町田市立国際版画美術館では、毎月第4水曜日が「シルバーデー」となっており、シニア世代にとって嬉しい日である。「日本の版画1200年」の後期展示が公開されるとのことで、今回訪問した。前期展示に続く再訪であり、前回見逃した南北朝時代から室町時代にかけての仏教版画と、後期展示の作品を中心に鑑賞した。なお、作品の紹介については、図録に掲載されていた原文をそのまま使用している。
十二天像(与田寺版)の内の八天 地天・閻魔天・帝釈天・梵天。
南北朝・室町時代初期には京都五山の出版文化の隆盛とともに仏教版画の大型化が進み、至徳2年(1385)の大阪市立美術館本不動王明王像や応永9年(1402)の浄光寺本仏涅槃図が生まれた。《十二天像の内の八天》はこれらに続く優品で、讃岐国の真言僧増吽(1366-1449)が応永14年に開版したことが銘文から判明する。開版地の与田寺には版木が現存し、「与田寺版十二天」として名高い。像容は均整が取れ、下絵の墨線の調子はいきいきと再現される。十二天像は密教儀礼の灌頂では不可欠で、版画によって多くの需要に応じたとみられる。(後略)。

風天像。
(前略)。小型の版本十二天像のうちの五尊である。風天像には「フ」、地天像には「チ」というように尊名を示す片かなが画中隅に記され、普及を前提とした配慮が読み取れる。

毘沙門天像。
(前略)。室町時代には肉質の仏画と同様に密教儀礼の場で使用可能な大型木版画の開版が進んだ。(中略)。室町時代の作例の多くは版刻線の味わいを残して彩色するが、《毘沙門天像》は濃密な彩色で版刻線を塗り籠めており、制作年代の下降を感じさせる。

円窓の二美人図。
(これらは)女性像を描いた作。明末徽派版画において典型化した仇英美人像を踏襲し、微笑を浮かべる瓜実顔が特徴である。そのうち《円窓の二美人図》には、窓の外に描かれた風景に透視図法が用いられている。さらには銅版画のハッチングの技法に基づく表現も成されており、西洋画の影響が窺われる一作である。

美人図。

歌川豊春:阿蘭陀フランスカノ伽藍之図。
歌川豊春(1735-1814)は、浮世絵最大流派である歌川派の祖。明和年間(1764-72)後期から天明年間(1871-89)を中心に、透視図法を強調的に用いた浮絵を手掛け、それまでと比べてより開放的な景観を画中で実現した。(中略)。《阿蘭陀フランスカノ伽藍之図》は、ロンドンで出版された『古代ローマの遺跡』(ロバート・セイヤー社)を原図として描いた作。画中には古代建築物が描かれるとともに、銅板画技法の線影表現を模した形跡が見られる。

司馬江漢:画室図。
司馬江漢(1747-1818)は、天明3年(1783)、腐食銅版画(エッチング)を日本で初めて製作した人物として名高い。はじめ狩野派を学んだ江漢は、明和年間には一世を風靡した浮世絵師の鈴木春信の作品を追随したのち、明和後期には宋紫石から南蘋画を学び、安永9年(1780)以降は洋画家に転向した。(中略)。銅板画《画室図》は画家の自画像である。背景には西洋風建築が描かれ、江漢の異国憧憬を明確にものがたる。(後略)。

葛飾北斎:冨獄三十六景
染料の顔料であるベロ藍は、ドイツのベルリンで発見されたことに因み命名され、幕末期に輸入された浮世絵の色彩表現に革命をもたらした。ベロ藍を大胆に用いた初期の浮世絵版画として、葛飾北斎の代表作「冨獄三十六景」が挙げられる。富士山を題材とした本シリーズは、「三十六景」とあるが、往時からその人気はすさまじく、結果として46図制作された。《遠江山中》は、現在の静岡県からの眺望を描いた作で、巨木とそれを支える柱から富士を覗き見る構図をとる。(後略)。

