bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に先立ち、ゆかりの地を散策

今秋は、旅行の日は天候に恵まれることが多く、ついている。鎌倉を訪れた先週の水曜日(24日)も、雲一つない快晴であった。風が強く吹くので冬支度でと天気予報では伝えていたが、海からの風は穏やかで寒さを感じさせることはなかった。鎌倉を良く知る人に案内されて、来年のNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」の舞台になっていると思われるところを中心に訪れた。
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鎌倉駅東口を起点に段葛を通って鶴岡八幡宮へと向かった。入口と出口では、段葛の幅が違っていることを教わった。入口が広く出口が狭くなっているとのことであった。海の方から見ると、遠近法の影響を受けて、実際よりもずっと長く見えるそうだ。当時の設計者がこのように考えたかどうかはもちろん不明。

段葛入り口。写真を見て気がついたが、狛犬も大きなマスクをしていた。
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しばらくして鶴岡八幡宮に入った。
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小学生の頃には登った記憶もある太鼓橋。右側には源氏池、左側には平家池がある。源氏池には三つの島が、平家池には四つの島がある。「三はお産につながり繁栄を、四は死で滅亡を示す」ともっともらしく言われているそうだ。
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境内の賑わい。平日にもかかわらず、たくさんの人が参拝をしていた。祭日だった前日、小町通は身動きができないほどに混んでいたそうである。
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静御前が舞っていると想像すると、楽しくもなり華やかにもなる舞殿。
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廃仏毀釈(慶応四年(1868)の神仏分離令)により、舞殿の周囲にあった多宝大塔などの仏教関係の建物はすべて失われ、焼却を免れた仏像なども他の寺院に移された。重要文化財になった伝源頼朝坐像、弘法大師坐像、愛染明王坐像、薬師三尊像、元版大蔵経は、現在は、東京国立博物館、青漣寺、五島美術館、秋川新開院、浅草寺にある。また仁王門にあった仁王像は、寿福寺の仏殿に窮屈そうに納まっているとのことであった。

本宮への階段の手前には、11年前の台風で倒れてしまった大きな銀杏の幹が残されていた。三代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていた場所とされているが、800年前に身を隠せるほどに幹が太かったかどうかは疑わしい。
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大石段を登った先の楼門。晩秋の陽を浴びて朱色に輝きとても綺麗であった。
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大石段を登りきったところから見た舞殿。
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楼門をくぐると本宮でお参りができる。本宮の祭神は応神天皇比売神(ひめがみ)、神功皇后である。鶴岡八幡宮の簡単な歴史は以下の通り。

1063年に源頼義によってひそかに石清水八幡宮を由比郷へ勧請。1180年に頼朝によって現在地に移されたが、1191年に焼失。直ちに再建し、改めて石清水八幡宮の祭神を正式に勧請した。1182年に政子の安産を祈願して若宮大路、段葛を造った。さらに源氏池も。1184年に境内に熱田大明神を勧請(現存せず)。1186年に上宮(本宮)回廊にて静の舞。1189年に頼朝父母の冥福を祈るために五重塔を建立(1191焼失)。同年、三島大明神を勧請する。1217年公暁別当に(公暁は2代将軍頼家の次男、頼家と実朝は兄弟)。1219年に実朝が右大臣拝賀参拝後に公暁により暗殺。1247年に承久の乱で敗れた三上皇を鎮魂の為に今宮(新宮)を創建。1310年の鎌倉大火で、上下宮、神宮寺焼失。1316年に復興。

14世紀には足利将軍家などから荘園の寄進が相次いだ。1434年に鎌倉公方・持氏が、室町幕府足利義教の打倒祈願のため、大勝金剛像を造立し、血書願文を奉納。1590年に秀吉が参拝し、家康に修復を命じた。秀忠が引き継いで1624年に造営完了。

