bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ユン・チアン著『西太后秘録 近代中国の創始者』を読む

1980年代の後半に公開された映画で、アカデミー賞9部門受賞の「ラストエンペラー」を見た人は多いことと思う。その導入部は、この映画の要約を表したものと思え、人生の浮き沈みの激しさを強烈に描き出している。清朝最後の皇帝溥儀(はくぎ)が、戦犯としてソ連から中国へ送還されてきた場面で始まり、3歳の幼子が皇帝となるために紫禁城で臨終間近の西太后に拝謁する場面で構成されている。カリスマ性にあふれた霊界の主のような、おどろおどろしい西太后が画面に現れる。彼女は、このようにかつては悪女の代表として語られていた。中国は王朝が変わると、新王朝が旧王朝の正史を編纂する。王朝が変わったことの正当性を伝えるため、前王朝最後のころの皇帝や権力者は、必ずと言っていいほど悪者や愚者として描かれる。正史を読む場合には、最後の頃の人物は潤色されている可能性が高いので、注意を必要とする。西太后もその例に漏れないようだ。毛沢東が亡くなったあと、西太后に関する多数の史料が明るみに出て、新しい事実が分かり、これまでとは異なる評価がされるようになってきた。

このたび、本の帯には「残虐非道の女帝」像を根本から覆すと書かれていた、ユン・チアンさんの『西太后秘録』を読んだ。2015年に翻訳本が出版され、2018年に電子化された。ユン・チアンさんは、祖母・母・自身の女性3代を描いた『ワイルド・スワン』、毛沢東を描き出した『マオー誰も知らなかった毛沢東』の著者である。いずれの本も、これが現実とは認めたくないような、極限の世界を描き出し、耐えられないような衝撃を受けながらも、止められずにページをめくったのを覚えている。

今回の西太后も、桁違いのスケールの大きな女性で、すごいと感じた。大きな時代のうねりのなかで、それを乗り越えられるような人材を、時代が求めていたということだろう。清王朝の最後に対しては、アヘン中毒、領土割譲、腐敗した政権というような悪い印象しか、本を読む前には持っていなかった。近代化に向けて、ほとんど一人で立ち向かった西太后は、最近はやりの言葉を使うと「レスペクト」すべき人物だと認識を新たにした。

副読本として、加藤徹さんの『西太后 大清帝国最後の光芒』を用いた。ユン・チアンさんの本に遡ること10年前の2005年に出版された。ユン・チアンさんは改革者としての色彩を強く打ち出し、ドラマを見ているような迫力で西太后を描いている。これに対して、加藤徹さんは、一般者向けの歴史本という立場で、どの様な時代背景の中で西太后が活動したのかを分かりやすく描写し、改革者ではなく保守派として描いている。意見の違いが生じたのは、新たな資料が発見されたためなのか、あるいは、見方の違いによるためなのかは分からない。この点は今後の課題ということにして、ここではユン・チアンさんの本を紹介しよう。

西太后は、1835年に生まれ、1908年に没している。誕生日2週間前に亡くなっているので、享年72である。当時の王朝は満州人が樹立した大清帝国。初期の康熙帝の頃の人口は1億人、150年後の西太后の時代は4億人で、世界人口の1/3を占めていた。GDPも同様で、30%以上を占めていたと言われている。その版図は、今日の中国に、台湾とモンゴル国を加えた巨大な領域であった。

西太后が政権を掌握するまでに起きた主な事件は、1840年アヘン戦争開始、1843年の英国への香港島割譲や五港開港を含む南京条約締結、1857年の第二次アヘン戦争(アロー戦争)開始、1858年のアヘン輸入公認やキリスト教布教承認などを含む天津条約締結、1860年九龍半島南部割譲を認めさせた北京条約締結、同年のロシアへのウスリー河右岸割譲などのアイグン条約締結、1851~64年のキリシタン集団による太平天国の乱である。日本では1853年に黒船来航、1867年に大政奉還があった。日中両国とも欧米列強の脅威に晒され、近代化への圧力が高まっていたときであった。

