bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

「大阪歴史博物館」を見学する

大阪万博を見学した翌日、今度は大阪城を訪れてみようということになった。地下鉄の谷町四丁目駅で降りて目的地に向かうと、途中に、古代の建物を思わせるが、規模が大きく目を引いた建築物が現れた。近寄ってみると、古墳時代の5世紀頃に存在したと考えられる大型高床式倉庫群(法円坂遺跡)をもとに復元された建物であるとの説明があった。

その左側には、現代的なデザインを取り入れた大阪歴史博物館の建物が目に入った。時間もあるので、ここを見学してみようということになった。館内を紹介する前に、この地域の古代史を簡単に振り返っておこう。

1.古代の大阪

この地域は古代に「難波」と呼ばれ、瀬戸内海と大和(奈良盆地)を結ぶ「水陸交通の要衝」であったとされる。大和政権(ヤマト王権天皇家)が中国・朝鮮半島と交流する際の玄関口であったため、「港町」としての性格と、政治的中心地としての性格を併せ持っていたと考えられている。

5~6世紀:難波と渡来文化

この時期は、倭の五王が中国の南朝(宋・斉・梁)に朝貢していた時代にあたり、難波津は外交・交易の玄関口として機能したとみられる。朝鮮半島からは渡来人や文物が盛んに入ってきて、ここを通じて仏教や文字、土木技術などが大和に伝わり、日本文化の基礎が形づくられていったと考えられている。

7世紀:難波宮の成立

飛鳥時代の中期、都を飛鳥から移す試みの一つとして「難波宮」が築かれた。孝徳天皇(在位645~654年)が「大化改新」の過程で遷都したとされる難波宮は、律令国家形成の過程において重要な役割を果たしたと考えられている。この地で『改新の詔』が公布されたと伝えられるが、後世の潤色の可能性もある。その後、一時的に飛鳥に戻るものの、再び難波に都が置かれることもあった。

8世紀:後期難波宮とその役割

聖武天皇(在位724~749年)の時代には「後期難波宮」が造営された。天皇東大寺大仏造立を進めるなかで、744年に都を平城京から一時的に難波へ移したとされる。しかし短期間で再び平城京に戻ったため、難波は長期的な都にはならなかった。この難波は「副都」や「外交拠点」としての性格が強く、地方からの貢物や外交使節を受け入れる場であったと考えられている。

博物館の展示は6階から10階までが使われ、時代順に構成されている。まずエレベーターで最上階へと上がり、古代から見学を始めた。

古代フロア(10階) 発見!難波宮大極殿

最初に出迎えてくれたのは「奉翳女孺(ほうえいのにょじゅ)」の復元像である。女孺は宮廷で実務を担った女官で、大極殿の儀式において天皇の姿を隠すため、左右に並んで翳(さしば)をかかげたとされる。本来は各9人が配置されたと考えられているが、ここでは左右にそれぞれ6体ずつ復元されており、礼服ではなく実用的な朝服をまとった姿が示されていた。

高御座は、儀式の際に大極殿の中央で天皇が座る玉座である。八角形の木造構造で、頂上には鳳凰、屋根には鏡が飾られていたとされる。移動が可能であり、後期難波宮への遷都に際して他の都から運ばれた可能性もあると説明されていた。

窓からは史跡公園として整備されている難波宮跡を眺めることができた。ここでは飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮が確認されている。このため史跡は2種類の方法で表示されており、石造りで基壇を示しているのが後期難波宮、一段低く赤いタイルを敷いているのが前期難波宮であるとされる。写真では高速道路を挟んで手前に内裏の基壇、奥に大極殿の基壇が見えている。

館内には重要文化財に指定されている埴輪も展示されていた。舟形埴輪(長原高廻り1・2号墳出土)、短甲形埴輪(同1号墳出土)、家形埴輪(同2号墳出土)などである。これらはいずれも4世紀後半から5世紀初頭にかけての出土品とされる。舟形埴輪は航行や祭祀、流通の象徴であった可能性があり、短甲形埴輪は武人を表して軍事的側面を示唆し、家形埴輪は当時の住居の様式を伝える資料とされている。


難波宮の復元模型も展示されていた。前期難波宮の模型では、手前から宮城南門(朱雀門)、朝堂院南門、内裏南門が並ぶ構成となっていた。

また、難波宮跡から出土した万葉仮名文木簡も紹介されていた。万葉仮名11文字が記されており、7世紀中ごろのものと推定される。「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と読めるとされ、日本最古級の万葉仮名木簡として知られている。

