bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤田達生著『災害とたたかう大名たち』を読む

コロナに対する戦い方は、国によってさまざまである。自由が大好きな国民たちの米国や西ヨーロッパの国々は、ロックダウンによる強い規制を敷いて国民の行動を抑えようとしたが、コロナの蔓延は防ぎきれず、最後は科学を信じてワクチン投与を早い時期に開始し、集団免疫の獲得により重い空気から脱しようとしている。それに対して東アジアの国々は、お互いを気遣って自己規制する国民の協力をてこにして感染者が爆発的に増えることを抑えていたが、この春以降はウイルス変異による感染力の増強に伴ってこれまでの政策がほころび、あたふたとした状況が続き、さらにはワクチン対応にも遅れて国民を失望させている。

このような状況の中で、面白い本が出版された。藤田達生著『災害とたたかう大名たち』である。今でこそ災害は非日常的なものであるが、江戸時代は年がら年中生じていた。地震、大噴火、水害、旱魃、飢餓、疫病、そして火事との戦いは、今日世界が戦っているコロナウイルスとは比較にならないほど、壮絶であっただろう。

この本の著者は、伊勢・伊賀の藤堂藩を主に例にしながら、江戸時代の対応を紹介している。財政が豊かであった前半には、藩は被災者の小屋掛けから食料までの面倒を見たばかりか、町人や百姓たちの焼失した家屋の再建に取り組んだと説明している。さらに財政が破たんしていた幕末の安政地震でも、藩は藩庫を空にしてまで金子(きんす)や米穀を領民に与えて支援の手を差しのべたばかりか、死者を弔うための大規模な鎮魂の儀式まで行ったと述べている。

江戸時代の藩と農民との関係については、イメージ的には「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」(『昇平夜話』)という家康の有名な言葉が思い出されるが、決してそのような粗野なものではなかったと著者は述べている。

江戸時代の幕藩体制の基本的理念をなしていたのは、「預治思想」であると著者は言う。聞き慣れない言葉であるが、著者は、「天下の領知権、具体的には領地・領民・城郭については、天(万物の創造主である天帝・上帝のことで、北極星がそのシンボルとされる)から天皇を介して天下人(将軍)が預かっており、天下人は器量に応じて諸大名にその一部を預けるものである。従って、領知権は天下人と諸大名による共有制と位置付けられる」と説明している。

天という言葉を聞くと、中国の儒教思想を思い出す人も多いだろう。著者も、「かかる思想は、『周礼(しゅらい)』(中国周代の理想的な王朝西周の制度を記した儒教の古典で、周公旦の作とされる)を始めとする儒教に由来するものであり、古代律令制の導入により都城の建設に伴い浸透した。即ち、藤原京に始まり平城京平安京などの首都の位置は、「天」が地上の中心点として指定した場所であり、天命によって諸侯に君臨する天子の居住地とされた」と述べている。

さらに、信長や秀吉がこれを彼らの正当性を示すために用いたとも説明している。すなわち、「天から統治権を預けられた天皇は、律令国家建設に当たって、地方豪族出身の官人たちを都城に住まわせて、律令制度に基づく官僚として位置づけたのである。ふたたび天下を統一するにあたり、信長や秀吉がその正当性を古代律令国家の思想に求めたのであり、家康を始めとする徳川将軍も基本的にこれを継承した」としている。

預治思想では、領地は私的な財産ではなく、公共財ということになる。著者は、「この確認システムが、将軍と藩主の間で行われる国替と江戸の拝領屋敷替、藩主と藩士の間では城下町における屋敷替である」と述べている。即ち、藩主・藩士を移封・移転させることで土地を私有していないことを認識させるとともに、藩主に対しては城郭が、藩士に対しては武家屋敷が「官舎」としてあてがわれていることを認識させたということである。

それに加えて、百姓にとって田畑は公儀からの預かり物、すなわち古代のように「公田」であると、著者によれば位置づけられている。これに対する立証として割地制度をあげている。これは村内の土地を共有財産として、一定年限これを農民の持ち高に応じて割り当て、年限が来ると再び割り当て直すというものであった。

江戸時代は、預治思想に基づく官僚制と、将軍―藩主―藩士という身分制による主従制を融合して統治が行われたとしたあとで、先に示した災害のときに、被害者を手厚く保護するという政策がどこから出てくるのかについての説明がある。著者は前期と後期に分けて述べている。

前期については、藤堂高久(藤堂藩)、池田光政(岡山藩)、細川忠利(熊本藩)、保科正之(会津藩)の前期明君と呼ばれる人たちを例に挙げ、「無私」を掲げて「仁政」に基づく国家感を浸透させていくことに努めたと説明している。ここで、無私は恣意的な支配を否定することを、仁政は百姓成り立ちのために尽力することを意味する。

例えば、池田光政は預国論で、人民は天から預かったものなので、安心して暮らせるように、藩主、家老、藩士は努力していかなければならないと、次のように紹介している。
上様(将軍)は、日本国中の人民を、天より預けなされ候、国主(藩主)は一国の人民を上様より預かり奉る。家老と士(藩士)とは、その君を助けて、その民を安んぜん事をはかるもの也。一国の民の安きと安からざるは、一国の主一人にかかるべき事なれども、天下の民の一人も、そのところを得ざるは、上様お一人の責となれば、その国の民を困窮せしむるは、上様のご冥加(利益)を減らし奉る義也。不忠なることこれより甚だしきはなし。上に不忠、民に不仁、国主の罪、死にも入れられず。今時何事もあらば御用に立たんと、乱世の忠を心掛け候もの、あまたこれありと聞き候へども、上様ご冥加減りて何事あらんには、忠を存ずるとも益あるまじく候。寸志ながらこの国においては、上様の冥加を増し奉り、長久のお祈りを致し、無事の忠を致さんと存ずるもの也と、かねてご趣意を仰せ出されけり。

