bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』を読む

熱せられた鉄板の上にいるような日が続いている。ニュースによれば、記録を取り始めてから最も暑い夏を迎えているとのこと。人間の活動が気候変動を引き起こしていると考えざるを得ないほどの異常さである。これ以上地球を痛めつけると、取り返しのつかないことになると強い意見を述べる学者もいる。なんとか避けられる方法はないものかと探している時に出会ったのがジェイソン・ヒッケルさんの『資本主義の次に来る世界』である。

例によって公立の図書館から借りようと思ったのだが、予約がすごい数になっていていつ手元に届くか分からない。サンプルや書評を読んで購入しても無駄にならない有益な本に思えたので、電子本を購入した。今回本を読む方法として借用か購入の二通りがあった。購入には紙本か電子本の選択があり、同じように借用にも図書館からか友人からかなどの選びようがあった。あなたはどの方法を選ぶだろうか。そしてその判断基準はどこに置いたらいいのだろうか。ヒッケルさんのお勧めは、間違いなく、図書館から借りるであろう。その理由は環境に対する感謝の思いが深いからとなる。

少し歴史を遡ると、江戸時代には村や集落に入会地と呼ばれるものがあった。入会地は村人であれば誰でも自由に使えた。落葉を肥料に、薪を火力に、山菜を食料にするために、ここから自由に採取することが許されていた。しかも取り過ぎで枯渇しないように、皆で自然を保持し・維持することを前提としていた。図書館は、この入会地に似ていないだろうか。図書館は、本を収納し、皆で共同利用することで、各人の知識の獲得に役立っている。本を共有することで、紙となる木材も少なくすみ環境に与える影響も少なくて済むだろう。

しかしたくさんの人が図書館を利用するようになると、発売される本の冊数は少なくなってしまい、書きたいという作家は激減するかもしれない。作品を書くためのモチベーションがどこにあるのかと問われれば、多くの作家は良い作品を後世に残したいためだと言うだろう。しかし背に腹は代えられないので、満足のゆく原稿料が入ってこないことが分かったら、作家活動に二の足を踏むことだろう。先日あるニュースを読んでいたら、大手新聞社の敏腕な若手記者が中途退社したことが話題になっていた。その記者曰く、ネットワーク時代になって新聞社の役割が低下し、読者数が激減したことを理由に挙げていた。

全ての人が図書館から借りるという戦略をとったとすると、本を書く人がいなくなり、図書館そのものの存在価値がなくなる。他方で従来通り紙本での出版部数を競い合うと、紙の原料である木材を自然から著しく収奪することになり環境破壊へとつながる。二つの戦略での矛盾をどのように解決したらよいのだろう。ヒッケルさんの本からその解を探すことにしよう。

彼は今日の問題を引き起こしている主因は資本主義にあるとしている。多くのページを割いて資本主義について説明されているが、短くまとめると次のようになる。①資本主義は永続的な成長を軸とした史上初の拡張主義的な経済システムで、資本の目的は余剰価値の抽出と蓄積であり、②このため「自然と労働から多く取り、少なく返せ」と言う単純な法則に従って機能し、今日の生態系の危機はこのシステムが必然的にもたらした結果である。

それでは資本主義はどのようにして産まれたのであろうか。①人々が惨めな暮らしをしていた野蛮なシステムの封建時代に対して、14世紀の初め平民が反旗を翻すようになり、無償の労働を拒み、領主や教会の税を拒否し、自ら耕作する土地の直接管理を要求する。②1347年に黒死病(腺ペスト)が流行し、ヨーロッパの人口が1/3に減少し、未曾有の社会的・政治的危機をもたらす。労働力不足・土地余剰により小作農・労働者が交渉力を有するようになり、農奴制がほぼ完全に廃止され、農奴は自由農民に、自分の土地で生計をたて、共有地(コモンズ)を自由に利用できるようになった。③封建制の崩壊によって、自給自足を原則とする平等で協調的な社会が訪れた。1350-1500年までを「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼ぶ。④16世紀になると上流階級が土地の「囲い込み」を行い、平民が土地から締め出される。これにより上流階級は広大な土地を私有化するとともに、安価な労働力を入手できるようになった。並行してグローバルサウスに対する植民地化が起こり、ここでも、土地の囲い込みと安価の労働力を入手できるようになった。その結果、資本主義に必要な富の蓄積が進み、「生産性を高め、生産量を最大にする」という要求に支配されるようになった。

経済活動は長いこと自分にとって有用なものを交換し合うということで成り立っていた。これは経済学では使用価値と呼ぶ。二人の間で相互に必要としているもの\(C_1\)と\(C_2\)を交換するというのは、一方の人に対しては、\(C_1 \rightarrow C_2\)となり、他方の人に対しては、\(C_2 \rightarrow C_1\)となる。これは二人の間の物々交換なので、多人数の間でスムーズに交換できるようにするためには、貨幣を導入することになる。商品を\(C\)、貨幣を\(M\)で表すと、他人が必要としている物\(C_1\)を\(M\)で売って、自分が必要としているもの\(C_2\)を得るということは、\(C_1 \rightarrow M \rightarrow C_2\)となる。お互いに必要なものを、そしてそれぞれにとって必要ではなくなったものを、交換するということを表している。

