bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

江戸時代の学び方

歴史の同好会で年に一度の発表の時期が巡ってきた。昨年まではほぼ秋だったのが、今年はなぜか早春に回された。発表予定の順番が決まるのが12月も押し詰まった年末である。これまでは半年以上も時間をかけて構想を練ればよかったが、今年は短い期間の中での準備となってうまく纏められるか、スケジュールが発表されたときは心配になった。

70歳で退職してすぐに、基礎的な知識さえ持ち合わせていなかった日本史の勉強を始めた。一人では持続できそうもないので、仲間を求めて入会したのが今の同好会だ。ここでは毎月2名の会員が発表することになっている。入会した次の年から発表する仲間に入れてもらった。教科書にしたがって、古い時代から始めて新しい時代へと話題を見つけながら、これまで話を続けてきた。昨年は室町時代雪舟について話題を提供したので、今年は江戸時代にして、この時代の人々がどのように学んできたかについての話をすることにした。

同好会での研究発表は、自由な雰囲気が良い。在職していたときも論文執筆は年がら年中だったし、国際会議にも頻繁に出かけた。しかしそこでの論文は審査を受けたいわゆる公的な論文である。それに対して同好会でのそれは、審査などはないし、発表の形式も自由である。のびのびと自分の意見を仲間たちに話をできることが楽しい。

現在の学びの場はもちろん学校である。それに対して江戸時代は藩校や寺子屋である。前者は教える枠組みが定まっている公教育であるのに対して、後者は教える側の自由意思に任された私教育と言っていいだろう。ちょうど退職前に書いていた論文が前者に当たり、退職後のそれが後者に当たる。どちらの方がよいのだろう。

それにしても江戸時代の学びの場はとても大きな広がりを持っていた。庶民から武士階級まで、これほど多くの人たちが学び舎に通ったことは奇跡に近いように思える。多くの人たちが社会からの要求にこたえて知識を身に付けることを強いられたともいえそうだし、あるいは持て余している時間を潰すために本を読むという娯楽に没頭したともいえそうである。いずれにしても識字化率が高まったことで、明治という新しい時代に脱皮できたといえる。このように考えるといくつもの疑問が沸き起こってくる江戸時代の学びについてまとめてみようと考えて以下の報告を行った*1

*1:著者名だけペンネームに変えてある