bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

西谷正浩著『中世は核家族だったのか』を読む

住宅街を歩いていると、苗字が異なる表札がかかっている家が、割合に多いことに気がつく。かつての日本は、男系の直系相続だったため、異姓の親子が同居していることはまれであった。しかし近年の現象は、娘に老後の面倒を見てもらう親が多くなったため、異姓の同居が増えたようである。三世代が同居している割合が最も高いのは平成22年の調査では山形県で、その割合は21.5%である。ちなみに核家族の方は48.3%である。国税調査で、家族類型を調べ始めたのは平成7年からのようだが、今日に至るまで三世帯同居の割合は減少している。ここで紹介する『中世は核家族だったのか』では、今とは逆の現象が起きていたようである。すなわち、現在と同じように核家族が優位であるが、その割合が減少していく方向にあったとのことである。それでは紹介に移ろう。

本のタイトルが疑問形になっていたので、正解を先に知ってしまおうと思い、今回はエピローグからプロローグへと、これまでとは異なる読み方を試みた。結果的には成功と思っているが、これを確認する方法はない。後ろから読んできたにもかかわらず、読み返すことがなかったので、悪くはなかったと考えている。当然と言えば当然なのかもしれないが、結果を知って、理由を読んでいるので、頭に入りやすかったのだと思う。しかしここでの紹介はいつもの通り前から後ろへと、普通に進めていくこととしよう。

この本は、タイトルの通り、中世の民衆の家族構造について論じたものだが、冒頭でその前の時代の状況を簡単に説明している。古代末期(9・10世紀)は、大飢饉・疫病そして大地震・火山噴火が頻繁に発生し、国土は荒れ果て、農村には荒田や不安定耕地が多く存在し、荒涼たる景観であったとのことである。古代の農業は支配者層に依存する共同体であっただろうが、困難に直面して、従来の共同体の存在を背景としない新しい勢力、大農を営む農民が出現しただろうと見ている。貧しい人たちや困った旅人を援助したことで天長10年(833)に勲位を得た安芸国佐伯郡の三人の力田(りきでん、富裕層)を『続日本紀』から引用し、それぞれ30町歩(36ha)有していたと大農の例を示している。さらに10世紀後半に成立した『うつほ物語』からも富裕層の様子を紹介している。

古代末期は温暖で乾燥した時代であったが、11世紀以降、気温は次第に降下し、湿潤で冷涼な気候となり、江戸時代中頃に最も寒冷となる。このような気候変動の中、平安時代後期になると11世紀をピークに大開墾時代となったと次のように説明している。開発された土地は私領となり、その所有者は領主・地主となった。開発された土地は荒野だけではなく、荒田の再開発も含んでいた。また公田(公領)の中に開発された私領(公田私領)もあった。開発者は国司に開発を申請し、その認可(立券)をえて私領とした。しかし開発領主は、国司からの干渉によって私領を奪われることを防ぐために、貴族や寺院などの有力者に寄進した。摂関家や大寺院などにはたくさんの土地が寄進され、これは荘園と呼ばれる。あまりにも多かったのだろう、永久4年(1072)には後三条天皇が、荘園整理令を出すような事態となった。また、開発領主はのちに述べる荘司や田堵となり、現地での実質的な所有者となった。

中世は荘園制社会となるが、初期の頃はまだ未分化な組織で、単純化すると、領主と呼ばれる所有者、荘司の管理者、田堵の農業経営者によって荘園は運営されていた。田堵の経営規模は大小さまざまで、田堵の中には五位の位を持つような有力者もいた。またある荘園では田堵だが、他の荘園では領主であったり荘司であったりすることもあった。また領主と田堵は、「一年請作」の契約を結んだ。大開墾時代には開発すべき土地が大量で、それを担う人の方に希少価値があったため、田堵は移動しやすい立場にあり、放浪の時代ともいえた。

大開墾時代には農民たちは放浪することも厭わなかったが、他方で同時に定住し始め、村々が簇生(そうせい)した。鎌倉時代は、不安定な耕地での粗放農業の平安時代後期から、安定した耕地での集約農業の室町時代への移行期に当たり、農民は定住化したが、開発の余地があったので、よそ者の浪人を積極的に受け入れた。『定訓往来』からこれに関する記述を引用している。中世荘園では、組織化が進み、本家→領家→預所下司(地頭)・公文→名主(みょうしゅ)・百姓、となる。本家は大貴族・大寺院で荘園のオーナー、領家・預所は中央のエージェント(代理人)、荘官下司・公文は現地の管理責任者、名主・百姓は荘園の労働者である。百姓は荘地の耕作を請けおい、請作者である限り領主の支配を受けたが、自分の意志で領主との関係を解消し移住する権利も有していた。また身分格差もあって、荘官の職には侍身分(六位クラス)のものがなり、平民の百姓はなれなかった。

この時代の在地社会では、名主職を務める中農層が農業生産の中心を占めていた。また鉄の価格が大幅に下がったため、零細農家でも鉄製農具を所持できるようになった。さらに中農層は役畜、馬鍬、犂(かんすき)を駆使して先進的な農業を実践した。中世前期はこのように中農の時代であったと筆者は述べている。

中世前期の荘園の村落では、名主・小百姓が村落共同体を形成していた。そこでの家族の形態については次のように説明されている。名主の家族は、溝や土塁により外部とは明確に区画された広い屋敷地の中で、複数の核家族世帯を統合した屋敷地共住集団を形成していた。名主層の大家族は近親者を中心に組織されていたが、非親族者もオープンに受け入れていた。これは、中農層である名主一家の経営規模は、数人の男子では賄いきれるものではなかったことによるとしている。名主の大家族のきずなは深かったが、居住だけでなく、食事や家計も核家族ごとに独立していたと述べている。一方、小百姓の場合には、その屋敷地には1~2棟、多い場合には3棟の家屋が立てられていた。複数存在する場合には、親子と兄弟・姉妹がそれぞれ夫婦ごとに暮らしていたとみている。