1868年に神仏分離令1873年明治天皇が大臣山で陸軍演習天覧のあと、八幡宮を親拝。翌日鎌倉宮を参拝。
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本宮の右手には、鶴岡八幡宮よりも前から、この地に祀られていた丸山稲荷社(重要文化財)がある。今回は訪れなかったが、そこに至る道に沿っていくつもの鳥居が並んでいた。
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新宮に行く途中には曹洞宗の開祖である道元が、時頼に招かれて約半年間教化したことを顕彰しての碑があった。
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承久の乱で配流となった上皇を祭ってある今宮(新宮)。屋根は、途中からせりあがるように見える一間社流造であった。
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頼朝・実朝を祀っている白旗神社
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国宝館の脇野紅葉は赤く染まっていた。
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鶴岡八幡宮に別れを告げて、次に訪れたのは来迎寺。この日は拝観が許されていたので、堂内の如意輪観音像と地蔵菩薩像をお参りした。これらの仏像は、あとで説明する法華堂に安置されていたが、神仏分離令を機に来迎寺に移された。この寺は時宗(じしゅう)で、永仁元年(1293年)の鎌倉大地震で亡くなった村民を供養するために、一向上人により開かれた。
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また来迎寺の近くにはかつて大平寺があった。この寺は尼五山一位の寺だが、創建ははっきりしない。寺の仏殿は太平寺が廃寺となったあと、円覚寺舎利殿として移築された(舎利殿は神奈川県唯一の国宝)。また弘治元年(1566)に里見義弘が鎌倉を攻めた際に、この寺も攻撃を受け、青岳尼(足利義明の娘)と本尊の聖観音菩薩立像(現在は東慶寺が所有)が奪われたとされている。また一説には、青岳尼と義弘は恋仲で自ら出奔したという説もある。
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このあとは、来年の大河ドラマの主役である北条義時の墓があるとされる法華堂跡に向かう。
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源頼朝を祀っている白幡神社
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白幡神社の右手の階段を上ったところに、頼朝の墓がある。ここを中心とした一帯は法華堂跡と呼ばれている。法華堂碑には、「法華堂はもと頼朝の持仏(守り本尊)を祀ったところで、頼朝の死後、その廟所となった。建保5年(1217)5月の和田義盛の乱のとき、義盛勢が火を幕府に放った際、将軍実朝が難を避けたのはここである。宝治元年(1247)6月5日、三浦泰村の一族がここに籠り、北条の軍を迎え撃ち、刀が折れ、矢が尽きるまで戦い、一族郎党500余人とともに自害をし、庭中を血に染めたところである」という趣旨のことが書かれている。

法華堂の本尊は阿弥陀如来。この堂は江戸時代には鶴岡八幡宮の相承院が管理、明治時代の神仏分離により白幡神社鶴岡八幡宮より移され、法華堂は廃された。ここにあった仏像のうち如意輪観音像は、前に記したように、来迎寺に移された。

今回は頼朝の墓には寄らずに、義時法華堂跡へと向かった。
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吾妻鏡には、源頼朝の法華堂より東の山に新たに当時の権力者である北条義時の法華堂が建てられて葬られたと記録が残っていたが、長いことその場所は不明であった。2005年に鎌倉市教育委員会の発掘調査によりその法華堂跡の遺構が発見された。大河ドラマではこの場所が出てくるはずである。
左隅の方には、三浦泰村一族の墓であるやぐらがあった。
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また石段を登った先には、大江広元毛利季光島津忠久の墓があった。大江広元鎌倉幕府が開かれたときに、京より迎えられた下級貴族(官人)、毛利季光はその子で、長州藩毛利氏の祖である。島津忠久は鎌倉の御家人で、島津荘下司職に、そのあと島津荘の惣地頭に任ぜられ、島津氏の祖とされている。これらの墓は江戸時代に修造されたとされている。
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このあと、藤原道長公を祀っている荏柄天神社、中先代の乱(1335年)のときに足利直義の命によって殺害された護良親王の墓(2年前の台風で石段が崩されて修理中のため途中まで)、平泉中尊寺の大長寿院を模して建立されたとする永福寺(ようふくじ)跡、護良親王を祀っている鎌倉宮を見て、帰途についた。いつもは携帯電話の電源は一日中もつのだが、この日は荏柄天神社で切れてしまい、残念ながら記録を残せなかった。

来年の大河ドラマに合わせてだろうか。本郷和人著『北条氏の時代』、呉座勇一著『頼朝と義時 武家政権の誕生』、坂井孝一著『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』、嶋津義忠著『北条義時 「武士の世」を創った男』が相次いで出版された(本の並びは出版日が新しい方から)。これらを読み始めたところで、来春からの視聴への準備になればよいと思っている。