東京の治水対策の実際を知ろうと思い、新宿から地下鉄丸ノ内線で中野坂上まで行き、支線に乗り換えて終点・方南町近くにある調整池を訪ねた。都市部では地表がコンクリートに覆われているため、大雨の際には水の逃げ場がなくなってしまう。そのため、空き地やビルの地下を活用して、雨水を一時的に貯留する調整池が設けられている。散歩の途中などでも、「ここには水害対策のための調整池があります」と記された看板をよく見かける。先日も横浜市の港北ニュータウンで、「サカタのタネ」本社ビルの近くを通った際に、同じような看板を目にした。
今回訪れた調整池は、そうした身近な施設とは異なり、圧倒されるほどの規模であった。環状七号線の地下深くに大規模なトンネルが掘られ、そこに多量の雨水を貯められるようになっている。東京における地下空間の本格的な利用の一つといえよう。
ここでふと疑問が湧いた。東京で地下の利用はいつ頃から始まったのだろうか。初めて「地下」という空間を意識したのは、小学校か中学校の頃、地下鉄銀座線(渋谷~浅草間)に乗ったときである。当時は電車が駅に近づくと、照明がいったん消えた。他の路線ではそのようなことが起きなかったので、不思議に思っていた。その理由は、のちに知ったのだが、路線全体をいくつかの区間に分けて電力を供給していたため、区間が切り替わる瞬間に電力が途絶えるからだという。地下鉄創成期の特徴を物語る、興味深いエピソードである。
大学生の頃、ふたたび地下の存在を意識するようになった。地下という特異な立地に興味をひかれ、新宿や渋谷の地下空間にどんな店が並んでいるのか、帰り道に友人と談笑しながら立ち寄った記憶がよみがえる。
こうしたことを思い出しているうちに、改めて東京の地下利用の歴史が気になり、生成AIに尋ねてみたところ、次のようなことが分かった。
江戸時代までは、人工的に造られた地下空間の利用はほとんどなく、土蔵や貯蔵穴、井戸など、ごく限られた用途にとどまっていたという。
本格的な地下利用は1920年代の地下鉄建設に始まる。1927年には日本初の地下鉄(浅草~上野間)が開通した。前述の銀座線の一部である。戦後になると、地下は交通だけでなく商業空間としても利用されるようになり、1957年には日本初の本格的地下街「ナゴヤ地下街」が名古屋に誕生した。1960~70年代にかけて、新宿・有楽町・渋谷・東京駅などへと地下街の整備が広がっていった。
1980年代以降は、都市インフラの一環として多層的に地下が活用されるようになった。地価の高騰を背景に地下駐車場や共同溝などの整備が進み、1999年には「大深度地下の公共的使用に関する特別措置法(大深度地下法)」が制定された。この法律により、地表から40メートル以深の地下空間を、地上権者への補償なしで公共事業に利用することが可能となった。リニア中央新幹線などの大規模インフラは、この法令の枠組みのもとで整備されている。そして、ここで説明する貯水池の事業は、この法律の初の適用事例として知られている。
調整池の正式名称はやや長く覚えにくいが、「神田川・環状七号線地下調整池」である。この施設は、神田川、善福寺川、妙正寺川の流域――杉並区から文京区にかけての地域――で豪雨による氾濫を防ぐための治水施設として設けられたものである。環状七号線の地下約40メートルの位置に、全長4.5キロメートル、内径12.5メートルのトンネルが掘削されている。貯留可能な雨水量は約54万立方メートルで、小学校の25メートルプールに換算すると、約1800面分に相当する。1997年に第一期事業区間(神田川)、2007年に第二期事業区間(善福寺川)、2009年に残余区間(妙正寺川)がそれぞれ供用を開始した。
この施設には、見学者向けの説明用模型が用意されていた。説明模型を撮影した写真を見ると、左側で自動車が走っているのが環状七号線で、手前が北側(中野・練馬方面)、奥が南側(世田谷方面)である。道路下に見える大きな空洞が、調整池のトンネルである。右側の建物は、調整池の管理施設で、ここから善福寺川の水を取り込む。中央上部を流れるのが善福寺川で、下に見える管は、ここで取り込まれた水を左側のトンネルに導くための連絡管渠である。

次に、善福寺川の水がどのように取り込まれるかを写真を参照しながら説明する。線状降水帯や台風などで大量の雨が降ると、善福寺川には周辺から雨水が集中し、水かさが急激に増す。洪水が予想される危険水位に達すると、取水口のゲートが開き、川の水が調整池へと導かれる。取り込まれた水は、円筒形の塔状施設「ドロップシャフト」に渦を巻きながら勢いよく落下する。これはまるで滝つぼに落ちる水のようだが、垂直に落とすと勢いが強すぎるため、渦を巻かせて落下速度を弱め、騒音も抑える構造になっているという。落下した水は連絡管渠を通り、調整池のトンネルへと流れ込む。

それでは施設を見ていこう。建物の外部には溢れそうな水を取り込む取水口がある。ここには格子状の鉄骨が設けられ、木材などの大きなごみが流入しないよう工夫されている。

次の写真はドロップシャフトの下側で、ここに余分な雨水が勢いよく落下してくる。

同じ位置から後方にある連絡管渠を撮影したものがこちらである。

管渠の壁面には、地域の小学生が描いた絵が複製されている。

さらに進み、連絡管渠から調整池のトンネルに入り、世田谷方面を望む。

そして、通常時の様子を体験するために照明が落とされた。突然暗くなり、トンネルは漆黒の闇に包まれた。通信の届かない静寂に包まれ、まさに閉ざされた地下の世界である。年間を通して温度差は少ないとのことなので、このような場所に長く留まれば、時間の感覚を失いそうである。
東京都では、1時間当たり75ミリの降雨にも対応できるよう、洪水対策が講じられているという。都内の河川改修などによって50ミリまでを処理し、それを超える25ミリ分は、各所に設けられた調整池によって対応しているとのことである。
かつて南こうせつの歌「神田川」が一世を風靡した。この歌は、神田川沿いで暮らす学生たちの姿を、どこか懐かしく描いたものである。しかし当時の神田川は、感傷的な風景というよりも、ひとたび大雨が降ればたちまち氾濫し、周辺は水浸しになった。ここに住んでいた友人の一人も、「車が屋根まで浸かってしまい、使いものにならなかった」と嘆いていたことを思い出す。
今でも東京で大雨のニュースが流れると、「神田川は大丈夫だろうか」と気にかかる。しかし、近年そうしたニュースをほとんど聞かなくなった。それだけ治水対策が徹底し、整備が進んだ証であろう。あらためて、この事業に携わった多くの人々に深い感謝の念を抱くとともに、地球温暖化によって想定を超える豪雨が頻発する今日、安全な都市を維持するためには、さらなる整備と技術の更新が求められていると感じた。