bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

飛鳥時代の復元倉庫を見学する

川崎市高津区に古代の高床倉庫が復元され、先日「橘樹歴史公園」として公開された。最寄り駅はJR南武線武蔵新城駅だが、1.6kmほど歩かないといけない。バスだと、JR南武線東急東横線武蔵小杉駅東急田園都市線鷺沼駅を結んでいる路線を利用し、影向寺(ようごうじ)で下車すると、歩いて5分程度のところにある。

今昔マップで明治39年ごろと現在を並べてみる。赤丸を付けた個所が影向寺で、今回の橘樹歴史公園はすぐその右である。これから、歴史公園は多摩川流域の扇状地に張り出した舌状の丘陵地の上にあることが分かる。

復元された高床倉庫は、古代と言っても奈良時代(710~794)ではなく、律令制(701年の大宝律令)が制定される前の飛鳥時代の建物であることに意義がある。現存する飛鳥時代(592~710)の建築物には、奈良・斑鳩法隆寺(推古天皇聖徳太子の建立)、大阪・天王寺四天王寺、奈良・飛鳥の法興寺(蘇我馬子)などがある。復元とはいえ、この時代の建物を関東で見学できるのはうれしいことである。

飛鳥時代での画期的な事件は大化の改新である。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、豪族の蘇我氏を中心とした政治から天皇中心の政治体制へと移行させて、律令国家への基礎を築いたとされる事件である。国の体制は、中央集権的な行政制度となり国・評・里*1が設けられ、さらに王族・貴族・豪族の私有であった人・土地ついても公地公民となった。

ところで、復元された倉庫はいつ頃を想定しているのだろう。大化の改新の前なのだろうが、それとも後なのだろうか。この近くに影向寺(ようごうじ)がある。この寺院は古代に建てられた寺院の跡に建てられたようで、ここからは古代の瓦が発掘されている。そして、そのなかに「无射志国荏原評」と刻まれている平瓦が見つかっている。

无射志国は、見慣れない国名だが、武蔵国となる前に使われていたようである。无射志国が武蔵国となった時期ははっきりしないが、日本書紀によれば685年、あるいは、713年に「諸国の国郡郷名は二字の好字を用いよ」の詔が出されたので、この時期に新たに「武蔵」の名と文字が選ばれたとも考えられている。なお、武蔵国は无射志国と知々夫国とを一緒にした後の国名である。

古代の影向寺は、平瓦に評が使われていることから、この瓦が造られたのは大化改新から大宝律令までの間とみるのが妥当なので、7世紀後半ごろの建立だろう。今回復元された倉庫もこれと同じ時代を想定しているようである。

大化改新前の民と土地に対する支配の制度は次のようになっていた。大化改新詔には、ミヤケ・タドコロを廃止するとなっているので、大化改新の前にはこれらがあったことになる。これらは、天皇や豪族の荘園ともいえるものである。ミヤケは天皇などが所有するもので、子代の民(領民)と処々の屯倉(領地)からなる。タドコロは貴族・豪族(臣・連・伴造・国造・村首(むらのおびと))が支配するもので、部曲(かきべ)の民(領民)と処々の田荘(たどころ))からなる。かつては、改新によって公地公民となり、領民に代わって封戸や禄(給与)が、領地に代わって位田・職田・功田・賜田が与えられたとされていた。

しかし長屋王家から発見された木簡などから、長屋王家の領地は代々継承されていることが判明し、ここはミヤケから引き継がれているという見方が有力となっている。このことから、大化改新後にも荘園(ミヤケ・タドコロ)が一部で残されたとされ、このような荘園は古代荘園と呼ばれている。かつては荘園の始まりは墾田永年私財法が始まった後で、この制度により形成された荘園は初期荘園と呼ばれた。新しい研究では、荘園には古代荘園と初期荘園の2系統があるとみなされている*2

橘樹歴史公園の周辺には、大化改新をさらにさかのぼる歴史がある。日本書紀には武蔵国造の乱(634年)について記されている。これは武蔵(无射志)国造の笠原氏の内紛とされる。国造の笠原直使主(おぬし)と同族の小杵(おぎ)は国造の地位を巡って争い、小杵は上毛野君小熊の助けを借り、使主を殺害しようとした。使主は逃げ出して朝廷に助けを求めた。そして、朝廷は使主を国造にすると定め、小杵を誅した。使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上した。この橘花屯倉の役所が置かれたところが、今回橘樹歴史公園として開設された場所だったのではないかと研究者の間ではみられている。

橘花屯倉と呼ばれたミヤケは、先ほど述べた大化改新前の制度の通りであれば、子代の民と処々の屯倉とからなっていたであろう。そして、ミヤケを経営・管理するための役所もあったはずである。大化改新によって橘花屯倉は橘樹評となり、評の倉庫がこの地に設けられたのだろう。それが今回復元された高床倉庫である。そして大宝律令により律令制が敷かれると、橘樹郡の郡家がここに設けられ、新たに正倉も建立された(評の時代の正倉とは向いている向きが異なっている)。発掘により、正倉の跡は発掘されているが、郡庁はまだである。

今回復元された倉庫の概要は、構造は板校倉造、高さは約9.3m、桁行・梁行は約5.94m、屋根構造は切妻造・茅葺である。そして、飛鳥時代の姿を再現するために、古代の大工道具である手斧(ちょうな)やヤリガンナを使用するなどして、古代の技術・技法を可能な限り採用して造られた。

それでは橘樹歴史公園を見学する。
入り口の近くに大きな看板があった。

その裏側は、橘樹官衙遺跡群の説明書きである。ペンキの匂いがしそうなくらいに新しく、また分かりやすい。律令制の前に建てられた建物跡は紫色、後のは橙色である。従って前者は飛鳥時代の橘樹評、後者は奈良時代橘樹郡の建物跡である。橘樹郡の郡庁は地図の真ん中あたりとみられている。また左側にあるのが影向寺で、やはり飛鳥時代にここに古代寺院があったとされている。

前置きが長くなりお待たせしたが、飛鳥時代の倉庫はこのように復元されている。
正面、

右側面、

左側面、


復元の過程が丁寧に説明されていた。

次に、影向寺を訪れた。
仁王門、



薬師堂。この寺院は、奈良時代天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた僧行基によって開創されたと伝えられていた。しかし、瓦のところで説明したように、近年の発掘調査の結果、創建の年代は白凰時代末期(7世紀末)にまで遡ることが明らかになった。現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立された。棟梁は橘樹郡稲毛領清沢村(現在の高津区千年)の大工・木嶋長右衛門直政である。


太子堂と鐘楼、

ケヤキ造りの阿弥陀堂

参拝しているときに、散歩中の方に寺の由来を尋ねられ古代寺院であることを話してあげた。感謝されて、お返しにつつじが綺麗だという能満寺を紹介された。
その能満寺の入り口、

山門、

本堂、この寺院はもともと影向寺塔頭12坊の一つで、天文年間(1532~54)にここに移り、快賢によって開かれたといわれている。現在の本堂は天文4年(1739)に建て替えられた。

不動堂、

鐘楼。

残念なことに、能満寺のつつじの時期は終わっていた。

川崎市は、遊歩道・散歩道として下図の「たちばなの散歩道」を推奨している。今回訪れた三か所はこの中に含まれていて、全コースを歩くのに3~4時間かかる。古代の趣を楽しむことができるので、つつじの時期にでも挑戦したいと思っている。

*1:大宝律令(701)により評は郡になり、715年には里は郷になる。

*2:吉川真司責任編集『古代荘園』岩波書店(2024)。