後期難波宮の復元模型もあり、宮城南門(朱雀門)、朝集殿南門、朝堂院南門、朝堂院、大極殿南門、大極殿、内裏が順に並ぶ様子が示されていた。

この時代の瓦屋根(復元)や鉄製品(帯金具、和同開珎、釘など)も展示されており、奈良時代の生活・技術を伝える資料群となっていた。

中世・近世の大阪

古代フロアを一通り見学した後、9階へと降り、中世から近世にかけての大坂の都市形成をたどった。その説明に入る前に当時の大坂の歴史的状況を整理しておこう。

中世の大坂:寺内町と交通の要衝

中世には、石山本願寺を中心とする寺内町が形成された。宗教勢力の庇護のもと、商人や職人が集まり、堀や塀に囲まれた自治的な町として機能した。大坂は水陸交通の要衝に位置し、物資の集積地としての役割を果たしていた。

近世の大坂:城下町と商業都市の展開

近世に入ると、豊臣秀吉による大坂城の築城と城下町の整備によって都市構造が一新された。堀川網によって湿地が開発され、商人町が計画的に配置される一方、自然発展的な要素も加わっていった。江戸時代には「天下の台所」と称され、全国の大名が蔵屋敷を構えて年貢米や特産品を集積。18世紀前半には堂島米市場で先物取引が公許され、全国の米価を左右するほどの影響力を持った。

大坂は北組(堂島・中之島・靱・江戸堀・京町堀・北船場など)・南組(心斎橋以南、道頓堀・日本橋・千日前・南船場など)・天満組(天満・天神橋筋界隈)の三郷に分かれ、町人による自治が展開された。商人たちは利潤追求と信用取引を重んじ、鴻池屋や住友家などの豪商は金融業にも進出。取引の記録には大福帳が用いられ、掛け売りや信用管理が体系化されていた。

また、井原西鶴近松門左衛門に代表される町人文化が花開き、懐徳堂などの学問所が町人の知的活動を支えた。大坂は単なる商業都市にとどまらず、堂島米市場や町人自治制度といった制度的仕組み、堀川網や蔵屋敷群に象徴される空間的構造、そして豪商の家系や町人文化に刻まれた歴史的記憶を蓄積・再生する場として機能し、近世日本の都市文化を牽引した。

中世・近世フロア(9階)探検!水都の町並みぐるっとめぐり

9階へと降りるエスカレーターの踊り場からは、現代の高層ビル群に囲まれながらも、かつての大坂城天守閣の記憶がよみがえるような眺望が広がり、次の展示への期待を高めてくれる。

最初に目に飛び込んできたのは、復元された中世の町並み。永禄11年(1568年)9月の堺の町を想定しており、織田信長が京都へ上洛し、堺に軍用金を課した直後の動揺が町の様子に表れている。自治の象徴である木戸門へ急ぎ向かう商人の姿は、緊急の話し合いに参加しようとしている様子を表している。

石山本願寺(大坂本願寺)は、15世紀後半に蓮如の教線拡大の拠点として築かれ、16世紀には浄土真宗本願寺の本山として大坂に君臨した。天正8年(1580年)に織田信長との戦いで和睦により退去するまで、現在の大阪城付近に存続していた。展示の御影堂は、宗祖親鸞の木像を安置する堂舎であり、各地の門徒が参拝のために集まった。

大坂は「水の都」としても知られ、数多くの橋が架けられていた。展示では、手前に安治川橋、奥に大川に架かる難波橋が再現されている。

蔵屋敷の展示では、諸藩が年貢米や特産物を販売するために設けた施設が紹介されている。最盛期には130棟以上が大阪に存在し、堂島・中之島・西船場周辺に集中していた。

商業の中心地・船場は、人々の生活の場でもあった。展示では幕末安政年間(1854〜1860年)の船場北端部、淀屋橋近くの梶木町と尼崎町一丁目の春の情景が復元されており、裕福な両替商の暮らしとともに、裏長屋に住む庶民の生活も描かれている。

次の展示では、天保9年(1838年)1月のニの替わり興行の様子が再現されている。顔見世よりも重視されたこの興行では、大坂生まれの名作『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言が上演されていた。

