bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北城柵巡りの旅 秋田城

やっと秋めいてきた時期を狙って、東北の城柵巡りをした。城柵という言葉を聞くとアラモ砦*1のような戦争のための要塞を思い浮かべてしまいがちだが、そうではなくて官庁(国の行政を行う組織)のイメージに近い。古代日本は律令制を取り入れて、朝廷・国・郡の階層的組織で構成され、それぞれの国あるいは郡には、国衙あるいは郡衙(郡家)が置かれた。城柵は国衙郡衙とそれほど変わらない施設であるが、異なるのは軍事的な機能も有していたことである。

城柵が初めて設置されたのは7世紀である。この当時、東北地方は続縄文時代で狩猟採集を生業とし、この地方に住む人々は蝦夷(えみし)と呼ばれた。それに対して境を接する西の方は農業(水田稲作が主)を生業とし、律令国家へと脱皮しつつあった。

律令国家になるまでの歴史を簡単にたどると次のようである。

3000年前ぐらいに朝鮮半島より北九州に伝わった水田稲作が東の方に伝わり、2000年前ごろには関東地方まで広がって*2、狩猟採集の縄文時代から水田稲作弥生時代へと移行した。水田稲作が盛んになった地域では、人々の間に格差が生じ、地域の豪族が誕生した。大和には大きな権力を持ったヤマト王権が出現し、行政区域としての国を制定し、その長として国造(くにのみやっこ)を認定した。また、豪族は権力の度合いが強ければ強いほど、大きな古墳を築造したのもこの時代の特徴である。この時期は、東北地方はヤマト王権の勢力下に置かれておらず、国も国造も認定されていなかった。従って、独自の社会を営んでいた。

権力の集中がさらに進み、飛鳥の地に中央集権的な朝廷が生まれ、7世紀中ごろになると地方組織として国評里制が制定された。この頃に、北方にすむ蝦夷への備えとするため、渟足柵(ぬたりのき)と磐舟柵(いわふねのき)が現在の新潟県北部に設けられた。7世紀後半には、越国より磐舟・渟足の2評が分離されて越後国が設けられた。

8世紀初めの大宝律令によって評が郡に改められ、国には朝廷から貴族(国司)が派遣され、郡には地方の有力な豪族(郡司)が任命され、里には地元の有力者(里長)が選ばれた。この頃、越後国に出羽郡が新設され、出羽柵も設けられた。これにより、現地の蝦夷の人々との間で軋轢が生じ、以後、両者間での戦いが絶えなくなる。この後、出羽郡を中心として出羽国が設けられた(712年)。

出羽国に隣接して陸奥国(これについては後の記事で説明)が設けられており、この両国を統括する政治的・軍事的中心は陸奥国に置かれた。両国は共に辺境の国であり、蝦夷の人々の生活圏と隣り合っていた。そして、彼らの地域をその政治体制下に徐々に組み込んでいった。出羽国では、出羽柵が北の秋田村に移設され(733年)、後に秋田城へと改変された(760年)。蝦夷の人々との争いが絶えなかったため、国司に次ぐ身分の秋田城介が常置され、これまで担ってきた国府の機能は城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された*3。また、陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍が両国を軍事的に統括した。

図で、赤い字の城柵が今回訪問した所である。なお、黄色の丸で示した城柵は未定であるため、その位置は正確ではない。

今回の旅で最初に訪問したのは秋田城なので、この城から始めよう。ここには、朝の便で羽田空港から秋田空港に飛び、空港バスで秋田駅に行き、そこからタクシーを利用した。

秋田城の概要をWikipediaから抜粋すると以下のようである。

秋田城の創建は、先に説明したように733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。

また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。

秋田市立秋田城跡歴史資料館のホームページには次のような秋田城跡の地図がある。図で真ん中左側の小さく囲んであるところが行政を行う役所で政庁である。そして大きく囲んであるところが秋田城の周りの囲いで外郭である。その外側には古代水洗トイレがある。さらには鵜ノ木地区復元建物がある。律令制国家は、仏教によって守られている鎮護国家であったため、官庁のそばには官寺が設けられた。

