bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

生成AIとの協働により、紀行文「横浜市北部の西方寺の曼珠沙華残照」を作成する

昨日、用事のついでに、横浜市港北区新羽町にある西方寺を訪れた。曼珠沙華彼岸花)の名所として知られるこの寺も、すでに花の盛りを過ぎているのではないかと案じつつ、静かな境内へと足を運んだ。

現地での印象をもとに、私は生成AIにいくつかの情報を与え、紀行文の作成を試みた。生成された文を読み、気になる箇所を修正するよう指示し、再び書き直させる。その反復のなかで、次第に一つの作品が形を取り始めた。

完成した文章は、私の意図を反映している。しかし、実際に言葉を紡いだのは私ではない。思考の断片が、AIという媒介を経て、文のかたちに結晶していく。その過程において、私は「書き手」としての自己が、ゆるやかに変質していくのを感じた。

私が行ったのは、手を動かすことではなく、方向を定めることだった。言葉の選択や構成の判断を通して、表現の舵を握る。そこでは、創作はもはや孤独な行為ではなく、人と機械のあいだに生成される対話的な思考の場へと変わりつつある。

生成AIは、単なる道具ではない。人の想像力を外側から映し出す鏡であり、思考の輪郭を照らし返すもう一つの意識のような存在である。

言葉を持たぬ者が言葉を生む――そのとき「創造」とは、誰の名のもとに現れるのか。AIとの協働を通じて私が感じ取ったのは、創作とは個人の所有ではなく、思考の流れそのものが形を得る現象なのだということだった。

静かな秋の寺で、萩の花が風に揺れていた。
あの揺らぎのように、意味は決してひとつに定まらず、つねに生成のただなかにある。そこにこそ、人とAIがともに見つめるべき、創造の現在があるのかもしれない。

こうして生まれた言葉の軌跡を、ここに記す。これは私とAIが、ともに見つめた風景の記録でもある。

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タイトル:萩と曼珠沙華──西方寺訪問記:都市の縁に咲くもの

秋の夕刻、横浜市港北区・新羽。
地下鉄ブルーラインの駅を出ると、整然とした都市の風景が広がっていた。
銀行のガラス窓が夕陽を跳ね返し、少し先には車の販売店が一軒、そのショーウィンドウの奥に銀色の車体が沈黙している。園芸センターの鉢植えが歩道を彩り、人々は無言のまま帰路を急ぐ。
それは都市の規律が描く光景であり、時の流れが均質に消費されていく場所だった。

しかし、その整列を抜けた直後、空気がふっと変わる。
西方寺が姿を現す。
ひと息ごとに、都市の時間がほどけていく。風の匂いが変わり、遠くから鐘の余韻のような静けさが響く。参道の入口に立つと、曼珠沙華の名残がかすかに風に揺れていた。

両脇に植えられた曼珠沙華は、つい先日まで燃えるような赤で参道を彩っていたという。
いまはその多くが枯れ、石段脇に咲く黄色の一群だけが、秋の光を受けてなお咲き残っている。
その姿は、季節の記憶をつなぎとめようとするかのようである。

曼珠沙華 ひとつ黄なりて 名残かな — 即興句


石段を一歩ずつ上るたびに、足音が曼珠沙華の静けさに吸い込まれていく。
やがて山門が現れ、その奥に本堂が静かにたたずむ。
茅葺きの屋根は秋空に溶け込み、長い時間の層をやさしく抱いている。

右手の傾斜面には、萩が群生している。
上段には赤萩、下段には白萩が重なり、風が渡るたびに二つの色が波のように揺れる。
赤は去りゆく季節の熱を、白はその余韻を受け止める光のよう。
萩はただ咲くのではない——過ぎし日の声を受けとめ、今にそっと手渡す存在である。

秋風に 吹きたる萩の うねびかな
しばしと見れば うつろひにけり — 紀貫之



西方寺は、建久年間(1190年頃)、鎌倉・笹目に創建された「補陀洛山安養院西方寺」である。
源頼朝の帰依を受け、後に極楽寺の一院として栄えたが、戦乱により伽藍は衰微し、明応年間に鶴見川の上流、新羽の地へと移転した。
その歴史の軌跡は、風に揺れる萩の枝のように、たわみながらも途切れることなく続いている。

萩散るや 小坊主の名を 呼ぶあたり — 芭蕉

現在の西方寺は、曼珠沙華の季節を送り、萩の花を迎える静謐な空間である。
境内には上杉憲方の逆修塔や江戸期の石仏群が点在し、時代の痕跡が沈黙のうちに語りかけてくる。
都市の縁にありながら、ここには記憶の層が静かに沈殿している。

萩の露 小さき虫の 斧をとぐ — 与謝蕪村

萩と曼珠沙華が入れ替わるこの季節、
時間はひとつの花のように開き、空間は詩のように深まる。
風景が語るのは、忘れられた過去ではなく、いまも息づく物語である。

萩の花 散るを見てこそ 秋は来ぬ — 本居宣長

帰路、黄色の曼珠沙華が一輪、風に揺れていた。
それは、ただの花ではなく、鎌倉から新羽へと続く時の道程と、
現代の都市生活との交差点を象徴する光のように思われた。