」がある(金網で覆ってある石)。言い伝えでは、羽柴秀吉がこの地に城を建てようとしたとき石がなかなか集まらなかった。これを聞いた老婆が、この臼を使ってくれと申し出た。喜んだ秀吉はこの石臼を天守の土台に積んだ。この話を聞いた城下の人々が我先にと石を提供し、城は瞬く間に完成したということである。

そして天守に登る。天守は連立式で、大天守、西小天守、乾(いぬい)小天守、東小天守の大小四つからなる。大天守は、高さが33メートル、外観5層、内部7階で、現存天守としては最大規模を誇っている。

天守から見た姫路の街並み。下に三国堀が見える。

姫路城の歴史は古く、元弘元年(1331)の乱(鎌倉幕府打倒をもくろむ後醍醐天皇と北条家との戦い)のとき、播磨守護・赤松則村が陣を構えたのに始まり、正平元年・貞和2年(1346)則村の子貞範(さだのり)が築城したと伝えられる。赤松氏は目代・小寺氏にこの城を守らせた。

嘉吉の乱(1441)の後、一時山名持豊(宗全)が入ったが、天文14年(1545)小寺氏が御著(ごちゃく)城に移ってからは、その臣黒田氏が入った。天正8年(1580)に羽柴秀吉が毛利氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守を築いた。これが現在の姫路城の始めである。

しかし今日みるような建物が建てられ、現在のような規模に拡張されたのはもうすこしあとで、慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ってからであった。輝政は徳川家康の女婿で、播磨・備前・淡路を領する大々名で、本格的な近世城郭に大改修することを計画した。入封の翌1601年に着工し、9年の歳月をかけて完成させた。

天守が完成したのは1609年で、そのあと元和3年(1617)に池田光政(みつまさ)が鳥取へ転封し、桑名より本多忠政が入り、さらに松平(奥平)、松平(結城)、榊原、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と入れ替わり、寛延2年(1749)に酒井忠恭(ただずみ)が前橋より転封され、以後明治維新まで世襲した。

西の丸は時間の都合で訪問できなかったが、そこには千姫化粧櫓がある。千姫は、慶長2年(1597)に誕生、父は2代将軍となる徳川秀忠。母は織田信長の妹・お市の三女・江(ごう)である。7歳になったとき、11 歳の豊臣秀頼と結婚し、大坂城に入った。12 年後の大坂夏の陣のとき、千姫は落城する城内から救出された。

元和2年(1616)、本田忠刻(ただとき)の正室となる。義父の本田忠政が姫路に転封となり、忠刻と姫路入りした。この時西の丸に忠刻のための御殿が建てられた。間もなく、勝姫、幸千代姉弟を相次いで出産、本多家中は華やいだ雰囲気に包まれた。しかし幸せな日々は長く続かず、元和7年(1621)幸千代が、5年後には夫・忠刻、続いて忠刻の母・熊姫、さらに千姫の母・江が次々と他界した。忠刻亡き後、千姫は江戸・竹橋の御殿に帰り、下総・弘経寺の了学上人により落髪、天樹院と号した。寛文6年(1666)に没した。享年70歳。

姫路城の隣に兵庫県立歴史博物館があり、そこに大天守の骨格模型があった。大天守は地下1階・地上6階の7階建てで、地下から5階まで2本の心柱が貫いている。一方の心柱は一本の大柱で、他方は2本の大柱を継いで作られた。1階から5階までの床はこの心柱で支えられ、心柱がバランスをとっている。6階と7階の層は心柱の上に乗っかって、心柱の重しとなっている。下層が入母屋造の建物になっていて、その上に望楼を載せた天守を望楼式というが、姫路城も望楼式天守である。

今回の訪問では、俄かガイドの方に神経を集中したため、じっくりと姫路城を堪能することはできなかったが、白さが鮮やかで、とても優雅な城であるという印象を強く受けた。また機会があれば、その時はゆっくり見学したいと思っている。

次は岡山城である。

*1:明治22年(1889)に市政をひいたときの人口は24958人なので、江戸時代は2万人くらいと推定される