この秋、東京と神戸の両地で別々のゴッホ展が開催されており、ファン・ゴッホへの関心は一層高まっているように思われる。私自身も東京都美術館で「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」を鑑賞し、さらに、この展示を企画した学芸員・大橋菜津子氏による講演を聴講した。また、1956年制作のアメリカ映画『炎の人ゴッホ(Lust for Life)』(主演:カーク・ダグラス)も鑑賞した。映画に描かれた芸術に生涯を捧げる姿と、展覧会で接した作品の実像とを重ね合わせることで、ファン・ゴッホがより身近な芸術家として感じられるようになった。そこで、展覧会で特に興味を持った作品を紹介する前に、まずはファン・ゴッホという画家について簡単に触れておきたい。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853–1890)は、オランダのズンデルトに生まれたポスト印象派の画家である。青年期には画商見習いや伝道活動に携わったが、27歳前後に画家を志し、本格的に制作を始めた。彼の作品は強い色彩、明確な筆致、感情を反映した構図を特色とし、《ひまわり》《星月夜》《夜のカフェテラス》などが代表作として知られる。生涯に油彩約850点、素描・水彩を含めると2,000点以上を残したとされるが、精神的な不安定さに悩まされ続けた。1890年、フランス・オーヴェル=シュル=オワーズにおいて銃による負傷がもとで死去し、37歳でその生涯を閉じた。生前はほとんど評価されなかったが、死後にその芸術性が認められ、20世紀美術に大きな影響を与えた。
フィンセントの活動は、家族、とりわけ弟テオの支えなくしては語れない。テオは画商として兄を経済的に支援し、作品理解者でもあった。両者の書簡は精神的な支えであると同時に、芸術的探究の記録としても重要である。フィンセントの死後まもなくテオも没したが、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(通称ヨー)が作品と書簡を整理・出版し、その普及に努めた。さらにヨーの息子ヴィンセント・ウィレムは1973年のゴッホ美術館開館に尽力し、家族の役割は後世まで続いた。
オランダ時代(1880–1885年)
1880年頃からのオランダ時代は、画家としての基礎を形成した重要な時期である。ベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで労働者の生活に接したことが出発点となり、初期は素描に重点を置きつつ、ジャン=フランソワ・ミレーの作品を模写して構図や人物表現を学んだ。ハーグでは従兄の画家アントン・モーヴから油彩や透視法を学び、技術を磨いた。この時期の作品は暗い色調と重厚な筆致を特徴とし、農民や労働者の生活を主題とするものが多い。代表作《馬鈴薯を食べる人々》(1885)はその集大成とされ、後の画風展開の基盤となった。
パリ時代(1886–1888年)
1886年にパリへ移ったファン・ゴッホは、弟テオのもとで活動し、印象派や新印象派の作品に触れて大きな刺激を受けた。モネ、ピサロ、スーラ、シニャックらの表現を通じて光と色彩の理論を吸収し、補色や分割筆触の技法を取り入れた。また、日本美術への関心も高まり、浮世絵を模写して構図や色面処理を学んだ。代表作《タンギー爺さん》の背景には浮世絵が描かれており、その影響が明瞭に現れている。パリでの経験は画風を明るく鮮やかな色彩へと転換させ、後の南仏での創作に直結した。
アルル時代(1888–1889年)
1888年にアルルへ移ったファン・ゴッホは、当地の光と自然環境のもとで多くの作品を制作した。《ひまわり》《夜のカフェテラス》《アルルの寝室》はその代表作である。彼は「黄色い家」を拠点に芸術家共同体の構想を抱き、ゴーギャンとの共同生活を試みたが、衝突の末「耳切り事件」が起こった。滞在は1年余りだったが、その間に200点以上を制作し、画風の独自性が確立された。
サン=レミ時代(1889–1890年)
1889年5月から翌年5月まで、ファン・ゴッホは南仏サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神療養所に入院した。療養生活の中でも制作を続け、療養所の庭や周辺の風景を題材に約150点を残した。《星月夜》《糸杉》《オリーブ畑》《アイリス》などがこの時期の代表作である。発作に苦しみながらも、自然観察と内面表現を融合させた作品群は、彼の芸術的到達点の一つと評価されている。
オーヴェル=シュル=オワーズ時代(1890年)
1890年5月、療養所を退院したファン・ゴッホは、弟テオの勧めでパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移った。精神科医ポール・ガシェのもとで生活し、わずか数か月間に70点以上を制作した。《オーヴェルの教会》《カラスのいる麦畑》《医師ガシェの肖像》などがその代表作である。同年7月27日、麦畑で銃による負傷を負い、29日に37歳で没した。死の状況については自死説が一般的だが、他説も存在する。没後、作品は義妹ヨーによって整理・普及され、20世紀美術における重要な位置を占めるようになった。
興味を持った展示作品
今回の展覧会について、主催者は次のように述べている。
「ファン・ゴッホ美術館の所蔵品を中心に、30点以上のファン・ゴッホ作品に加え、日本初公開となる貴重な手紙4通なども展示します。本展では、現在のファン・ゴッホ美術館の活動も紹介しつつ、家族が受け継いできた画家の作品と夢を、さらに後世へと伝えてゆきます。」
展示では、ファン・ゴッホ家のコレクションをはじめ、ファン・ゴッホ自身の作品、彼が収集した作品、そして手紙などが紹介されている。なかでも、やはりファン・ゴッホ自身の作品に最も強く心を惹かれた。以下では、特に印象に残った作品を取り上げる。記述にあたっては、図録『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』を参照した。
まずオランダ時代からは、《女性の顔(赤いキャップの女)》(1885年)と《小屋》(別名《農家》, 1885年)である。《女性の顔》では、赤い帽子や頬の赤みと緑色との補色関係が際立ち、色彩理論への関心が明確に表れている。《小屋》は夕暮れに労働を終えて帰途につく農民を描いた作品で、書簡に記した「人間の巣への思い」が反映されている。