西太后秘録は、皇帝の側室に選ばれるところから始まる。また、この本では、西太后ではなく、慈禧(じき)太后となっているので、今後は、慈禧を用いる。また、年齢も数え年で記述する。
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1850年に道光帝が崩御し、19歳の咸豊帝が即位した。その2年後、慈禧が16歳のとき、正室や側室を選ぶための、后妃選定が行われた。当時は、満州族蒙古族に属し、身分が一定階級以上の家の娘は、思春期に達すると后妃候補として登録された。3年に一度行われる后妃選定で、候補者の中から皇帝・皇族の正室・側室が選ばれた(この選で漏れた娘は、一般男性との結婚がこの時点から許された)。選定は皇帝自らが行った。正室の皇后は1名、側室には順位がつけられていて、皇貴妃(1名)、貴妃(2名)、妃(4名)、嬪(6名)、貴人、常在、答応の7段階あった。皇貴妃は、皇后がいないときにのみ許されたので、通常、側室の最高ランクは、貴妃である。慈禧は貴人に選ばれた。将来、良きパートナーとなる貞は、嬪に選ばれ、そして4か月後に皇后となった。

1856年4月27日慈禧は男子を出産、その子は載淳(さいじゅん)と名付けられた。慈禧の身分は、貞皇后に次ぐ貴妃となった。皇子を得た慈禧は咸豊帝を説得できるような立場となり、后妃選定を経ずに妹を皇帝の異母弟の醇親王奕譞(えきけん)の妃とした。

清王朝は長子継承ではない。皇帝は詔書によってひそかに後継者を指名する。後継者が記載された詔書は厳重に保管され、皇帝が崩御したときに詔書が取り出されて後継者が発表される。道光帝の跡を継いだ咸豊帝は四番目の皇子であった。西洋嫌いではない六番目の皇子の恭親王は有力な後継者であったが、道光帝とは見方を異にしていたため選からもれた。彼はのちに慈禧の右腕として活躍した。

慈禧が権力を握るようになったのは、咸豊帝が崩御(1961年)してからである。その前年に、咸豊帝は英仏軍の北京侵攻から逃れるために、万里の長城を越えて北東に200㎞、モンゴル大草原の丘陵地帯の避暑山荘に逃げ込んだ。英仏との交渉は恭親王に任せ、送られてくる上奏には対応するものの、咸豊帝は崩御する二日前まで歌舞音曲を楽しんだ。死に臨んで、親王と大臣、合わせて八名を枕元に呼び、唯一人の息子の載淳を皇帝に付け、この八大臣で摂政制を敷くようにと遺言した。

載淳の実母は慈禧だが、嫡母は貞皇后である。このため、貞皇后は新皇帝の母として皇太后となったが、慈禧には何の称号も与えられなかった。慈禧は政権に対して影響力をもつために皇太后となることを切望し、貞皇太后とともに一計を案じた。康熙帝の母親が側室だったにもかかわらず、皇太后の称号が与えられたという前例を利用して、慈禧皇太后となった。また詔書への印章を貞皇太后と慈禧が押印してないと公式ではないことを理由にし、さらには恭親王を味方につけて、八大臣を失脚させた。このうち三名には何とも残酷な凌遅刑を言い渡したが、寛容であると思わせるために、刑を大幅に軽減し、粛順のみが斬首、鄭親王と怡親王には自決を命じた。

太后となった慈禧と貞は、ともに協力して垂簾聴政を行った。恭親王に軍機処を率いさせ、新たに八名の軍機大臣を任命した。彼らは知性と分別を兼ね備えていた。この時期、政権を運営したのは恭親王であったとかつて言われていたが、実際はそうではなく、決定を下したのは慈禧であると作者は主張している。慈禧の下で、中国は西欧との長い平穏な時代へと入った。そしてこの西洋との友好関係は、太平天国の乱の平定に役立った。

