bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館で特別展「かながわへのまなざし」を鑑賞する

今年のように暑い夏は、冷房の効いた博物館に逃げ出すのも一つの方策である。神奈川県にあるいくつかの博物館では、なぜかペリー提督来航に関連する展示が目立った。煙を吐く黒船を見て江戸市民は肝を冷やしたはずで、この疑似体験で夏を涼しく過ごして欲しいという博物館側の趣向なのだろうか。ともかく、日米和親条約を締結してから今年でちょうど170年経つ。これは欧米と結んだ条約の中で最初のものである。この時期、欧米は大きく変化していた。18世紀から19世紀にかけて市民革命が起き、ヨーロッパ各地で国民国家が誕生し、アメリカ合衆国は独立した。時を同じくして産業革命がおき、資本主義も本格的な段階に入り、大量生産と市場経済が急速に拡大した。

これにより、欧米の国々は製品の売り先を求めてアジアに進出し、日本にも同様の働きかけが見られるようになった。西の方にも発展したい米国には太平洋航路の開設を急ぐ必要があった。しかしこのことは隠して、捕鯨船の食料・燃料の補給のために開港して欲しいという受け入れやすい要求を掲げて、1853年にペリー提督に伴われた黒船が江戸湾に到着した。ペリー提督は久里浜アメリカ大統領の親書を手渡し、1年後に再度訪れるのでそのとき回答を得たいと言ってひとまず去っていった。半年後の1854年に再び訪れ、一寒村に過ぎない横浜村に急遽造られた応接所で日米和親条約が締結された。

ペリー提督は、帰国後に米国の上院・下院への報告書として『ペリー提督日本遠征記』を上梓した。この報告書には挿絵も入用だったので、画家のウィルヘルム・ハイネと写真家・画家のエリファレット・ブラウン・ジュニアを同行した。彼らの挿絵を織り込んだ報告書には、第1巻に石版画が90枚、木版画が78枚、第2巻に挿絵・図表が45枚、さらに第3巻には天文図が352枚含まれた。ペリー提督は、この報告書を作成するときに、隊員たちが自ら書いた日記や絵も提出させ、報告書が刊行されるまで情報が漏洩しないように注意を払った。

今回特別展で展示されている石版画の『日本遠征図集』も、ペリー提督と米国政府から承認をとる一方で、ペリー提督に100部贈呈することを約束して、ブラウン・ジュニアが作成したものである。この遠征図集は、ハイネが帰国後に描いた水彩画をもとに、ブラウン・ジュニアが石版画にしたもので、画の大きさはそれぞれが67x94cmと大判である。ペリー提督作成の報告書『ペリー提督日本遠征記』に納められている挿絵は、政府に提出する公文書という性格もあって、現地の様子をよく表しているようである。これに対してブラウン・ジュニアの『日本遠征図集』の画は、『ペリー提督日本遠征記』での挿絵を利用しながら、ハイネの意図が組み込まれて描かれているようである。

特別展で展示されている作品はすべて撮影禁止だったのでそれらを紹介できないが、Wikimediaの「Perry Expedition in art」に納められている作品は、自由に利用できるので、これらを使って説明しよう。

1853年の1回目の来航時から見ていこう。次の画は琉球首里城を訪問したときの様子を描いたものである。遠景の丘の上に見えるのが首里城で、隊列を組んだ一行が帰路についている。見えにくいが籠にのっているのがペリー提督であろう。大きな樹の下では隊員たちが出迎えている。右側には東屋でくつろぐ琉球の人、さらには傘をさして話をしている人も見える。琉球の人たちがとってつけたように画面の中に埋め込まれていて、不自然さを感じる。

横須賀の観音崎と富津を結んだラインは江戸を防衛するための生命線で「打沈め線」と名が付いていた。これを越えて侵入してきた異国船は沈没させるべく定められていた。ペリー艦隊はこれを知っていたのであろう。古代ローマ時代のユリウス・カエサルが内戦勃発の時に禁を犯してルビコン河を渡った故事にちなんで、「ルビコン河を渡る」とこの画を名付けた。幕府側は防衛のために帆船の千石船を繰り出したのだろう。その後方にはペリー艦隊の蒸気船が描かれている。防衛ラインの内側に侵入したのは、ベント大尉率いる小舟(バッテーラ)で、測量をしている。アメリカの小舟がオールで操作するのに対し、日本の小舟は櫓を操っている。戦いが起きるかもしれない緊迫した場面である。

ペリー一行は、大統領親書を手渡すために、久里浜に上陸した。初めて踏む日本の地である。絵の中央は役人だろうか、ここで起きている状況にはそぐわない。単に彼らをここに陳列したかったように見える。

ここからは2回目の来訪に関するものである。ペリー提督は条約を締結するための重要な協議の場である横浜村の応接所へと向かう。このような場面に犬が舞い込んでくるなどということはありえるのだろうか。日本に野良犬が多かったことを強調するために入れたのではとさえ思える。

日米和親条約により、下田と函館が開港されることとなった。そのため、ペリー一行は帰国の途中で下田を視察した。この絵は下田に上陸したときの様子を示している。条約が締結され一安心したのだろう。絵を描いているはずのハイネ自身もこの絵の中央付近に書き込まれている。

下田の寺院前で軍事演習を行っている。整然と行われている演習と、それを驚嘆しながら観察している日本人たちの対比を強調したかったのであろう。畏まってのことだろうか、下田の人たちは正装している。

ここまでがブラウン・ジュニアの『日本遠征図集』で、6種類の画が描かれた。それでは、これらと報告書『ペリー提督日本遠征記』の挿絵を比較してみよう。まず米国議会図書館からの久里浜に上陸した画である。『ペリー提督日本遠征記』にも同じ挿絵があるので、コピーと思われる。先ほど不自然に見えた役人は、今度は仕事をしているように見える。ハイネは水彩画を描くときに意図的に変えたのであろう。

久里浜で大統領親書を手渡す場面には、『ペリー提督日本遠征記』につぎのような挿絵がある。おそらくこのような形でおこなわれたのだろう。手前の役人たちの正座姿がさもありなんと思わせてくれる。

横浜村の応接所に向かう場面を描いたこの画は、The magazine of American history with notes and queries(1877)に掲載された。『ペリー提督日本遠征記』にも同じ挿絵があるので、そのコピーであろう。ペリー提督の前でお辞儀をしている役人がいる。文章でも同様な説明があるので、このように出迎えられたのであろう。

ブラウン・ジュニアは『日本遠征図集』を制作するとき、先に説明したように、ハイネの水彩画を利用した。これらの水彩画は、ペリー提督の『ペリー提督日本遠征記』での挿絵を利用しているものの、ハイネの意図を織り込んで一部に虚の世界を作り出している。なぜそのようなことをしたのかについて、展示会場に三人の研究者の見方が紹介されている。私は、全く異質の文化に出会い、その衝撃を伝えたいがために、それを強調して表現したかったのだろうと思っている。未知のものと遭遇した時の対処法は人によって異なる。極端な人は恐れ慄いてそれを排除したり、もっと強く出る場合には、破壊しようとする。その対極にいる人は、未知のものに親しみを感じて自身の中に包摂しようとする。ハイネは未知のものを強調することによって、それをどのように受け止めるかは鑑賞者に任せたのではないだろうか。そして、その反応を見て、ハイネ自身も楽しんだのではないかと想像している。なお、ハイネの水彩画は明星大学の図書館にアクセスするとWebで見ることができる。ブラウン・ジュニアの『日本遠征図集』と比較すると面白いだろう。