しかし、江戸時代も中期から後期に差し掛かると、諸事物入りの藩財政の逼迫と、郷方には商品経済が浸透し、地主制が広く根付き、身動きが取れないような軋みが生じ、幕藩体制を支えた預治思想は、私有化の激しい本流によって風前の灯火となる。このような中にあって、上杉鷹山(米沢藩)、松平定信(老中)、松浦静山(平戸藩)、鍋島直正(佐賀藩)ら江戸時代を代表する明君が中・後期に登場し、殖産産業、洋式技術導入、義倉制度(災害や飢饉に備えて穀物を備蓄すること)開始、藩校設置などをした。藤堂藩でも、九代藩主高嶷(たかさと)が藩政の改革(借金棒引きなどの金融政策、殖産興業、均田制の導入-これにより一揆発生)を開始し、次の高兌(たかさわ)が、義倉積米制度、藩校開設などを行ったと、説明されている。

それでは災害に対する藤堂藩の対応を見ていこう。最初は、財政が厳しくなっている後期の事例である。日本列島では、安政年間(1854-60)に巨大群発地震が発生した。安政2年(1855)には安政江戸地震によって関東は大きな被害を被った。今年の大河ドラマ「青天を衝け」を観ている人は、この地震藤田東湖が死去し、竹中直人演ずる水戸藩主斉昭が慟哭している姿を覚えているだろう。これに先立つ1年前に、安政伊賀地震が発生した。6月15日午前2時ごろ、マグニチュード7.25の直下型地震により、藤堂藩の伊賀領で、死者597人、負傷者965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒の被害が発生した。当時の伊賀領の人口は90,000人を少し超える程度であったので、大半の人が被害を被ったことだろう。これに対する藩の対応は、藩主が江戸にいるにもかかわらず、素晴らしく速い。日ごとにその対応を追ってみると次のようになる。

15日:地震当日夜が明けると、城内と城下に被災した武士と町方のために仮小屋を設置。被災町人には、藩から雨露をしのぐための竹や渋紙、炊き出しとして玄米粥、味噌が支給され、火の用心と盗難防止のため拍子木が一晩中鳴り響いた。
16日:町中の倒家・けが人に対して御救米(玄米1日2合/1人)が下行。
17日:郷方にも下行(玄米1日2合/1人)。郷方・町方に100俵下行。棟梁2人・大工50人・人夫150人の派遣を要請。寺社に地震の鎮まりを祈願させる。
18日:医師の派遣を命じる。謝礼は藩もち。
29日:町方に再度の御救米。
7月1日:報告書を江戸藩邸に送付。
6日:十一代藩主高猷(たかゆき)の名代が江戸から上野に到着。
7日:藩士に対して金子下賜(100石につき15両)と無利息年賦の金子貸与(100石につき15両)。
その後:町方に見舞金(全壊:金2両・米4俵、半壊:金1両・米2俵)、
    郷方に見舞金(全壊:金3両・米1俵、半壊:金2両・米2斗)、
    町方・郷方:死者を葬るため米1俵、負傷者の養生に米3斗、無被害に鳥目200銅。
16日:施飢餓の儀式を予定するも風雨のため中止、20日に改めて挙行。
18日:町方・郷方に対して米6000俵余りと金1万2000両余りが追加給与。
1年後:一周忌法要。

この地震での藩の出費を筆者は概算している。下行した米は町方に対して138俵、村方に対して459俵の合計597俵である。また下行した金子は、全壊家屋に対して町方に878両(1億1414万円)、村方に4767両(6億1971万円)、半壊家屋に対して町方に716両(9308万円)、村方に7282両(9億4666万円)で、合計で1万3643両(17億7359万円)である。なお、1両13万円となっている。下行された金子は、追加給付を加えると2万5643両となる。藤堂藩は、伊勢も含めて総収入は3万5600両であった。先の金子は伊賀の分だけなので、伊勢の分も含めると金子だけで総収入を越えたと予想され、藩士や領民の生活復興を最優先したことが分かると筆者は説明している。

それでは前期にはどのような手当てがなされたのかを見ていこう。史料は藤堂藩伊賀付家老石田氏の懐中手控である「統集懐録」である。ここには火事にあったときの救済の仕方が書かれていて、間口1間につき、松10本、竹3束、米2俵だそうである。藩より、建物再建に必要な資材と再建期間の食料までもが提供されていることが分かる。町方の家といえども、藩士の家のように舎宅としてみなされていたことが伺える。藩主が国替になると城下町も入れ替えとなり、町人も一緒に移住したので、家屋も藩の持ち物と見なされ、再建は藩主の努めと考えられたのだろうとやはり筆者は述べている。

コロナウイルスに対する政府の対応と、江戸時代の藤堂藩の災害に対する取り組みを比較すると、今日の政府の対応があまりにも後手後手であることが浮き彫りになり、大丈夫なのかと不安になってしまう一方で、江戸時代には予想を越えてしっかりと対処していたことに感心した。