反乱軍はキリスト教を自称していたので、最初のころは西洋人は彼らに同情的だったが、そうでないことが分かり、平定のための傭兵の提供を持ちかけた。慈禧は傭兵を断るものの、中国軍を指揮する将校を要請した。これを受けて米国人のフレデリック・タウンゼント・ウォードが、中国人部隊で編成した「常勝軍」を訓練した。1862年にウォードが没すると、英国人のチャールズ・ゴードンに指揮をとらせた。

チャールズ・ゴードンは李鴻章と協力して乱を鎮圧したが、そのとき太平天国の幹部たちの身を守ると約束したにもかかわらず、李鴻章が約束を破って殺害したことに憤慨して、常勝軍の司令官を辞任してしまう。鎮圧後に、清の官軍が虐殺や蛮行を繰り返したのに対し、常勝軍だけが節度を守ったことに感激して、慈禧は最大限の感謝を示しゴードンに報いた。太平天国の乱に当たっては李鴻章の他に曽国藩も登用した。このように漢族を用いたことも特筆すべきことであった。

太平天国の乱の鎮圧は国内の経済を疲弊させたが、門戸開放政策の結果、十年足らずの間で驚異的な回復を見せた。この局面でも人材の登用で素晴らしい実績を残した。貿易の拡大により、効率の良い、腐敗のない税関を持つ必要に迫られていたが、総税務司に任命されたのは、恭親王推薦のアイルランド出身のロバート・ハートであった。彼は1911年に亡くなるまでこの職にあり続けたが、清王朝財政再建に絶大な貢献をしたばかりか、世界との関係改善にも大きな役割を果たした。垂簾聴政の時代の政権が掲げた標語は「中国を強くする」すなわち「自強」であった。ハートは近代化によってそれが達成されることを北京の朝廷に示し続けた。

教育の近代化も慈禧の大きな成果である。1862年に通訳の養成を目的として、同文館が開設された。中国古典を教えることこそ正しいとする官僚からの激しい抵抗にもめげず、1865年には恭親王の進言により慈禧が同文館を最新技術の整った科学技術の場として設置し、新学長にはハートが押す米国人宣教師のW・A・P・マーティンを任命した。さらには、ハートが里帰りするときに、同文館の学生数名を同行させて、ヨーロッパを旅行させた。

慈禧の子の同治帝が16歳(1873年)で結婚し、皇后を迎えると、慈禧は表舞台から身を引き、帝国の近代化政策は頓挫した。しかし、同治帝の治世は長く続かず、19歳で崩御してしまう。従弟の3歳の光緒帝が即位すると、慈禧は再び垂簾聴政を行った。

光緒帝の帝師となったのは翁同龢(おうどうわ)であった。彼は前帝の同治帝の帝師でもあった。同治帝が勉強嫌いだったのに対し、光緒帝は優秀な生徒であった。しかし当時の習いとして、保守派の翁同龢が習得させたのは、中国古典の儒学であった。近代化が急務のこのときに、古色蒼然とした教育でよかったとは思えないのだが、慈禧は帝王学を変える必要があるとは思わなかったようだ。

その一方で、垂簾聴政が始まると、慈禧は李鴻章と恭親王の助けを借りて近代化政策を勧めた。郭嵩燾(かくすうとう)や洪鈞(こうきん)を外交官として海外に派遣、さらにはまとまった数の官僚を海外に送り、欧米の制度や文化を研修させ、科挙の試験も海外希望者には出題で工夫を凝らした。またキューバとペルーと交渉して、中国人奴隷の貿易を禁止させ、両国での中国人労働者の保護に努めた。西洋式海軍創設にも努力し、装甲艦二隻の購入や、フランスからの戦艦の建造技術導入、イギリスでの軍事訓練など、海軍の充実を図った。

