bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北海道・縄文の旅(2日目)

2日目はパワースポット巡り。積丹半島の付け根にある余市・小樽近くのフゴッペ洞窟、西崎山環状列石、忍路環状列石、手宮洞窟保存館、小樽貴賓館、小樽運河を見学する全行程120Kmの旅だ。1日で移動するのにちょうどよい距離だろう。
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8月の初めごろ、カリフォルニアの友人から、彼の知人夫妻が日本を旅行するので、相談にのって欲しいという依頼があった。そのご夫婦の方から、今回の旅行を始めるちょうど1週間前に、簡単な日程が送られてきた。北海道からスタートして、そのあと広島に飛び、東京に戻ってくる予定で、1カ月にも及ぶ長い旅行だ。さらにそのあと、ハワイに寄って何日間かを過ごし、やっとカリフォルニアに戻るというものだ。アメリカ人は体力に恵まれていることは知っていたけれども、これほどとは思わなかった。

私も北海道に旅行する予定であることを伝え、彼らの要望に合うように、日本歴史の時代区分に従って、それぞれがどのような時代だったかを簡単に説明し、見るべき場所・建物・遺跡などを教えてあげた。想像した通りこれは好評だった。またレンタカーを使って移動するいうことだったので、日本は右ハンドルで、交通標識も英語表示にはなっていないので、十分気をつけるようにということと、1日の移動距離は100~150マイルぐらいに抑えた方が良いというアドバイスを差し上げた。この点はあまり理解されなかったようで、英国やニュージーランドで、右ハンドルで運転したから大丈夫と言う返事を頂いた。ちなみに彼らはともに72歳。このところ話題になっている老人ドライバーに仲間入りする年齢だ。やはり心配ですね。

話はそれたが、今日の行程はアドバイスした距離よりは短いので、移動中は安心してドライバーさんに身を任せた。

1.フゴッペ洞窟

最初の目的地は今市町にあるフゴッペ洞窟。高速道路を利用して、札幌から1時間弱の距離だ。かつてNHKの朝ドラ「マッサン」が好評を博したが、マッサンがウィスキーの醸造を始めたのが余市だ。放映されていたころは、醸造を訪れる観光客で引きも切らないほどの賑わいだったが、今でも続いているのだろうか。

フゴッペ洞窟を発見したのは、当時中学生だった大塚誠之助さん。昭和25年に海水浴に来た彼は、ここで土器片を発見した。札幌南高校で郷土研究会に属していた兄に相談したところ、思わぬ展開になって、翌年より北大助教授の名取さんを中心とした調査団が活動し、刻画が発見された。刻画は続縄文時代後期に描かれた北海道独特の文化だ。

洞窟は暗くて見にくいので、原寸大模型になって刻画とともに別室で展示されていた。
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刻画がはっきりと表れるように一部分を拡大してみよう。人だろうか鳥だろうか、生き物が描かれているように見える。
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本物の洞窟は別室の奥にあり、薄暗い中で、刻画を見ることができる。但し撮影は禁止。
洞窟からは江別郷土資料館で見たのと同じ江別式土器(後期北海道式薄手縄文土器)も出土している。この土器は続縄文時代の土器だ。
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刻画を描くために使われたであろう角斧(左下)、占いのための鹿骨の卜骨(右)などもあった。これらも続縄文時代だ。
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擦文時代の太刀も展示されていた。
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2.西崎山環状列石

西崎山環状列石は今市町にあり、その構造や発見された土器から、縄文時代後期(約3,500年前)の墓域と推定されている。この丘陵には4つの列石群が発見されている。今回見学したのはそのうちの一つの列石群だ。ここには、現在7つの環状列石が残っており、それぞれは直径約1mの環状になるように自然石を配置している。かつてはもっと存在したようだ。
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墓域から眺める景色は素晴らしい。日本海を望むことができる。千島海流対馬海流がぶつかり合い、豊かな漁場が展開されている場所だ。
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3.忍路環状列石

忍路環状列石は小樽市にあり、やはり縄文時代後期の墓域だ。万延元年(1861)に発見され、1880年代に札幌農学校の田内捨六によって発掘調査され、明治19年(1886)には渡瀬荘三郎によって、大西洋岸で発見されたストーン・サークルに因んで、「環状石離」と命名された。そのあと配列の一部が持ち出されたり、大正11年(1922)の皇太子行啓に備えて修復されたりしたため、原形をとどめていない。写真からも分かるように環状の中の石が極めて少ない。遺跡の保存の仕方の移り変わりを教えてくれる遺跡でもある。
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4.手宮洞窟保存館

手宮洞窟は、慶応2年(1866)小田原からニシンの番屋建設に来ていた石工の長兵衛によって発見された。明治11(1878)年榎本武揚によって彫刻が学界に紹介された。さらにミルンによってはじめて学術的な観察と報告がなされ、開拓使の渡瀬荘三郎などによってつぎつぎと調査がなされた。

そのあと前面の岩が削られたり、鉄道が敷設されたりしたため、当初の姿を徐々に失ったが、明治の中頃から雨除けの廂が設けられたりして保存され、大正10年(1921)には国指定史跡となり、そのあとも整備が続けられ、現在に至っている。ここも文化財の保存の仕方の歴史を知ることができる施設だ。

なお刻画は、1600年前頃の続縄文時代中期~後期に描かれている。
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風化が進んでいて、目を凝らさないと刻画を見つけるのが困難だ。下の写真のような刻画が描かれていたそうだ。
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4.小樽貴賓館

