bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

五味文彦著『武士論』を読む

緊急事態宣言のために東京国立博物館は閉鎖され、楽しみにしていた「国宝 鳥獣戯画の全て」をゴールデンウィーク中に鑑賞することはかなわなかった。幸いなことに再開されるということなので、早速チケットを入手、明日実現できることになった。擬人化された動物たちを通して、平安時代末期から鎌倉時代初期の様子を伺えることを楽しみにしている。

この時代の歴史学の第一人者である五味先生は、一次史料のみを良としてきた歴史研究の中に、これまでは二次史料とされていた物語や絵巻を積極的に活用して、一次史料には現れない日常の出来事を掘り起こし、歴史学に一石を投じてきた。今回の『武士論』でもその姿勢がいかんなく発揮されている。

表紙を開くと、「男衾三郎絵詞」の口絵が11枚ほど並んでいる。これは都に上って宮仕えをし、都の美しい女房を娶り、きれいな娘を得たが、山賊に襲われて死んでしまう兄の吉見二郎と、関東一の醜い女を妻にし、同じように醜い娘を得たが、武芸一筋に励み、残された兄の妻子を引き取り使用人としてこき使う弟の男衾三郎によって、当時の武士の相異なる典型的な生き方を描いた作品を見せることで、この本が何を語ろうとしているのかを教えてくれる。なお、男衾三郎絵詞国立文化財機構所蔵品統合検索システムから閲覧することができる。その中の一場面だが、男衾三郎の館の様子が次のように描かれている。中央上が、三郎と縮れ毛の妻。その左の空間に同じように縮れ毛の娘。
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筆者は、「はじめに」という章で武士という言葉を整理しており、古代に対しては、「続日本紀」から、武士とは朝廷に武芸を奉仕する下級武官で、文人と対をなす諸道の一つと定義されているとしている。また、中世に対しては、「十訓抄」を例に引いて、武士とは朝廷に武を以て使えるものと定義されていると紹介している。古代の定義から下級武官を省けば、同じことになるとも説明している。武士と同じ意味合いで、「兵」もしくは「武者」が頻発して使われるようになる10世紀から武士論を考えるのが良いとしたあとで、本論に移っている。

本論は「今昔物語集」の中の一節で始まる。芥川龍之介の「芋粥」でも紹介された部分なので、知っている人も多いと思う。越前国敦賀の豪族の藤原有仁の娘婿になった利人(平安時代前期、従四位下鎮守府将軍)は、芋粥をたらふく食べたいという、うだつの上がらない「五位の侍」を実家に招待した。彼は、あきれるほどに芋粥を大量に見せられ、飽きてしまったという話である。この逸話から、都の武者(五位の侍)、国の兵(藤原有仁)、その本拠の宅(有仁の住まい)など、当時の日常生活を推し知ることができる。筆者はとても簡潔に要領よく記述しているので、詳細を知りたいと思うことであろう。そのときは、今昔物語集を読むと面白い。五位の侍を家に招いたときの手厚い接待の様子が細かく描写されているので、あやかりたいと思わせてくれる。利人の流れをくむ子孫の兵は、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏、堀氏、富樫氏、林氏となって、北陸道に広がっていたとのことである。

その次も、「今昔物語集」から、平将門藤原純友などを紹介している。そしてこれら兵の住家である「宅」については、『宇津保物語』から紀伊牟婁郡(むろぐん)の長者の宅を解説した後で、古志田東遺跡(出羽国置賜郡)と大島畠田遺跡(日向国諸県郡)の復元図を紹介している。古志田東遺跡は、河川跡の東側に、母屋・馬屋・倉庫と思われる建物跡7棟が確認され、母屋は10間x3間と大型で、三方に庇(ひさし)がある。この時代の兵の生活を想像するのに必要な資料を与えてくれる。

そして、京・九州の武者たちの紹介のあと、兵・武者から武士へと移行する前九年の役へと進む。かなりのスペースを割いて、『陸奥話記』を引用しながら、この戦いで大活躍した源頼義が紹介される。黄海(きのみ)の戦いから衣川関の戦いを経て厨川柵の戦いまでの安倍貞任との攻防は、なかなかにすさまじい。下図は国立文化財機構のColBaseより、前九年合戦絵巻の一つの場面を転写したものである。この時代の戦いの様子が分かる。
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前九年の役安倍氏が滅んだあと、東北の覇者となった清原氏に内紛が発生する。前九年の役で活躍した武則が没し、その後を継いだ武貞も亡くなったあと、その子供たちの間で内紛が発生し、紆余曲折の末、武貞の妻の連れ子であった清衡が勝利をおさめ、父方の藤原氏へと姓を改めたため、清原惣領家は滅亡するが、ここに四代にわたって栄華を極める奥州藤原氏が成立する。この戦いで、源頼義の子の義家が活躍する。しかし朝廷からはこの戦いは私戦と見なされたため、関東から出兵してきた将士たちに、義家は私財を投じて恩賞を出した。この二つの戦いを通して、武士の間の主従関係が強化されたと言われている。著者はこの戦いを『後三年合戦絵詞』を利用しながら見事に描いている。ここにもその一場面を載せておこう。前と同様に、国立文化財機構ColBaseの前九年合戦絵巻からの転写で、清原軍の放った矢が16歳の鎌倉権五郎景政の右目に刺さり、三浦平太郎為次が矢を抜こうとしている場面である。二人のやり取りが面白いが、それは本でどうぞ。
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後三年の役の後、武士は家を形成してゆく。鎌倉権五郎景政は、先祖伝来の私領を伊勢神宮に寄進、そして開発し、大庭御厨を成立させた。また三浦平太郎為次の子孫は三浦郡を中心に勢力を広げた。この例に見るように東国の武士たちは、領主支配を通して家を形成していった。それらには、武蔵の秩父氏とその支族である河越・江戸、房総半島には上総氏・千葉氏、相模では梶原・大庭などの鎌倉党、三浦半島には三浦一族、相模西部には波多野・中村、上野の新田、下野の足利、常陸の佐竹、甲斐の武田、越後から会津にかけて城氏などが勢力を広げた。