(《女性の顔》Wikimediaより)

(《小屋》Wikimediaより)
パリ時代では、《ヴィーナスのトルソ》《グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶》《アブサンが置かれたカフェテーブル》《モンマルトル:風車と菜園》《画家としての自画像》を挙げたい。パリでの制作初期には石膏像を題材に学んだが、独学で量感を捉える方法を身につけ、《ヴィーナスのトルソ》に結実した。《グラジオラスとエゾギク》は新しい色彩表現の試みであり、《アブサンが置かれたカフェテーブル》には彼の生活実態も映し出される。《モンマルトル》は都市の中に農村的景観を見出した作品であり、《画家としての自画像》では成熟した芸術家像が力強く描かれている。

(《ヴィーナスのトルソ》Wikimediaより)

(《グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶》Wikimediaより)

(《アブサンが置かれたカフェテーブル》Wikimediaより)

(《モンマルトル:風車と菜園》Wikimediaより)

(《画家としての自画像》Wikimediaより)
アルル時代からは、《海辺の漁船、サント=マリー=ド=ラ=メールにて》(1888年)と《種まく人》(1888年)を取り上げたい。前者は大胆な遠近法と平面的な色面に浮世絵的要素が見られ、後者はミレーの主題を踏まえつつも、象徴性を帯びた表現へと高められている。

(《海辺の漁船、サント=マリー=ド=ラ=メールにて》Wikimediaより)

(《種まく人》Wikimediaより)
続くサン=レミ時代には《オリーブ園》(1899年)がある。一作は、青空と多様な緑の調和を探究したもので、もう一作は筆触を複数のパターンに分け、リズミカルに組み合わせた様式的な作品となっている。

(《オリーブ園》Wikimediaより)

(《オリーブ園》Wikimediaより)
最後にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の《農家》(1890年)を挙げたい。質素で崩れかけた小屋と、その前に立つ人物の静かな存在感には、ファン・ゴッホが生涯惹かれ続けた農民の暮らしへの眼差しが表れている。

(《農家》Wikimediaより)
結び
ファン・ゴッホの作品を時代ごとにたどると、彼の探究心が一貫して強かったことがわかる。初期の暗い色調と写実から、印象派の影響による明るさ、さらに晩年の爆発的な筆致と厚塗りへ――その変化は色彩理論や科学的知見を実地に試し、独自の表現へ昇華した過程といえる。生前には理解されなかった彼の作品が、義妹ヨーの尽力によって広まり、今日私たちが鑑賞できることは大きな幸運である。
現在、神戸で開催されている「大ゴッホ展」は、来年には東京にも巡回する予定である。その折には再び足を運び、新たな発見があることを楽しみにしている。