今日の昼食は旧青山別邸だ。ニシン御殿小樽貴賓館とも呼ばれている。

旧青山別邸は、ニシン業で巨万の富を築いた青山家の3代目政恵によって建てられた別荘だ。初代の青山留吉は、天保7年(1836)に山形県遊佐町の貧しい漁家に生まれ、幼少の頃は父の漁業や母の行商を手伝っていた。18歳のとき養子に出されたが、旧習に馴染めず、家に戻ったあと、24歳の時に北海道の漁場に渡った。

最初は雇漁夫として働いたが、1年後に小規模ながら祝津(小樽)に漁場を開いた。そして明治期に積丹半島に漁場を増やし、道内有数の漁業家になった。故郷遊佐で、土地を入手し、本宅を建築し、大地主となった。明治41年(1908年)留吉が73歳の時に、養子の政吉に家業を譲った。

留吉の故郷である旧庄内藩(山形県)には、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」と言われるほど、北前船で財を成した本間家があった。本間家は並外れた豪商で、酒田を本拠としていた。

留吉と政吉とによって巨万の富を得た青山家を継いだ3代目の政恵(政吉の娘)は、17歳の時に酒田の本間邸に魅せられそしてこれに負けないような邸を自ら持ちたいと思い、大正6年(1917)より6年の歳月をかけて旧青山別邸を小樽の祝津に建てた。

旧青山別邸で昼食したあと、ここを見学した。とても贅沢な造りだという一言に尽きるが、残念ながら、写真の撮影は大広間だけだ。別邸の入り口、
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大広間、
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大広間の天井だ。
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5.小樽運河

小樽は自由時間だったので、歴史的建造物を訪れた。今日の小樽市は観光地として有名だが、かつては北海道の中心的な存在で、港湾都市として栄え、日銀通りに沿って、日本銀行をはじめとする主要な銀行が支店を出し、北のウォール街と呼ばれるほど活況を呈していた。その名残を伝えてくれるのが古い建物だ。

次の2つは小樽市指定有形文化財になっている建物だ。

日本銀行旧小樽支店 建設年次は明治45年(1912):明治26年(1893)に日本銀行の派出所が初めて開設。そのあと出張所を経て支店に昇格。 平成14年(2002)に廃止。レンガ作りの壁にモルタルを塗り、屋根は銅葺き。辰野金吾・長野宇平次・岡田信一郎の設計。東京駅に代表される「辰野式」とは異なり、岡田の意匠によるところが多いとされている。
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三井銀行小樽支店 建設年次は昭和2年(1927):三井銀行は明治13年(1880)に小樽出張店を開設。平成14年(2002)年に閉鎖。現在の建物は6代目。工部大学校一期生である曽禰達蔵設立の曽禰中條建設設計事務所が設計。ルネサンス様式の建造物。小樽で初めての鉄骨鉄筋コンクリート
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ここからは小樽市指定歴史的建造物になっている建物だ。

旧金子元三郎商店 建設年次は明治20年(1887):明治・大正期に海陸物産、肥料販売、海運業。建物の両端にうだつ(防火壁)。2階正面の窓は漆喰塗りの開き窓。
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正面の建物ではなく、右側の建物が旧第百十三国立銀行小樽支店  建設年次は明治28年(1895) :小樽支店として使用。業務拡大に伴い北寄りに移転。そのあと木材貿易商事務所や製茶会社建物として使用。寄棟の瓦屋根にトンガリ飾りの和洋折衷。明治の面影をよく伝える。
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旧岩永時計店 建設年次は明治30年代(1897):平成3年に改修され、創建時の姿に。屋根の装飾、軒の繰り型など細部にも凝ったデザイン。瓦葺屋根を飾る一対の鯱は商店では珍しい装飾。
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旧名取高三郎商店 建設年次は明治39年(1906):山梨出身の銅鉄金物商。明治37年の大火後に建設。西側と南側に開いた形でうだつ。外壁は札幌軟石、上部壁体を鉄柱で支持。明治後期の代表的商業建設。
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旧百十三銀行小樽支店 建設年次は明治41年(1908):支店の設置は明治26年。当初の建物は南寄りにあったが、業務の拡大に応じてここに建設。寄棟、瓦屋根、角地に玄関で、ギリシャ建築を思わせる。
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右から3番目の茶色の古めかしい建物が旧北海雑穀株式会社 建設年次は明治42年(1909)以前:木骨石造構造、瓦葺の切妻屋根、開口部に鉄扉。正面両脇に袖壁。2階に竿縁天井や床の間があり、和室の面影。彫刻模様付きのカーテンボックスや上げ下げの窓。和洋折衷。
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三菱銀行小樽支店 建設年次は大正11年(1922):当初は外壁に煉瓦色のタイルだったが、昭和12年に現在の色調に。1階はギリシャ・ローマ建築様式。
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北海道拓殖銀行小樽支店 建設年次は大正12年(1923):小樽経済絶頂期に建設。銀行ホールは2階まで吹き抜け。6本の古典的円柱。
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旧第一銀行 小樽支店 建設年次は大正13年(1924):当初は道路側の2面に3階通しの大円柱があった。
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三井物産小樽支店 建設年次は昭和12年(1937):玄関・1階の壁の黒御影石と、2階以上の白色タイルとでコントラスト。玄関ホールの内装は琉球産大理石。
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この後は札幌に向かい、明日に備えて早めに床に就いた。