歌川広重:東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図。
北斎と並んで浮世絵風景画を代表する絵師として知られる歌川広重(1797-1858)の出世作となった揃物。従来の東海道物の錦絵が海道風俗を主体とした描写であったのに比べ、風景描写を格段に充実させたことが成功の要因であった。透視図法的な視覚に基づいて風景を水平に捉え、豊かな奥行を確保するとともに、雨、雪、霧などの気象現象を巧みに織り込み、実景感と情緒性豊かな画面を作り出している。空や海、あるいは草原などにベロ藍およびその混色を巧みに用いて画面に清新感を生み出している。北斎の「冨獄三十六景」とともに浮世絵風景画の確立期を代表する揃物となっている。

歌川国芳:唐土二廿四孝 呉猛。
二十四孝とは、24人の孝行者を指し、中国元代において確立した題材である。舶来後、日本においても家訓画として親しまれた。本作は幕末の人気絵師・歌川国芳(1797-1861)による「二十四孝」の揃物であり、明確な陰影表現を用いる点に西洋画への傾倒が看取される。国芳は初代歌川豊国の門人で、「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」をきっかけに武者絵を代表する絵師となる。美人画や戯画など幅広いジャンルを手掛けた国芳であるが、天保年間には既に洋画表現を自作に取り入れている。「唐土二廿四孝」のうち、《大舜》と《呉猛》に描かれたモチーフは、それぞれニューホフ著「東西海陸紀行」を典拠としていることが判明しており、国芳は同書から想を得た洋風表現を多数の作で用いている。

月岡芳年:魁題百撰相 鷺家平九郎。
本揃物は、南北朝から江戸時代の賢臣を題材とするが、刊行開始時に勃発していた戊辰戦争の見立絵でもある。戦いの中で負傷し、流血する武士たちが残酷でありながらも美しく描かれ、月岡芳年の代名詞(1839-92)とされる「血みどろ絵」の一作に数えられる。(中略)。芳年は嘉永3年(1850)に歌川国芳の門人となり、明治浮世絵を牽引した絵師。本揃物では人物の瞳に反射する光が白い点として描写されているが、これは国芳が揃物「誠忠義士肖像」で試みた洋風表現を踏襲したものである。

小林清親:海運橋 第一銀行雪中。
小林清親(1847-1915)は明治期に活躍した浮世絵師。旧幕臣の出身で、幕府崩壊後は柴田是真、川鍋暁斎のほか、チャールズ・ワーグマンから絵を学んだとされる。明治9年(1876)から14年にかけて版元・松本平吉と福田熊次郎から刊行された一連の風景画は、「東京名所図」と総称され清親の代表作。従来の浮世絵風景画と一線を画し、光の微妙な移り変わりをとらえた点が特徴であり、その表現から「光線画」と呼ばれている。《東京銀座街日報社》や《海運橋 第一銀行雪中》は、同所を描いた浮世絵版画と比較すると、水彩スケッチに基づく風景画であるがゆえ、淡い色彩表現が巧みに用いられている。加えて清親画は、西洋画由来の陰影表現を活用しており、まさに文明開化という新時代を象徴する風景画ともいえる。

先日、ある学芸員の方から「日本美術の歴史」について話を伺った際、平安・鎌倉時代から江戸時代までの絵画を比較すると、古い時代の作品には「緊張感」があり、時代が下るにつれて「緩み」が感じられるようになると説明された。今回の展示では、南北朝・室町時代の作品は仏教絵画であり、江戸時代の作品は浮世絵、しかも人物画や風景画が中心であった。そのため、前者は仏教の普及という使命を担っているのに対し、後者はエンターテインメントの要素が強くなっている。この学芸員の方の説明は的を射ており、改めてその見解に納得させられた。また、この日は、その後、この前に書いたように上野の森美術館で『五大浮世絵師展』を鑑賞し、版画三昧の充実した一日を過ごした。