ある会合で、「香を聞く」を体験をした。これは「聞香(もんこう)」と呼ばれ、日本の伝統芸道の一つ「香道(こうどう)」における中核の所作であり、香木の香りを鑑賞する行いである。ここで言う「聞く」とは、単に嗅ぐのではなく、心を澄ませて香りと向き合い、五感と精神とで味わうという、深い意味合いを含んでいる。聞香は、
1)香炉の準備
聞香炉に香炉灰を入れ、炭団(たどん)を中央に埋めて熱源とし、その上に銀葉(ぎんよう)という雲母の薄片を置き、さらにその上に小さく割った香木を載せて間接的に熱する。
2)香りの聞き方
香炉を左手にのせ、右手で覆うようにして香りを逃がさず、三回(「三息」)ゆっくりと吸い込む。香りを「聞く」ことで心を落ち着け、自然や自分自身と向き合う。
3)香木の種類と分類
聞香で使われる香木には、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などがあり、香りの特徴は「六国五味(りっこくごみ)」という分類法で表現される。これは産地や香りの味覚的印象(甘・酸・辛・鹹・苦)に拠っている。
組香
「聞香」を遊びのかたちに昇華させたのが、組香(くみこう)である。これは、複数の香木を焚き、その香りの違いや順序を聞き分けて当てるという、知的かつ風雅な遊びである。単なる嗅覚の競い合いにとどまらず、そこには文学的教養や季節の情趣、そして想像力が重ねられる。まさに、五感と精神の融合といえる香の芸術である。組香の基本形は、
1)試香(こころみこう)
最初に基準となる香りを焚いて、参加者全員が香りを記憶する。
2)焚き出し
いくつかの香包(こうづつみ)を無作為に選び、順に焚いて香りを聞く。
3)聞き分けと記録
それぞれの香りが基準と同じかどうかを判断し、記録用紙に記入する。
4)答え合わせ
最後に香包を開いて正解を確認し、点数をつける。ただし、勝敗よりも香りを通じて季節や物語に思いを馳せることが大切とされている。
雪月花香
今回は、素人向けの「雪月花香」を体験した。これは次のようである。
1)香種(こうだね):「雪」「月」「花」「客(これは、雪、月、花のどれかである)」の4種類の香木を用意する。
2)試香(こころみこう):客を焚いて記憶する。
3)出香(しゅっこう):3つの香り(雪、月、花)を順に焚き、試香と同じ香りがどれであるかを聞き分ける。
4)答えの記入:参加者は、どの香りが客と同一であったかを記録用紙に記入する。
参加者は、香りの違いを聞き分けるだけでなく、「雪=冬」「月=秋」「花=春」といった季節の象徴を香りで感じ取ることが求められる。そして、香りを通じて、季節の移ろいや自然の美を心に描く。感性と記憶の芸術を楽しむ(今回は2)と3)の順番が逆であった)。
ここでの「雪月花」という言葉は、唐代の詩人・ 白居易の詩「殷協律に寄す」に由来するとされる。
雪月花時最憶君
(雪・月・花の時、最も君を思う)
この詩情が香道にも取り入れられ、香りを通じて誰かを思い出す、あるいは季節の情景に心を寄せるという精神が、雪月花香の根底に流れているそうである。
今回の参加者は27名であった。選択肢が3つあることから、たとえ勘で答えたとしても、理論上は約3分の1、すなわち9人ほどは正解するはずである。ところが、実際の正解者はわずか6人にとどまった。この結果を受けて、参加者の多くがシニア層であったこともあり、「やはり加齢による嗅覚の衰えだろうか」と、思わずため息がもれた。
源氏香
組香の中でも特に人気が高いのが「源氏香」である。これは、5種類の香を順に聞き、その香りの異同を記憶し、図柄で答えるという遊びで、相応の記憶力と集中力が求められる。その名の通り、『源氏物語』の各帖にちなんだ52種類の図柄が用意されており、香りと物語が響き合う風雅な形式である。以下に、源氏香の基本構成を示す。
1)香木の準備:5種類の香木をそれぞれ5包ずつ、計25包用意する。
2)出香:その中から無作為に5包を選び、順に焚いて香りを聞く。
3)聞き分け:参加者は、5つの香りのうち、同じ香りがどれかを聞き分ける。
4)図柄で回答:香りの異同を、5本の縦線と横線で構成された「源氏香之図」で表現する。
例えば、次のようである。すべて異なる香りなら5本の縦線が並ぶだけ(「帚木」)、同じ香りが2つあればその縦線を横線で結ぶ。図柄は全部で52通りなので、『源氏物語』の54帖のうち「桐壺」と「夢浮橋」を除いた各帖の名まえが、図柄に付けられている(デジタル大辞泉より)。

この図柄は、香道の世界だけでなく、着物の文様、茶道具、和菓子、家紋などにも取り入れられ、日本文化の中で広く親しまれている。浮世絵にも描かれていて、三代目歌川豊国の「夜商内六夏撰 麦湯」では、着物の模様となっている(デジタル大辞泉より)。

主催者の方が、江戸時代、和算に秀でた学者が「源氏香の図柄が52種類である」ことを証明したと言われた。そこで、私も負けずに解いてみることにした。
源氏香の基本構成のところの2)で、無造作に5包選んでいる。そこで、ここに何種類の香が存在しているかによって場合分けして、考えることにした。
1)香は一種類だけ、すなわち5包ともすべて同じである場合。