秋田城跡歴史資料館には秋田城のジオラマが置かれていた。ここでのそれは、東から政庁に向かって眺めたものである。ここで、中央左上に見えるのが政庁で、その入口にあるのが政庁の東門、さらに手前にあるのが外郭の東門である。右中央の古代沼の手前には寺院と客館が並んでいる。

Google Earthで見ると次のようである(方向は地図と一緒である)。左側から古代水洗トイレ、寺院跡、外郭東門、政庁、歴史資料館である。

まずは外郭の外側を見ていこう。きれいな街づくりをするために必要な古代水洗トイレの外観、

トイレ内部、

寺院跡には、それぞれの建物の柱が示されていた。


古代沼のそばでは、女性の方々が熱心にヨガの練習をしていた。

井戸も近くにあった。

外郭東門を内側から見る。

外側から見る。

軒先には軒瓦がない。

政庁へと向かう。政庁東門を外側より見る。

内側より見る。

政庁のミニチュア、


政庁内部(北側の建物跡)、

政庁の北側には護国神社があった。

この後、歴史資料館で秋田城跡から発掘された遺物を見学した。
漆が入った器に蓋をするために用済みの紙が使われたが、それが漆紙文書となって現在まで残った。

続日本紀には、出羽柵が天平5年(733)にこの地に移されたことが記載されている。

律令制になると行政は文書を交わして行われた。紙は高価だったので、木簡が使われた。

秋田城跡から出土した9世紀前半の小札甲(こざねよろい)を復元したものである。小札本体の材質は確認されていないが非鉄製の有機物と見なされていて、革と推定されている。

後城遺跡から出土した中国産陶磁器である。日本海を介して対面する渤海国と交流*4があったのではと推察される遺物である。

元慶2年(878)には、秋田城司の過酷な政治に対して城下の蝦夷の人々が蜂起した。この事件は出羽国始まって以来の大きなものであり、元慶3年まで続いた。蝦夷軍は秋田城・秋田郡家・周辺民家を襲い、一時は秋田城を占領した。秋田城の軍は鎮圧に難航し、都から派遣された出羽権守藤原保則が鎮撫してようやく終息した。当時の刀、

祭祀遺物、

トイレで使われた籌木、

木製品、

秋田城跡で特に興味を引かれたのは、プラタモリでも紹介された古代水洗トイレである。トイレの沈殿槽からは、未消化の種実類や寄生虫が発見された。寄生虫を調べたところ、海の魚であるサケやマスを中間宿主とする寄生虫の卵はほとんど見つからず、コイ科の淡水魚を中間宿主とするものが比較的多かったことから、このトイレの使用者は地元の人ではなく、畿内(近畿地方)からの人ではないかと思われているそうである。1300年前の沈殿物の正体が分かるのも大したものだが、そこからさらに思わぬ発見があって面白いものだと感じた。

秋田城跡を十分に堪能し、秋田駅に戻って改札口前に置かれているなまはげと秋田犬を見学した。


ここから去るため、荷物を預けたロッカーを開けようとしたら、ICカードが働かない。少し焦り気味で係に電話したら、快く現場に来てくれやっと解決した。ほっとして秋田新幹線で次の訪問先の角館に向かった。

*1:テキサス独立戦争のために少数のテキサス人が数千のメキシコ軍と戦った僧院

*2:東北地方には、関東よりも早く水田稲作が伝わったが、気候条件などから生産性が上がらず、定着するには至らなかった。

*3:城輪柵と最初の出羽柵はと同一の場所の可能性が高い。

*4:渤海国は727~919年まで計34回の使節を日本に派遣し、8世紀に来航した13回中6回は出羽国に来着したという記録がある。この時期、新羅との関係が悪化していたため、遠州海・サハリン・北海道を経由する北回り航路や日本海を直接横断するルートをとっていたと考えられている。また、古代水洗トイレの沈殿物からは豚を中間宿主とする寄生虫も発見され、豚の飼育が盛んだった渤海人が使用したのではないかと考えられている。