bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北城柵巡りの旅 角館・武家屋敷

秋田で古代の城柵を見た後で、角館で近世の武家屋敷を見学した。宿泊もこの地なので、旅館のバスが迎えに来るまで江戸時代にタイムスリップして散策を楽しんだ。駅前で荷物を旅館まで届けてくれるように手配し、ガイドマップを貰った。そこには次のように紹介されていた。

深い木立と重厚な屋敷構えで知られる角館町は、元和6年(1620)にこの地方を領していた佐竹一族の蘆名義勝*1によって造られた。三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に開いている地形が城下町にうってつけであった。そこで、現在の古城山(城跡)を北端とし、南に向けて三本の道路を設定して町造りを行った。それ以前は山の北側で、地の利や広さなどで難があり、水害・火災などもあったため、移設したとされている。町の中央部にある幅25メートルの広場は「火除け」と呼ばれ、武家地と町人地を分断している。北側の武家地は深い木立で覆われ、南の町人地は家並みがびっしりと続き、対照的である。町が造られた当時は、武家屋敷250戸、町家420戸であった。明暦2年(1656)に蘆名氏が断絶し、佐竹北家*2が入部して秋田藩の所領とし、佐竹氏一門筆頭の城下町となった*3。以来400年余り、町の形は大きく変わることなく現在に至っている。

Google Mapで現在の角館の周辺を見ると次のようである。三方を山に囲まれ、残った一方を川が流れていることが分かる。

Google Earthで町人地から武家地を見ると下図のようである。手前の幅広い空間(火除け:その一部は白色となっている)で、町人地と武家地は分断されていて、上部の緑で覆われているところが武家地で、下部は町人地である。奥の方に見えるのが古城山である。左側の川は桧木内(ひのきない)川で、図には表れていない下の方で、玉川から分岐している。

ガイドマップの主要部は下図のとおりである。散策のルートは、右下の駅通りを市街地に向かい、郵便局で右に折れ、武家屋敷通りに沿ってある。このルートは主要な見学場所をほとんどカバーしている。

それでは散策に出かけよう。出発点の角館駅で出会った秋田内陸縦貫鉄道気動車である。ここが起点で、終点はおよそ北100kmのところにある北秋田市である。

上記の説明では省いたが、角館には武家地が2ヶ所あり、先に説明したのは北側で、もう一つ南側にある。ガイドマップでは左側下部の紫で塗られた道沿いである。ここは田町武家屋敷と呼ばれ、佐竹氏の直臣である今宮氏とその武士団が移住した。今宮武士団の中で重んじられていた西宮家は、明治後期から大正時代にかけて最も繁栄した。明治後期の当主西宮藤剛(ふじたけ)は角館の初代町長を務めた。明治後期から大正時代に建築された主屋と蔵が現存している。
主屋である。

主屋内部には古文書や陶磁器などが展示されている。

道を挟んで新潮社記念文学館がある。この町出身の佐藤義亮は新潮社の創立者である。その業績に因んで記念館が建てられた。

駅前通りに戻って町人地を通る。道沿いにある秋田銀行の建物も角館の風情に溶け込むように建てられている。

郵便局を曲がってすぐのところに江戸時代から続く商家・たてつ屋がある。内部も公開されている。
商家の門はこのようになっていたのだろう。

7代目当主の妻の実家の打掛をミニ着物にしたとのことである。

屏風は角館出身の日本画家・寺澤幸太郎が描いた「松図」である。下には美人画と役者絵が飾られている。

押絵雛人形である。押絵が生まれたのは鎌倉時代とされ、江戸時代は大奥女中の手遊びとして流行し、やがて庶民に広がったそうである。角館には日本画家の平福穂庵・百穂親子を始めとしてたくさんの画家がいたため、雛人形・歌舞伎・縁起物の押絵が多く作られた。

