bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するー古代メキシコへのいざない

トーハクで特別展「古代メキシコ」が始まった。いつも特別展は最後のころになってやっと出かけていたので、混んでいる終了間近を好んでいるのではと冷やかされていた。今回はゆっくりと観たいと考え、あまり混雑しないと噂されている開始直後にした。選んだのは、開幕した次の週の初めであった。予想が見事に当たり、ゆうゆうと見学することができた。またこの特別展は全作品が写真撮影OKだったので、その利点も充分に活用できた。

しかし予備知識なしに出かけたために、展示物の意義があまり分からず、日本の古代の遺物とは随分と違うという程度の理解にとどまった。展示会から戻り、記憶に残っているうちにと思って、青山和夫さんの『マヤ文明』と鈴木慎太郎さんの『古代マヤ文明』を速読した。青山さんは、石器を研究されている方で、彼のウェビナー「マヤ文明の起源とメキシコバスコ州アグアダ・フェニックス遺跡の最新の考古学調査」(2020年6月19日開催)によれば、21万3548点もの石器を既に研究されたそうである。一方鈴木さんは、考古人骨研究を専門とされる方で、最近の科学技術を利用して新しいアプローチで挑んでいる。

我々は古代には四大文明があったと学んだが、現在ではこれから紹介するメソアメリカ文明とさらに南米のアンデス文明を加えて、六大文明とすることもあるようだ。メソアメリカ文明はメキシコ・中央アメリカ北西部で繁栄した。この文明の特徴は何と言っても石器文化で農業社会を継続したことだろう。ユーラシア大陸では、大きな川に沿ってイネや麦の栽培が始まり、さらには鉄や家畜も使うようになって、農業革命と言われるような大変革をもたらした。しかしメソアメリカではこれらの利器を手にすることはなかったので、石器による定住生活がずっと営まれた。主食としたのはトウモロコシ、そしてカボチャやジャガイモが加わる。今日我々が口にするトウモロコシの原産地は、この地域である。しかし最初から今日見るような立派なものだったわけではなく、小ぶりの粒も少ない穀物だった。長い時間をかけて、選択的に少しずつ大きなものを得て、今日の優れた作物になった。そしてメソアメリカの農業は、菜園のような小規模・集約栽培と焼畑農業を組み合わせたり、一方だけ、特に焼畑農業だけが行われた。そして焼畑農業に依存した場合には、環境破壊を起こし、長い期間にわたる定住を困難にした。

農業に関連してのもう一つの特徴は、牛や馬などの労力を軽減するための家畜がおらず、すべてが人手で行われたことであった。さらには鉄器を利用することもなかったので、農作業に伴う労力は大変なものだった。さらに物流も人手で行われたので、遠方への、特に大きな物や重量のある物の運搬は難しかった(車輪の原理は知られていたが、大型の家畜が存在しなかったので、荷車は発達しなかった)。このため遠隔地との交流は脆弱であった。

覇権国の地理的な大きさは情報が伝わるスピードに比例すると言われている。騎馬や狼煙などで高速な情報伝達能力を手に入れたモンゴル帝国ユーラシア大陸をほぼ覆うほどの支配地域を有したが、古代メソポタミアでは情報伝達に時間がかかったため、覇権国と呼ばれるような王朝は生まれず、限られた領域を支配する国々がネットワークで結ばれる分散型の世界が生まれた。今日のインターネットがそうであるように、分散型のシステムはレジリエントである。即ち、回復力、抵抗力、耐久力、再起力に優れている。

メソアメリカ文明の時期については異なった意見があるものの、紀元前10世紀にはすでに始まり、スペイン人が侵入してきた16世紀までの、少なくとも3500年は続いた。農業定住が始まったのが紀元前20世紀で、スペイン人が侵攻した後でも変容しながらも現在まで継続しているという見方もあるので、もっと長いと見ることも可能である。このような長い期間にわたって、文明が継続したのは、先ほど説明したネットワークによる分散型社会であったことによる。