京ではもちろん平氏と源氏が巨大な勢力を有することになる。そして朝廷・貴族の間で、武士を戦力とする衝突が発生する。保元・平治の乱である。保元の乱は、皇位継承権問題と摂関家の内紛が絡み、朝廷は後白河天皇方と崇徳天皇方とに分かれ、関白家は忠通と忠実・頼長が対立し、源義朝平清盛源為義・平忠貞が武士同士で戦うことになった。結果は後白河方の勝利で、義朝は父為義を、清盛は叔父忠貞を、何とも恐ろしいことに武士の習いによって斬った。そして平安京ではこれまで実行されることのなかった死刑の復活となった。2年後に起きた平治の乱は、勢力を増してきた後白河院近臣たちのあいだで争った、すなわち院の寵臣であった藤原信頼と急速に勢力を増してきた信西との争いで、清盛が熊野詣をしているすきをついて、信頼・源義朝が兵をあげた。信西は逃げきれずに自害し、帰京した清盛によって信頼・義朝は滅ぼされた。これらは、物語の『保元物語』『平治物語』と絵巻の『平治物語絵巻』を用いて、描かれている。信西の首を掲げているところは随分とむごい光景である。

このあと、源平の合戦・奥州藤原氏との戦いを経て、鎌倉幕府の成立、北条政権の樹立、承久の乱、蒙古襲来を経て、鎌倉幕府の滅亡、足利尊氏・直義の活躍、南北朝時代、そして武士政権の頂点である義満の時代へと、同じように物語や絵巻を利用しながら導いていく。このあとは読んでの楽しみとしたいが、中世の時代に確立した「家」に興味があるので、残りの部分ではこれについて、記しておこう。

兵・武者と呼ばれていた時代の家は、宅と呼ばれていて、これについては既に紹介した。鎌倉時代になると、武士たちは立派な館を構えるようになる。モンゴルが襲来したときの竹崎季長の活躍は『蒙古襲来絵詞』で語られている。その中で恩賞が与えられないことに不満を持った季長が、鎌倉に赴いて安達泰盛に直訴する。九大コレクションの蒙古襲来絵詞には泰盛の館での様子が描かれている。
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さらに絵巻の『一遍聖絵』のなかに、筑紫国の武士の屋形で念仏をしている場面がある。舘の遺跡としては、今小路西遺跡(鎌倉市)と中山舘(飯能市)があり、詳しい説明がある。また、国人の居館として、伊豆出身の江馬氏が飛騨に移ったのちに築いた絵馬氏館も例に挙げられている。

家にはこれまで述べてきたように物理的な建物としての家と、代々にわたって先祖から継承する有形・無形の概念的な家とがある。概念的な家は、武士の階級ではいつ頃に生じたのだろうか。筆者はその時期を北条幕府が皇族将軍を迎えたころとしている。源頼朝・頼家・実朝と三代の源氏将軍が続いたあと、将軍が存在しなくなったわけではなく、摂関家から藤原頼経・頼嗣(よりつぐ)を迎え、5代執権北条時頼のときには、宗尊(むなかた)親王を6代将軍として迎えた。親王の鎌倉下向に伴い、飛鳥井・難波など和歌・蹴鞠の家の人々をはじめとする公家の廷臣たちが一緒についてきたため、将軍家は武家宮廷の体をなした。これに刺激されるように武家にも家職の概念が生まれるとともに、継承されるようになったと筆者は説明している。

その例として、3代執権泰時から5代執権時頼を補佐した北条重時は、北条氏惣領の得宗への対処法を子孫への武家家訓に残した。重時の子の長時は6代執権となったが、これは幼い時宗が成人するまでの代官としての役割であった。代官を置くことで執権を家職とする得宗家が誕生し、併せて長時の極楽寺家が確立し、さらには名越・赤松・大仏・金沢などの北条一門と外戚の安達は評定衆・寄合衆・六波羅探題となる家を形成したと筆者は述べている。また、得宗に仕える尾藤・長崎・平氏御内人(みうちびと)の家を、源氏一門の足利・武田・小笠原、諸国の守護となった三浦・佐原・長沼・結城・佐々木などは守護職を継承する家を、政所・門柱所・引付などの幕府機構の実務・事務を担う二階堂・太田・矢野・摂津は奉行人の家を形成したと説明している。

家職は有形無形の家の財産を継承していくことであり、相続制度とは切っても切れない関係にある。武士が出現した頃は分割相続であったが、家の成立とともに変化していく。それについては本書で確認して欲しい。

さて読後感。この本の一行一行の情報量の多さには感心する。気を抜くと、その内容が分からなくなってしまうので、読んでいる間はとても緊張を強いられる。海外の本だと、数倍もの厚さにして出版されることだろう。機会があれば、関連する書籍を参考にしながら、もう一度じっくりと読みたいと思っている。