冒頭で紹介した緑豊かな武家屋敷通りに入る。

小田野家の屋敷。小田野家は今宮家を介して角館の領主であった佐竹北家に仕えた。この屋敷は小田野直武の子孫が所有していた。小田野直武は、日本で最初に日本語に訳された西洋医学の教科書「解体新書」の図版を描いた。門の様式は薬医門である。薬医門は左右それぞれに2本の柱がある。武家の威厳を示し、階級ごとにその大きさや装飾が異なる。小田野家は中級武士であるため比較的簡単な造りとなっている。この門は家の当主よりも身分の高い武士が訪れた時のみ使用され、普段の出入りは脇の小さな門を使って行われた。

主屋の一室である。

主屋の外観である。

河原田家の屋敷。河原田家は蘆名氏の重臣として角館に移り、その後は佐竹北家に仕えた。明治以降も学者や政治家を輩出し、第16代当主河原田次重は私財で水力発電事業を手掛けるなど地域の発展に貢献した。現在の家屋は明治24年に建てられ、四室で構成された主屋は角館武家住宅の典型的な造りとなっている。
中級武士であるため同じように薬医門は比較的簡単な造りである。

主屋の玄関である。

岩橋家の屋敷。蘆名氏の重臣で、蘆名氏が絶えた後は佐竹北家に仕えた。屋敷と敷地の配置は、角館の中級武士の典型的な邸宅である。
門は比較的質素な薬医門である。

主屋の雨戸で、上から落とす構造になっている。子供の頃、このような構造の家が近くにあって、いつも不思議に思ってみていた。

主屋の外観である。

石黒家の屋敷。佐竹北家の用人(勘定役)を勤めた家柄である。石黒家の屋敷は慎ましく見えるが、角館で最も古い武家屋敷であり、石黒家がこの地域で高い地位にあったことを示している。

門は上級武士だけに許された重厚で格調高い薬医門であった。

柳家の屋敷。青柳家は蘆名氏の譜代で、蘆名氏断絶後はこの地域の新しい領主となった佐竹北家に仕えた。青柳家の屋敷は、この時期の武家屋敷の優れた史料である。
門は薬医門である。同じように重厚で格調高い造りである。

主屋、

主屋の一室、威厳に満ちた造りになっている。

武器蔵に飾られていた甲冑、これだけではなくいくつも飾られていた。

客用の掛布団で、模様が素晴らしい。

解体新書記念館には、先に説明した小田野直武関連の展示があった。解体新書の絵は彼が書いた。

小田野直武が16歳の頃に描いたとされる唐美人画である。きっと幼いころから絵がうまかったのだろう。

武家道具館には数々の鉄砲が展示されていた。

最後は山車である。

これまで見てきた武家屋敷はすべて薬医門だったので、これしかないのではと思われてもいけないので、そうでない家を探すと見つけることができた。

門の格式に拘った記事になってしまったが、この時代は、同じ武士でも身分・格式に差があり、お互いに相当に気を遣いながら生活していたのだろう。タイムスリップしてこの時代の風情を味わうのは楽しいが、現実の生活がこのようになってしまったらさぞかし窮屈な事だろうと思われた。今回は、角館に旅行客が集まる時期ではなかったので、ゆっくりと散策を楽しむことが出来た。ここは枝垂れ桜で全国的に有名で、その時は身動きが取れないほどに混みあうようだが、静かな環境で桜を楽しむ機会があれば良いのだがと望んでいる。

秋田城、武家屋敷とかなり歩き回ったので、角館の郊外にある旅館・花葉館で温泉に浸かって疲れをとり、次の日の旅行に備えた。

*1:義勝は天正3年(1575年)に佐竹義重の次男として生まれた。関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。慶長7年(1602)に父義重・兄義宣とともに秋田領に入り、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったとされている。

*2:佐竹北家は清和源氏佐竹氏の分流である。戦国時代に常陸国太田城の北に住したためにこのように呼ばれる。江戸時代に佐竹氏が出羽国久保田藩(秋田藩)に減転封されたとき同藩の一門家臣となった。

*3:角館の武家地には、もともとは蘆名氏の家臣であってその断絶によって入部した佐竹北家に仕えたものと、佐竹北家の入部に伴って角館に移住してきた家臣を祖先とする2系統の武家が居住していた。