bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

お台場の夜景を楽しむ

お台場に行った。それもフジテレビ本社の18階の食堂に行った。ここは夜景のきれいなところとして知られている。まずは写真から。中央左側の橋はレインボーブリッジ、左下の像は自由の女神像(ニューヨークの1/7のサイズ)。下半分のところに浮かんでいるのは屋形船。対岸の左側は芝浦、中央の橋の橋脚の上から出ているのが東京タワー、右側は新橋である。

地図で示すと、赤いマークがあるところがフジテレビ本社である。ここから左上部にある東京タワーを見るようにした写真となる。

お台場は、今日でこそ、フジテレビ本社やショッピングモールのダイバーシティー東京プラザで有名で、観光客の訪れるところになっているが、幕末には江戸を守る場所であった。嘉永6年(1853)のペリー来航は、江戸幕府の役人だけでなく町人・百姓に至るまで、多くの人々を驚愕させた事件であった。これを機に砲台を設置して防備に備えたのがお台場である。その概要はウィキペディアには次のように記述されている(一部修正)。

嘉永6年(1853)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国を迫った。脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘の命でお台場を築造した。江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に11基ないし12基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ、およそ8か月の工期で嘉永7年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部が完成し、品川台場と呼ばれた。お台場は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけた呼び名である。

2度目のペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した。第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。

完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることも狙った。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を吹くことなく開国することとなった。

現在は、ダイバーシティー東京プラザで、ガンダムが守りを固めている。ガンダムには平和がずっと続くことをお願いした。