bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -国衙・郡家-

神奈川県立歴史博物館で、律令制の時代を中心とする遺跡展が開催されている。律令制下での神奈川県は、西の地域が相模国、東が武蔵国であった。律令制では国の下部組織として郡が置かれた。相模国には8郡、武蔵国には22郡が設けられそのうちの3郡が現在の神奈川県に属していた。役所として、国には国衙が、郡には郡家が置かれた。また仏教による鎮護国家であったため、国には男性の僧のために国分僧寺が、女性の僧のために国分尼寺が、郡には郡寺が官寺として設けられた。

郡家としてよく知られていたのは長者原遺跡である。ここは武蔵国都筑郡の郡家跡である。残念ながら東名高速道路の開通に伴って遺跡の西半分は調査することなく破壊された。残りの東半分が10年後の1979~81年に調査され、郡庁、正倉院、郡司舘、厨が発見され、横浜市歴史博物館にはその模型が展示されている。都筑郡の隣の橘樹郡の郡家は近年発掘が進み、正倉院跡が発見され、一棟が復元中である。また近くの影向寺(ようごうじ)は郡寺で、現本堂の下は金堂であった。

相模国内の郡家で発掘が進んでいるのは下寺尾官衙遺跡群である。2002年に茅ケ崎北稜高校の校舎の建て替え工事が計画されたとき遺跡が発見された。その結果、校舎の建て替えは中止され、移転先を探している。ここは高座郡の郡家跡で、郡庁院・正倉院が発見された。また地元では古くから古代寺院があったことが伝えられ、1957年には「七堂伽藍跡」の碑が建てられた。2000~10年にかけて調査がなされ、大型掘立柱建物跡が見つかった。金堂と講堂があったとされているので、そのいずれかであろう。また伽藍区画溝も発掘された。そのほかに郡家の施設として郡津、交通路、祭祀遺跡が見つかった。

相模国国衙についてははっきり分かっていない部分が多いが、近年では、平塚市から国府国庁脇殿推定建物が発見され、少しずつ成果が出ている。武蔵国国衙は東京の府中市である。

相模国国分僧寺国分尼寺は海老名市にあり、武蔵国のそれらは東京の国分寺市にある。

律令制が整う前のヤマト王権(古墳時代)では、国造が置かれた。相模には師長国造、相武国造、鎌倉別、武蔵東部には无邪志国造が設置された(なお北西部は知々夫国造で、それ以外のところについては諸説あり、武蔵国造も候補の一つである)。律令制に伴って、師長国造は足上・足下・余綾(よろぎ)郡に、相武国造は高座・大住・愛甲郡に、鎌倉別は鎌倉・御浦郡になった。

それでは展示物を見ていこう。最初はヤマト王権の頃である。この時代は古墳時代とも呼ばれ、3つの時代に分けられる。畿内と神奈川では様相が異なる。

畿内では次のようであった。前期は円墳・方墳・前方後方墳前方後円墳が作られ、鏡・玉・碧玉製腕飾りなど司祭者的・呪術的宝器が埋葬された時代である。中期は巨大な前方後円墳が作られ、甲冑・馬具などの軍事的なものや農具など実用的なものが埋葬された。後期になると、小規模の前方後円墳・円墳・方墳・群集墳・横穴墓群となり、金属製の武器や馬具、土師器・須恵器などの副葬品が一緒に埋められた。豪族たちの威信材が墓から副葬品へと変化していった。

神奈川の古墳時代は、古墳の数もそれほど多くなく、規模も小さいのが特徴である。前期後半に比較的規模の大きい前方後円墳が現れ、中期には古墳がほとんど見られなくなり、後期になると群集墳や横穴墓が爆発的に増えた。

入り口には千代廃寺の軒瓦がある。この寺は師長国造の豪族によって建設され、足下郡の郡寺であっただろうと推測されている。

白山古墳(川崎市古墳時代前期)の銅鏡が飾られていた。銅鏡は生産国や大きさの違いによって、ヤマト王権と地方の豪族との結びつきの程度が分かる。

登尾山古墳(伊勢原市古墳時代後期)は、金目川の支流である鈴川流域の比々田神社周辺に存在する古墳群である。古墳からは河原石を積み上げて造られた横穴石室が確認され、多くの副葬品が発見された。
銅椀、

直刀、

雲珠、

五獣形鏡。

須恵器(高坏)と土師器(坏)。

また唐沢・河南沢遺跡(松田町)には、横穴墓群があり、須恵器が発見されている。

律令制が始まると、官人たちは木簡を用いて文書主義で業務した。
官人の大事な七つ道具、

宮久保遺跡(綾瀬市)の木簡。これは、鎌倉郷が記載された最古の資料であり、田令・郡稲長などの郡雑任や軽部という部姓氏族の資料で、古代の地方行政について語ってくれる。

居村B遺跡(茅ヶ崎市)の木簡。茜などが記載された古代税制や染色の様子などを伝えてくれる。

北B遺跡(茅ヶ崎市)の漆紙文書付土器。下寺尾官衙遺跡群から発見された県内最古の漆紙文書である。漆を入れた容器に文書が書かれた用紙を蓋として使い、漆がしみて乾燥し遺物として残った。

それでは武蔵国衙からの出土品を見ていこう。律令制が敷かれたころには、釉薬を塗った陶器が現れるが、その中で緑釉陶器は貴ばれた。
軒丸瓦、

緑釉陶器、

須恵器、

緑釉陶器。

律令制の時代には、国衙や郡家が設置されていたところだけでなく、官人たちが住んでいただろうと思われるところからも遺物が発見されている。
富裕層や在地化した官人の住居跡からと考えられる本郷遺跡(海老名市)の緑釉陶器と土師器、

本郷遺跡(海老名市)の灰釉陶器。

このようなところから発見されることは珍しいが、小規模な竪穴式住居から出土した上吉井南遺跡(横須賀市)の灰釉陶器、

国衙や郡家の建設に携わった関係者の居住域であったと考えられる梶谷原B遺跡の三足壺。

国府出先機関の一つがあったと考えられる厚木道遺跡(平塚市)の金属製品の鍵と焼印、

相模国府の国庁の建物址が見つかった六ノ域遺跡(平塚市)からの金属製品の八稜鏡、

ここまでが国衙・郡家に関する展示である。国分寺を始めとする宗教関係の遺跡については続きで紹介する。