bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北海道・縄文の旅(3日目)

北海道縄文の旅も3日目。札幌から函館へと向かう。縄文時代には津軽海洋文化圏の一翼を担った地域で、2年後の世界文化遺産登録を目指して張り切っている。初日のキウス周堤墓群、これから訪ねる北黄金貝塚、明日の大船遺跡と垣ノ島遺跡、それと今回は訪問しないが入江・高砂貝塚が、北海道側のメンバーだ。

津軽海洋文化圏は、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」に代表される現代人の固定観念とは、対立する考え方だ。本州と北海道の間に横たわる荒々しい津軽海峡は、両者を断絶するものと考えがちだが、縄文時代の人々は、そうではなく、人をつなぐ生活の場と考えていたようだ。この縄文の人たちの心を少しでも理解するために、津軽海洋文化圏の北海道側をとりあえず見ておこうというのが今回の旅の目的だ。

この日の行程は、札幌を朝7時半に立ち、途中で北黄金貝塚情報センター、史跡ピリカ遺跡、五稜郭・函館奉行所を経て、7時にホテルに到着だ。移動距離は350km、車の中で過ごすことが長い一日だ。
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この日は、二つの低気圧が渡島半島を挟み、天気予報は雨だった。バスに乗っている間は雨が降ることは殆どなかったが、遺跡を見学しているときはなぜか土砂降りの雨に見舞われた。案内をしてくれた方が、この地域は、海に挟まれているため、天気の変化が激しくなりがちだとのことだった。さらに遺跡となるような場所は、水が得やすいところが選ばれる傾向にあるので、どうしても湿潤なところになるとも教えてくれた。

1.北黄金貝塚情報センター

ここは情報センターと遺跡とが一緒になっている。まずは遺跡の見学から始まった。今回の説明は情報センターのボランティアさんがしてくれた。彼は、土砂降りの雨の中を傘もささずに、我々が待っている貝塚(もちろん復元されたもの)に向かって、草が刈りこまれた道を進んできた。
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彼の説明によれば、北黄金貝塚は、縄文時代前期(約6,000~5,000年前)に人々が定住した、台地上の貝塚と低地の水場遺構を中心とした集落遺跡だそうだ。指定面積は9ha弱で、貝塚、住居跡、墓、鹿用落とし穴、盛土遺構、水場の祭祀場が発見された。

貝塚は2か所あり、説明を聞いた場所の貝塚(下の写真で白い部分)からは、縄文人の墓と、14体の人骨が発見された。
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もう一つの貝塚(下の写真で奥の方に小さく見える白い場所)は一番古いもので、貝の種類から今よりも温暖だったことが分かっているとのことだった。
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貝塚から少し低いところに復元された集落がある。
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さらに下ると水場があり、ここは祭祀場の跡だ。使わなくなった道具を割って、供養したとのことだった。
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情報センターには遺物が飾られてあった。磨石と石皿が中央部にたくさん飾られていた。磨石は掴みやすいように頭部が丸みを帯びているのが特徴だった。先の水場で見たのは、これらの石を割ったものだ。
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館内には次のようなものも展示されていた。貝塚の断面、
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発見された人骨(復元)。
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骨で作られた装飾品も飾られていた。クジラの骨でできた刀、
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ヘアーピン、
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ネックレスだ。
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土偶もあった。
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昼食は長万部駅近くのお寿司屋さん。この駅は、函館本線室蘭本線の分岐点だ。かつてはにぎわっていたと記憶をしていたが、すっかりさびれていた。この近辺には、我々が利用したお寿司屋さん以外には、団体で利用できるようなところがなく、ここがなくなると大変だと添乗員の方が話してくれた。
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2.史跡ピリカ遺跡

お昼後の見学場所は旧石器時代のピリカ遺跡だ。ここも遺跡跡と文化館が一緒になっていた。写真は遺跡跡だが、土砂降りの雨で、入っていく気にはなれず、遠目に見るだけだ。
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ピリカはアイヌ語で「美しい」を意味する。最近では「ゆめぴりか」というお米が有名なので、馴染みやすい。

この遺跡は、20,000~10,000年前のもの。ピリカベツ川左岸のなだらかな20haの丘陵地帯で、20万点もの石器が発見されている。
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発掘時の復元だ。
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館内には旧石器時代の道具が展示されていた。
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北海道・東北でのナイフ形石器を出土した遺跡、
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大陸を含めてのくさび型細石刃核を出土した遺跡だ。
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3.五稜郭箱館奉行所

3日目の最後の見学場所は箱館奉行所だ。幕末の安政元年(1854)の日米和親条約により下田とともに箱館も開港され、箱館山麓箱館奉行所が設置された。しかし港湾に近く防備上不利であることから、内陸部の亀田に移設することになった。

新しい奉行所の外堀には、ヨーロッパの城郭都市を参考に、西洋式の星型五角形の形状の土塁が築かれた。その形から五稜郭と呼ばれている。五稜郭のような星形要塞は、火砲に対応するために、15世紀半ばにイタリアで発生したとされている。17世紀後半には、フランスのルイ14世の技術顧問であった建築家ヴォーバンによって、論理的に究極の形にまで発展させられた。しかし射程距離の長い大砲が導入されるようになると、星形要塞は衰退しはじめた。五稜郭が造られたのは、19世紀もすでに半ばになっていたので、ヨーロッパではすでに時代遅れとなっている技術を用いて建築されたということになる。

五稜郭は、安政4年(1857)より7年の歳月をかけて完成し、蝦夷地の統治と開拓、箱館港での外国との交渉など、幕府北方政策の拠点として使われた。文久3年(1863)の大政奉還により、明治政府の役所として引き渡されたが、明治元年(1968)榎本武揚土方歳三らに占拠され、戊辰戦争最後の箱館戦争の舞台となった。明治4年(1871)に開拓使により奉行所を含むほとんどの建物は解体された。そののちは公園として利用されていたが、平成22年(2010)に箱館奉行所は再現された。

奉行所を正面から見たところ、
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内部にある大広間、
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大広間の床の間、
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五稜郭の入り口、
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五稜郭を上から見る。
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この日のホテルは温泉付き。ここまでの疲れを取り、この旅行の最後の日に備えた。