メソアメリカ文明が繁栄した地域の地理学的特性は多様である。東側と西側は海に面し、その中央部は高地である。住みやすい場所に人々が定住し、人口が増加し、国が誕生する。そこでは活発な経済活動が行われ国が栄える。一方で木々の伐採や焼畑などで環境破壊が生じ、豊かであった土地は荒涼とした場所へと変化し、住人は移動を余儀なくされる。また国々で競い合うことによって戦争も生じ、戦いに敗れた国は廃墟となることもある。さらには、噴火・風水害などの自然災害によって国が打撃を受けることもある。ネットワーク型の社会では、いくつかのノード(国)が失われたとしても、ネットワークがなくなってしまうことはない。他のノードは生き残り、さらには新たなノードが生まれ、姿を変えてネットワークは生き延びる。メソアメリカ文明の歴史も同じで、一つの国が繁栄をし続けることはない。どの国にも栄枯盛衰があり、一つの国が滅びると、別の所で新たな国が栄えるということで文明をリレーして来た。

メソアメリカ文明は、ピラミッド・神殿・絵文字・数字・暦・作物(とうもろこし・唐辛子・かぼちゃ)などを、時代を通して共有しながら、次のように推移した。今回の特別展の図録によれば、紀元前1500年頃にメキシコ湾岸にオルメカ文明が誕生して紀元前400年頃まで続き、ここでの文明がそれ以降に引き継がれた。紀元前100年にはメキシコシティ北東に巨大都市文明であるテオティワカン文明が生まれ、550年ごろまで続いた。同じメキシコ高原では、トゥーラ文明が800年から1150年まで、アステカ文明が1325年から、スペインに併合されるという歴史を辿りながらも現在まで息づいている。一方、マヤ地方では、マヤ文明が紀元前1200年に誕生し、同じようにスペインに併合されたが、やはり今日まで繋がっている。しかしマヤ文明は一地域にとどまったわけではなく、初期の段階はマヤ低地南部で栄え、その後衰退して北部へと中心が移った。即ち、紀元前1200年から紀元前700年まではアグアダ・フェニックスで、200年から800年まではパレンケで、500年から900年までトニナで栄えた。これらはいづれもマヤ低地南部である。その後北部のチチェン・イツァで700年から1100年まで栄えた。

今回はメキシコ展なので、ユカタン半島の南側のグアテマラホンジュラス、エル・サルバドルにある遺跡については紹介されていない。例えばグアテマラには世界遺産になっているティカルがあり、紀元前800年から10世紀ごろまで、2000年も続いた遺跡である。

メソアメリカ文明での特徴的な建造物は、ピラミッドと神殿である。上の写真からもわかるようにいくつかの遺跡では四角錐のピラミッドとその上部に建つ神殿のような建物を観察できる。これらの建造物は石造りである。この地域の人々は、世界が天上界・大地・地下界で構成されると考えていた。そして地下界は九層から成り立っていた。ピラミッドの中には9層のものが見受けられ、死んだ後の世界を象徴していたのだろう。そしてピラミッドの建設目的も、最近では王墓という見方が強くなっている。また王は神格化され、超自然的な権威が正当化されていた。

数字は20進法。これは手と足の指の数に相当するものと考えられ、0も存在した。かつて中国や日本で使用された干支による暦は60年で一巡したが、マヤ暦も52年で循環する暦を用いる(太陽暦の365日と宗教暦の260日を絡ませて作られている。20進法で群論を適応すればよいのだが、議論がとても数学的になるのでここでは省略。興味のある方は20進法と肝に銘じて考えるとよい。割り算は存在しないのでひたすら剰余に固執すること)。また文字も存在し、音と意味を表す絵文字を用いていた。最近はこの解読が進み、メソアメリカの歴史がわかるようになって来ている。

人身供犠もメソアメリカ文明の特徴の一つ。かつてこれは生贄と強調され、とても野蛮な習慣と看做された。しかし今日では、人身供犠は、人間の特性である利他行動とみなされるようになっている。先住民の神話では、太陽、月、トウモロコシ、そして人間も、神々の犠牲により生まれ動いているとされる。さらに自然界の動植物も、他者の存続のための犠牲により、保持されているとする。そこで、神々の犠牲に報いるために、我々人間も犠牲(生贄)で応じるべきであるという倫理観となった。