このころの民衆の家族構造は、単婚の家族構造で、分割相続を基本とし、女性も財産相続をうけた。民衆は姓名も有していて、結婚により姓が変わることはなく、母の財産を相続した子は異姓相続となるが、これにこだわることはなかった。すなわち母方の親族に戻すということはなかった。名主職の相続に関しては、領主から補任を受ける前に、譲り状を荘官や同輩に示して承認を得ることが慣習となっていた。また順位は低かったが、女子でも可能であった。

中世前期の集落は散村であったが、地域によって時間的な差はあるものの、後期になると家々がコンパクトに集まった集村となる。この本では、山城国上久世荘(京都市南区)での例を説明している。明治末と現在の上久世は下図(埼玉大学今昔マップ)の中心にある。明治末でも集村の様相を呈しているが、現在は都会の一部となっている。
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上久世は、鎌倉時代には垣内(かいと)ごとに家々が距離を置いて分布する散村だったが、末期には集村に生まれ変わっていた。後期には北条得宗家領であったが、建武3年(1336)に足利尊氏が地頭職を東寺八幡宮に寄進して東寺領となった。歴応4年(1341)の上久世荘実検名寄帳を調べると、土地所有において圧倒的に優位に立つ土豪的な所有者が存在し、村の主導権を握っている一方で、農業経営に関しては、規模の大きい経営では自作分の比率が小さく、大部分を中小農民に委託して小作分が中心になっているとともに、小百姓層の経済的成長と農業環境の改善による生産性の向上を受けて、小農が村の農業の主役を担うようになったと説明されている。山城国では、地主のことを「名主」、領主に対して直接的に年貢・公事の納入義務を負うものを「百姓」と呼んだ。さらに、下作している百姓を脇百姓ともいった。

後期の農村について筆者は次のように説明している。鎌倉時代の村では、開発可能な荒地が残り、耕地の安定化も道半ばだった。名主=中農家族は、耕作だけでなく、開発者の性格も期待されていた。しかし、村内の満作化と耕地の安定化が達成されると、開発者の存在は不要となり、中小農民の力だけで村の農業は事足りるようになる。上久世荘では14世紀後半には百姓名体制が崩れ、特権身分としての百姓名の名主も消滅した。農業環境の改善で生産性が向上した中世後期の集村では村の庇護のもとで自立した小農が農業生産の主力を引受ける時代を迎えていた。地侍層を中心とする有力農民は、自身が農耕に従事するとともに、不在地主と村人の媒介項として管理者的な役割を担った。また、中世後期には後半に存在した名主層の屋敷地共住集団も、こうした社会状況の変化の中で次第に存在意義を失い消滅していったと述べている。

このような集落を基礎に住民は地縁的な結びつきを強め、支配単位である荘園や郷(公領)の内部にいくつかの自然発生的な村が形成され始め、農民たちが自らの手で作りだしたこのような自律的・自治的な村を惣村というようになる。惣村には、一般の百姓(地下分)とともに、殿原と称される侍身分の者が住んでいた。長禄3年(1459)の徳政一揆の際に室町幕府に提出した起請文では、上久世荘には、侍分21名、地下分85名、下久世荘には、侍分11名、地下分56名となっている。侍分は名字・実名を有し、地下分は仮名(けみょう)のみを称していた。その他に主人から扶持を受ける下人、耕地を任された自立的な農民である作子もいた。農繁期や農閑期では必要とする労力に差があったので、作子はその埋め合わせを担った。前期には名主は百姓の身分であったが、後期になると彼らは侍分となることで侍身分となった。なお、惣村によっては侍がおらず、平百姓だけのところもあった。その例に同じ東寺領の上野荘(京都市南区)がある(下図、上久世荘の約4㎞北)。ここでは、経済力・政治力を蓄え、経験を積んだ長老格の者たちがヘゲモニーを握っていたが、15世紀後半になると長老支配体制が交代し、やがて庄屋(百姓政所)という突出した存在が現れたとの説明がある。
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それでは中世後期の民衆の家族構造はどのようになっていたのだろうか。筆者は次のように述べている。中世後期の畿内村落では、多くの青年が結婚前に実家を出て、親の家の近辺に小屋を建てて暮らし、独身のあいだは母親の世話になった。一方、娘の方は、親元で暮らしたらしいと説明した後で、核家族であり、親夫婦と成人した子供はそれぞれ夫婦単位で世帯を構成したと説明している。さらに、中世民衆の家は寿命の短い掘立柱式の建物であり、相続財産としての価値は低かった。しかし室町時代には、礎石建ての耐久性のある本格的農家住宅が出現し、世帯を超えて代々相伝されるようになる。一家にとって共通の場である家を相続したものは、やはり特別な存在としてみなされるであろう。財産相続慣習や居住形態には、その地域・時代の家族関係や社会の価値体系が姿を現すと述べている。このあと、近世の直系家族へと説明は繋がっていくので、本でどうぞ。

いわゆる支配階層に対する家族構造について記述した本はそこそこあるが、百姓と呼ばれる民衆に対してのものはあまり見かけない。この本を読む前までは、直系家族に移行してたのではないかと勝手に想像していたが、この本によりそうではなく核家族であったという説明を受け、見直しているところである。