bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-城めぐり・備中高松城跡

城めぐりの最後の記事は備中高松城跡である。そこは知らないという人でも、羽柴(豊臣)秀吉が水攻めにした城と聞けば納得だろう。あるいは本能寺の変が起き、織田信長が自害したことを知った秀吉は、目にもとまらぬスピードで京へ引き返したが、その時に戦っていたところが備中高松城であったことを知っている人も多いことだろう。今回は、友達が車でここを案内してくれたが、電車でも簡単に行ける。吉備線備中高松駅からすぐのところで、岡山駅から歩きも入れてせいぜい30分ぐらいのところである。

コトバンク備中高松城跡を次のように紹介している。ここは中国統一の鍵を握る吉備平野の一角、背後に山を控え、南西は足守川、三方が沼という平城ながら要害の地であった。永禄12~元亀元年(1569~70)ごろ備中松山城に拠る三村氏の重臣の一人石川久式(ひさのり)によって築かれ、久式が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされたあと、久式の家臣だった清水宗治が毛利氏に取り立てられて城主となった。天正10年(1582)に羽柴秀吉は3万余の大軍で包囲したが容易に落ちず、足守川をせき止めて城を水攻めにし、ついに講和開城させた。

高松駅の近くには蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡があり、そこには水没地域を示す案内があった。秀吉は、現在の吉備線高松駅から足守駅までの路線の南側に沿って、約3kmにわたって堤を築き、足守駅のちかくから足守川の水を取り込んだ。その時、梅雨とも重なって水かさが高くなり、高松城は水没した。

ウィキペディアには高松城の水攻めの錦絵が紹介されている。湖に浮かぶ城のように見えるが、籠城していた武士はさぞかし恐ろしかったことだろう。城は完全に孤立してしまったので、毛利氏は援軍を送ることができなかった。

蛙ヶ鼻築堤跡は現在は公園になっている。

このあと、備中高松城跡に移動した。高松城は北西から南東にかけて細長く延びる微高地上に築かれ、微高地の北西側に土壇をもつ本丸、中央部分に二の丸、南東側に三の丸があり、これらを取り囲むように微高地の北東側には堀または低湿地を挟んで家中屋敷があったと推定されている。本丸と二の丸は高松城址公園、三の丸や家中屋敷の辺りは宅地や田畑などに利用され、標高は本丸跡で7.7m、二の丸跡5~6m、三の丸跡5m前後である。高さを表示する板もあった。

三の丸跡。

城跡付近の光景。高松城水攻めののぼりがその場所を知らせるかのように立っていた。

水攻めの結末は急展開となった。天正10年(1582)6月2日に本能寺の変がおき、そのことを直ちに知った秀吉は、戦闘を交えている毛利氏と講和を結ぼうとして、領地の譲歩や城兵の助命などを条件に交渉した。6月4日に高松城城主の清水宗治が自刃することで和睦が成立し、開城となった。清水宗治は家来を守るために城を出て、水上の船において切腹した。辞世に「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と詠んだ。意味は、「浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ。武士としての名を高め、高松の地に生えた色あせない苔のように永く忠義の名を残して」である。秀吉は、振る舞いの見事さに「宗治は武士の鑑である」と嘆賞し、手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせた。

備中松山城の山城、姫路城・岡山城平山城備中高松城の平城を見学して、戦国時代から江戸時代初期の時代にかけての武士たちの夢を追いかけた。姿をとどめていない城もあったが、美術的に見てとても美しい城もあり、楽しむことができた。

天守閣が現存している城は、弘前城(青森県)、国宝・松本城(長野県)、丸岡城 (福井県)、国宝・犬山城(愛知県)、国宝・彦根城跡(滋賀県)、世界遺産国宝・姫路城(兵庫県)、国宝・松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)の12城である。このうち弘前・丸岡・彦根宇和島の4城はまだ見ていない。近いうちに見ることができれば良いのにと思っている。

このあとは寺院巡りへと続く。