さらに海関総税務司ハートに命じて、貿易拡大のための覚書を作成させ、揚子江沿岸から中央部の重慶に至るまでの主要港を国際貿易港として開港した。台湾・福建省間の電信の開通も命じた。また近代的な炭鉱開発にも着手し、風水に絡んで抵抗の多かった鉄道の敷設にも努力した。この当時、ベトナムは中国の従属国であったが、フランスが侵入し中国との国境線に迫ってきた。優劣が決しない中、慈禧はフランスとの和平に持ち込み、彼女が外国との戦いでも対応能力があることを示した。

光緒帝は、1889年に結婚し隆裕皇后を迎え、親政を始めた。隆裕皇后は慈禧の推薦であったが、光緒帝は気に入らず形だけの結婚であった。寵愛したのは珍妃であった。慈禧は引退し、再建した頤和園へ移り住んだ。従来、何千万両もの頤和園の造営費を海軍予算から流用したために海軍が破たんして日本との戦争に敗れたとされているが、著者はこれを否定している。光緒帝の大婚に要した費用は550万両で、頤和園の再建費用はこれをわずかに上回った程度。300万両は慈禧が宮廷費を節約して捻出、重臣の何人かの献上と、朝廷からの資金援助で賄ったと説明している。

慈禧が引退した後、翁同龢の進言に従って光緒帝は外国からの軍艦購入を止め、国内の自然災害に対応した。沿岸の警備は李鴻章に任せた。彼は手薄であることを理解していたが、自己保身から、光緒帝には喜ぶようなことしか伝えなかった。日本が朝鮮で戦争を起こし、1984年8月1日には日中両国が開戦を宣言、これまでの中国の油断と緩みも災いして、遼東半島に侵入された。このような事態を憂慮した慈禧は、朝廷の意思決定に参加することを許されるように策略を巡らして実現させた。しかし時すでに遅く、敗戦の運命は変えがたく、和平へと突き進んだ。

史書には、和平の責任は慈禧にあるとされていたが、そうではないと著者は主張している。慈禧は戦争の継続を主張したが、光緒帝をはじめとする弱気の男たちに退けられたと説明している。慈禧は再び引退し、日清戦争での敗北は欧米の国々から張子の虎とみられるようになり、中国の権威は失墜して争奪戦が始まり、沿岸部は蚕食された。

建国以来の国難を迎えて、日本で幕末に生じた佐幕・尊王と開国・攘夷の争いと同じような状況が清国内でも発生し、清国の滅亡・中華民国の設立へと政治の季節が巡っていった。その発端となったのは1898年の戊戌(ぼじゅつ)の変法である。この政治改革は、立憲民主制による近代化革命である。従来の説では、康有為・梁啓超が運動を担い、それを受け入れた光緒帝が改革を実行し、これを嫌った西太后袁世凱らの保守派がクーデターにより強制的に中止させたとなっていた。

しかし著者は従来の説明は正しくないと次の様に反駁している。変法の詔書は、光緒帝からアドバイスを求められた慈禧が発案し、それに基づいて翁同龢が作成し、光緒帝の名において発布された。そしてすぐ後に、時代に合わなくなったと判断された翁同龢は、光緒帝によって任を解かれ、慈禧と光緒帝の間に良好な協調関係が生まれ、科挙試験を含む教育改革、留学生制度、近代的な農耕法、西洋式の商業、新しい出版形式、各分野の技術刷新などの政策が打ち出された。

慈禧と光緒帝の間に割り込んできたのが、因習を嫌う狡猾な男、「野狐」こと康有為であった。彼は皇帝あるいは類似の権力をふるいたいと願っていた。数々の変革案を実現させたくてうずうずしていた野狐は、上書を光緒帝に書き続け、皇帝の腹心となった。実質的な行政力を持つ皇帝直属の諮問機関「制度局」の設置を訴え、ここを彼の部下とともに支配しようと目論んだ。光緒帝が制度局の裁可を求めると慈禧は拒否したので、野狐は慈禧の暗殺を企てた。袁世凱に実行を命じるのだが、最後の段階で慈禧に密告して事件は発覚する。