北前船は江戸時代中期から明治時代にかけて、北海道をはじめとする日本海沿岸の港と大坂を往復し、様々な物資を売買していた。魚肥や昆布などを大坂にもたらし、都市の経済的発展を支えた。

特別企画展「大阪の宝」

中世・近世の展示に満足し、時間の関係もあって、6階のフロアへと向かった。ここでは「大阪の宝」という特別企画展が開催されていた。パンフレットによれば、大阪市博物館機構では今回の大阪・関西万博の開催に合わせて、大阪市の6つの博物館・美術館が所蔵する200万点以上の収蔵品の中から、各館20点ずつ、計120点を「大阪の宝」として選定したという。この企画展では、大阪歴史博物館における「大阪の宝」20点に加え、学芸員が選りすぐった所蔵品も展示されていた。私が特に印象に残ったのは、次の四点である。

この展示の中で最も目を引いたのは、重要文化財関ケ原合戦図屏風」である。慶長5年(1600年)の戦を、前日と当日に分けて描いた現存最古級の合戦図屏風とされる。岐阜・大垣城に籠る西軍や関ヶ原へ向かう家康の行軍、戦後に息吹山へ逃れる西軍とそれを追う東軍など、天下分け目の緊張と動勢が生き生きと表されている。

また「京・大坂図屏風」は、豊臣時代の京都と大坂の景観を映し出していた。向かって左側には京都、右側には大坂が描かれている。大坂図では、左端上部に大坂城天守閣、右端上部に四天王寺住吉大社が配される。城内や周辺の武家屋敷、町屋では祭りに集う人々の姿が活写され、当時の賑わいが伝わる。京都図には、中央に方広寺大仏殿(鐘銘事件の舞台)が描かれており、豊臣政権の盛衰を示唆する。

「水の都」大阪の雰囲気を感じさせたのは、「大阪市公会堂設計競技・岡田信一郎案透視図」である。大阪市中央公会堂は、株式仲買人・岩本栄之助の寄付により大正7年(1918年)に竣工した。その際の設計競技で、当時29歳の岡田信一郎が最年少ながら1等に選ばれた。

最後は、大坂城内の武家屋敷跡から出土した金箔押しの飾り瓦である。豊臣政権に従った大名たちは、大坂城内や周辺に屋敷を設けていた。桐文様は豊臣家ゆかりの意匠であり、この瓦を載せていた屋敷の主が豊臣政権と深い関わりを有していた可能性が高いとされる。

現在の大阪城

現在の大阪城天守は、1931年に市民の寄付によって鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものである。豊臣秀吉が築いた初代大坂城大坂の陣で焼失し、徳川幕府が再築した二代目天守も寛文5年(1665年)に落雷で焼失した。現在の天守は外観5層・内部8階の構造をもち、周囲には徳川期の櫓や門、石垣が残されており、重要文化財に指定されている。広大な大阪城公園は市民の憩いの場でもある。

大阪城の外堀は、防御のために築かれた広大な水堀で、現在は公園の一部として整備されている。

大手門は江戸時代初期に築かれた現存の城門である。高麗門形式の堅牢な構造をもち、枡形虎口と呼ばれる防御的空間を形成して敵の侵入を阻んでいた。門の左右には多聞櫓が連なり、石垣には巨大な石が用いられ、威厳と防御力を兼ね備えている。現在は重要文化財に指定されている。

桜門は大阪城の正面にある高麗門形式の木造城門で、江戸時代初期に建てられた現存遺構である。石垣とともに重厚な景観を示し、現在は重要文化財に指定されている。

桜門枡形の巨岩は、桜門前の石垣に用いられたもので、最大のものは「蛸石(たこいし)」と呼ばれる。推定重量は約108トン、縦5.5メートル・横11.7メートルに及び、日本の城郭石垣として最大級である。江戸時代初期の徳川幕府による再築時に、諸大名が競って巨石を運び込んだとされ、権威の象徴の意味も込められていた。

このように見どころの多い大阪城であったが、当日は城内見学の列が長く、内部には入らずにその外観を眺めるにとどめた。

これまで幾度か大坂を訪れながらも、いずれも短期の業務滞在であり、歴史的遺産に触れる機会は限られていた。今回、思いがけず大阪歴史博物館を訪れることができ、数々の史料を直接目にすることで、書物から得る知識とは異なり、実感を伴った理解に至ることができた。歴史を学ぶ場としても、旅のひとときとしても、実に有意義な時間であった。