ゴムのボールを用いた球技をメソポタミアの人々は楽しんだが、これは宗教的儀式や外交使節を迎えての儀式としても行われた。宗教儀式の時は、負けたチームのキャプテンは、生贄にされた。生贄にされることが最高の栄誉だとすると、勝ったチームのキャプテンが生贄にされるのが正しいように思えるが、そうでは無いようだ。利他的と謳っているようだが、最後の最後で、利己的なのが面白い。

それではトーハクの会場に入ってみよう。最初の会場は「古代メキシコへのいざない」で、メソメキシコ文明の全般的な紹介である。
トップはオルメカ様式の石像。オルメカでは初期の頃(先古典期前期:紀元前1400-紀元前1000年)は巨石人頭像が多く見受けられたが、先古典期中期(紀元前1000年-紀元前400年)になると石彫に加えて翡翠などの緑色岩の像が見られるようになる。なおメソアメリカ文明の時代区分は、先古典期(紀元前2000年-250年)、古典期(250年-950年)、後古典期(950年-1521年)、スペイン植民地時代に分けられる。

ジャガーの土器。アメリカ大陸で食物連鎖の頂点に立つジャガーは王や戦士の権威の象徴として崇められ、多くの神がジャガーの姿で表されるとともに、生贄としても捧げられた。マヤ文明600-950年。

フクロウの土器。フクロウは地下世界の使者と考えられてきた。マヤ文明250-600年。

クモザルの容器。マヤ神話における猿は、人間を創造する前に作られた失敗作と考えられ、森にとどまるものとされた。中央ベラクルス950-1521年。

メタテ(石皿)とマノ(石棒)。トウモロコシの実を挽く台とすりつぶす棒。テオティワカン文明250-550年。

チコメコアトル神火鉢。芳香樹脂を燃やすための火鉢と思われる土器。トウモロコシの女神(チコメコアトル)を表現した。アステカ文明1325-1521年

球技をする人の土偶。マヤの王侯貴族は厚い防護をつけ、大きなゴムのボールを、主に腰を使って打つ競技を行っていた。マヤ文明600-950年。

シペ・トテック神の頭像。トラカシペワリストリと呼ばれる太陽暦の祭りの際に、捕虜が生贄にされるヨビコと呼ばれる建物に、この神は祀られた。シペ・トテックは皮を剥がれた我らが主で、生贄となった人間の皮を身にまとった男性である。アステカ文明1325-1521年。

テクパトル(儀礼用ナイフ)。アステカ文明1502-20年。

マスク。マスクではなく香炉台に装飾として貼られていたようである。テオティワカン文明350-550年。

装飾ドクロ。供物として埋葬されたもので、死者の世界の主であるミクトラテクトリを表したものと考えられていて、マスクとするために、両目の窪みに、貝殻と黄鉄鉱が嵌められている。アステカ文明1469-81年。

貴人の土偶。マヤ人は織物、染料、革細工、羽細工などの技術に優れていた。副葬品も当時の姿を偲ばせてくれる。マヤ文明600-950年。

この後は個別の遺跡の紹介に移るので、全般的な説明はここで終了である。ところ変われば、文明が変わることを改めて認識させられた。日本の縄文時代は、紀元前13,000年から紀元前1000年ごろまでで、狩猟採取の定住生活を送り、石を用いて道具を製作した。弥生時代は、早い地域では紀元前1000年ごろに始まり、300年ごろまで続いた。水田稲作の定住生活である。紀元前3世紀ごろには、北九州に中国東北系の鋳造鉄器が持ち込まれている。古墳時代に入って、大きな古墳を有する豪族が各地で出現し、豪族間の競争を経て、律令制度による中央集権国家へと移行する。一方で鉄を利用できなかったメソアメリカでは、中央集権国家となることはなく、都市国家のネットワークによる分散型のレジリエンスに富む社会が作られた。地勢的な条件が文明を形成する上でどれだけ大きな影響を及ぼすかを改めて認識させてくれるよい特別展であった。