さらに野狐が伊藤博文を制度局の顧問に迎えようとしたり、張蔭垣が機密文書を日本側に流すなど、清国を日本に売り渡すような行為も判明した。慈禧は光緒帝の幽閉、関係者の裁判を中断しての斬首を行った。康有為と協力者の梁啓超は日本に逃れた。慈禧はこの事件に光緒帝が連座していたことが明らかにになることを避けるために、暗殺事件であったことを隠ぺいした。康有為らはこれをいいことにして、慈禧のクーデターであると宣伝した。事件の真相は一世紀近くも葬られていたが、1980年代に、慈禧の殺害を命じられたが翻意した畢永年の証言が日本の公文書の中に発見され、慈禧の暗殺計画は証明された。

1900年には次の試練が訪れた。天津条約・北京条約によってキリスト教の布教が許された。そのあと教会と信者に対する特権的な扱いが目立つようになってくると、外国人を排斥しようとする義和団が1899年に結成された。慈禧は、外国からの要請もあって、当初は義和団を抑えようとした。しかし義和団が外国軍を抑えることもあったため、逆にこれを利用することを考え、義和団を支持して対外宣戦を1900年に布告した。これを受けて日本を含む8か国の連合軍が北京に向けて進軍した。

慈禧は、光緒帝、隆裕皇后、帝位継承者に任ぜられていた溥儁(ふしゅん)、光緒帝の側室瑾妃(きんひ)とともに、北京からの脱出を図った。光緒帝が寵愛するもう一人の側室珍妃(ちんひ)には自害を命じたが、珍妃が命乞いしたために、井戸に投げ込むように宦官に命じた。急いで出立しなければならないためのやむを得ない行為だったが、ここも後日、慈禧の悪逆ぶりの一場面として使われた。一行は辛酸を舐め尽くして西安に逃げ延びた。

1901年には連合国との間で北京議定書を結び、途方もない損害賠償費を払うことになった。このあと、北京に帰還し、慈禧は1902年から死を迎える1908年まで、近代化に努めた。①漢族と満州族の結婚の禁令を撤廃と漢族の纏足の風習の撤廃、②女子の教育義務を定めた「女学堂章程」を発布と女子留学生派遣(宗慶齢・美齢など)、③科挙の廃止と西洋を手本とした教育制度の導入、④法体系の抜本的な見直しと凌遅刑・尋問中の拷問の廃止、⑤商業の振興と商務部の設置、⑥国際銀行の創設と国内通貨の誕生、⑦鉄道網の整備である。このような改革によって、7年間で歳入は2倍となった。

さらに、慈禧が目指したのは、立憲君主制だった。英国の絶対君主制から立憲君主制へ、そして立憲民主制へと移行していく姿を見て、次のステップは立憲君主制であると判断した。1908年には憲法大綱が慈禧の裁可を得て公布、また、国会開設に必要な法規が起草され、やはり慈禧の承認を得て公布、国会開設に向けた9年計画を決定した。

死期が近づいた慈禧は、死亡の順序が逆になることを危惧して光緒帝を毒殺し、妹の孫息子に当たる溥儀を時期皇帝に指名し、その翌日に崩御した。

長くなったがここまでがこの本のあらすじである。慈禧は、清朝を維持しながら、近代化を推し進めようとした。傑出した政治能力をもつ太后であったが、一人の力で、彼女が目指す立憲君主制を成し遂げることは絶望的に困難であった。慈禧は、人材の育成に努めたがかなわず、助けてくれる人材の欠如が、近代化のスピードを遅らせたと言えるだろう。