これに対して資本主義は「囲い込み」を行い、モノを希少化し、その交換性に基づいてモノの価値を決まる。これを交換価値と呼び、物を安く仕入れ、交換価値を高くして、それを高くして売るということが重要である。このため、モノを購入する資本、モノを販売して得た資本などのように資本がどのように変化するのかが重要になる。ところで上の式では資本が現れてこない。そこで資本の異動を表せるようにしよう。いま商品(\(C\))を資金(\(M_1\))で獲得して、それを売って資金(\(M_2\))を得たとすると、\(M_1 \rightarrow C \rightarrow M_2\)と表すことができる。もし、商品(\(C\))が希少化されたとすると、買った値段よりも売った値段の方が高くなるので、\(M_1 < M_2\)となる。資本主義では、購入価格と販売価格の間の差(\(M_2 - M_1\))よりも、比(\(M_2 / M_1\))の方が重要視される。企業であれば売上や収益での前年度比、国であればGDPの成長率などが重要な政策・戦略課題となる。

今、一年の成長率を\(g=M_2 / M_1\)とすると、GDP(国内総生産)が\(2\)倍となるために要する年数\(n\)は、\(n= \log 2 / \log g=\log_g 2\)となる。成長率が、日本が一頃目指していたものと同じ\(2\%\)だったとすると\(35\)年かかる。しかし開発国のように\(8\%\)だったとすると、\(9\)年で倍増する。日本の近代化が始まってから\(150\)年たったが、もし成長率がずっと\(2\%\)であったとするとその間にGDPは\(20\)倍に、\(8\%\)であったとすると何と天文学的なのだが\(10^5\)倍となる。これからも分かるように成長率で競争すると、それがほんの少しの差であったとしても、長い年月ではとても大きな差となって表れる。このため資本主義では少しでも成長率を高くしようと、激しい競争をすることになる。

それでは成長率を高めようとするとどのような戦略がとられるのであろうか。\(M_1\)と\(M_2\)の比が問題になるので、商品(\(C\))を生み出すために必要な資源、すなわち自然(材料)と人(労働)をなるべく安い価格で仕入れ、生産したり加工したりして希少化して、なるべく高い価格で販売しようという戦略がとられる。これが悪い方向に作用した場合には、自然を乱開発し、人を劣悪な環境で究極は奴隷として働かせることになる。自然、例えば鉱物や森林などは有限なので、乱開発で破壊され尽くされると、これまでの環境を維持できなくなり異常気象などを生じさせる。今年の夏の異常な暑さは、これ以上は壊さないで欲しいという地球からの悲鳴のようにも聞こえる。

上記のものは収奪とも言える。これに対してスマートに成長率をあげる方法としては、少ない資源での高い生産、快適な環境での効率的な仕事、画期的な機能の設備導入などのようなイノベーションをあげることができる。イノベーションそれ自体は悪いことではないが、自然に限界がある以上、成長率をあげようとする資本主義ではいつか環境問題を引き起こしてしまう。そこで環境にやさしい経済が提唱されているが、二者での哲学的な違いについても、この本では述べられている。

資本主義社会に生きる人々は、人間は自然とは切り離された優れた存在で、精神と心と主体性を備えているが、自然は不活発で機械的な存在であると見なしてきた。この考え方はプラトンからデカルトに至る歴代の思想家から受け継がれた考え方で、人間には自然を支配し、利用する当然の権利があると説明されていた。しかしそうではない世界に生きた人々は、広義に精霊信仰(アニミズム)と呼ばれるものに依拠し、長い年月、人間は他の生物界との間に根本的な隔たりを感じたことはなく、動植物・自然そして地球そのものと相互依存の関係にあると考え、人間と同様に、感情を持ち、同じ精神によって動くものと考え、場合によっては親類のような親しみさえ感じていた。この考え方に立つのがスピノザで、彼は宇宙は一つの究極の原因(ビッグバン)から生まれたと主張し、神と魂と人間と自然は同じ力により支配されているとした。

ヒッケルさんの提案は、人間と自然は一体とするスピノザの考え方に学び、自然を克服・改良する対象とするのではなく、愛おしみ・大切にしようというものだ。自然から収奪するのではなく、自然から得た分は返すようにしようというものである。言葉を変えれば、資本主義の高成長の経済から、自給自足的な成長のない繁栄へ転換しようというものである。啓蒙思想である「人間本来の理性の自立」は、民主主義と資本主義(自然の征服を賛美する二元論的哲学による帰結)とから成り立っていたが、地球環境の破壊を現実の目にすると、この両者は成り立たないことが分かる。民主主義に基づく人間の理性によって、ポスト資本主義の道を進もうというのがヒッケルさんの主張である。

それでは、ヒッケルさんの意見に従って、冒頭で掲げたメディアの出版の問題はどのように考えたらよいのだろうか。著者に意欲を与えながらしかも自然に優しい出版を達成するためには、紙本から電子本へと変更し、資本主義で問題となっていた「囲い込み」すなわち希少化につながる著作権を今よりは限定し、図書館も電子図書館へとしたらどうだろう。

最後に読後感。今回のヒッケルさんの提案は、自然環境を破壊しない民主主義下での使用価値に基づく経済で、これは人間の理性を全面的に信頼しているように思える。しかしウクライナへのロシアの侵攻、前回のアメリカ大統領選挙に見られる民主主義の脆弱性などを考慮すると、人間の理性にどれだけ頼れるのかと心配になるので、もう少し現実を踏まえる必要があるように思う。そこで北欧などですでに始まっている新しい経済・社会活動に参考になる点があるらしいので、そちらの方を調べてみようと思っている。