これは一通りわしかないのはすぐわかる。源氏香の図柄でば「箒木」に当たる。
2)香は二種類で、4包が同じで1包は異なる場合。
種類数を求めるには、異なる1包が何番目に焚かれたかを考えればよいのでである。順列組合で考えると、緑の玉が4、赤の玉が1の時、何種類の異なる並び方があるかという問題と同じである。従って、
である。
3)香は二種類で、3包が同じで、残りの2包も同じである場合。
緑の玉が3、赤の玉が2のときの順列組合せと同じ問題なので、となる*1。
4)三種類のうち、3包が同じで、他の2包はそれぞれに異なる場合。
この問題は、異なっている2包の順番は問わないので、3)の場合と同じになり、となる。
5)三種類のうち二種類は2包で、残されたものは1包である場合。
これは、緑の玉が2、赤の玉が2、黄の玉が1あり、さらには、緑と赤に対しては後先を考慮しなくても良いとしたときの順列組合せと同じなので、となる。
6)四種類で、2包が同じ、他はそれぞれと異なる場合。
これは3)の場合と同じ順列組合せになるので、となる。
7)五種類、すなわち5包すべてがお互いに異なる場合。
これは1)の場合と同じで一種類である。
これらを合計すると、となり、めでたく証明できた。
最後に、香道の歴史を簡単に示す。
1)起源:仏教とともに伝来(6〜8世紀)
香の文化は、仏教の伝来(6世紀頃)とともに日本に入った。最古の記録は『日本書紀』にあり、595年に淡路島に漂着した香木が朝廷に献上されたという逸話が残っている。当初は仏前で焚かれる供香(くこう)として、宗教的な意味合いが強いものであった。
2)平安時代:貴族文化と香の融合
平安時代になると、香は貴族の教養や風雅の象徴となり、個人が独自に調合した「薫物(たきもの)」を衣服や部屋に焚き染める文化が広がった。『源氏物語』や『枕草子』にも香の描写が多く登場し、香りは個人の美意識や感性を表す手段となった。
3)鎌倉〜室町時代:武士と禅の香
武士の台頭と禅宗の影響により、香は精神修養の一環として重視されるようになった。特に室町時代の東山文化の中で、香は茶道や能と並ぶ芸道として体系化され、香道の原型が形成された。志野宗信や三条西実隆といった人物が香道の礎を築いた。
4)江戸時代:町人文化への広がり
江戸時代には、香道は武士や町人、女性層にまで広がり、教養の一つとして定着した。組香や聞香の形式が整い、香道具も芸術品として発展した。家元制度も確立され、志野流・御家流などの流派が現在まで続いている。
5)近代〜現代:再興と新たな香文化
明治維新以降、西洋化の波により一時衰退するが、20世紀後半から再評価が進み、伝統文化としての香道が復興した。現代では、香道は心を整える芸道として見直され、国内外で体験教室や展示も増えている。
香道の始祖とされているのは、佐々木道誉(1296年?–1373年)である。彼は「婆娑羅(ばさら)大名」として知られ、常識にとらわれない華美で自由な振る舞いを好んだ。その一方で、香木の収集家としても知られ、177種類以上の香木を所有していたと伝えられている。このコレクションは後に室町幕府八代将軍・足利義政に引き継がれ、東山文化の中で香道が体系化される礎となった。『太平記』には、道誉が政敵・斯波高経の花見に対抗して、ひと抱えもある香木を一度に焚き上げたという逸話が記されている。その香りは風に乗って京の町に広がり、人々はまるで極楽浄土にいるかのような気分になったと言われている。通常、香木は「馬尾蚊足(ばびぶんそく)」といってごく少量を用いるのが作法だが、それを豪快に焚き上げた道誉の行為は、香を芸術として昇華させる先駆けと言える。なお、香道の正式な体系化は後の三条西実隆らによるものとされているが、道誉の香文化への情熱と審美眼が、その基盤を築いたという見方もある。
この日は、江戸時代に庶民の間でも親しまれていた「聞香(もんこう)」を体験することができ、非常に有意義なひとときを過ごした。さらに、源氏香に用いられる図柄の総数についても計算し、香りだけでなく知的な収穫も多い一日となった。
*1:少し、一般化して説明しておこう。赤い球が個、青い球が
個あったとしよう。それぞれの球は区別ができるように、赤い球には数字が、青い球にはアルファベットが付けられていたとしよう。初めに、これらの球を順番に並べることを考えることにしよう。最初は、
個の中から一つ取り出すので、
の選択がある。次は、一つ選ばれているので、
通りある。これを繰り返すと、求めている球の並びは、
となる。それでは、次に赤の球だけを考えることとしよう。これも、その並び順は
通りとなる。それでは、全体の球の並び順の中で、赤の球の数字を無視して、同じ赤であれば一緒と見做すことにしよう。例えば、赤が
、青が
個の場合には、(1,2,a)と(2,1,a)は一緒、(1,a,2)と(2,a,1)も一緒、(a,1,2)と(a,2,1)も同じということにしよう。番号がついていた赤い球の並び順は、
通りあったので、これらを同一と見做すことになるので
個の集まりとなる。赤が
、青が
個の先の例では、
通り、(a,赤,赤),(赤,a,赤),(赤,赤,a,)となる。同様に青い球のアルファベットを無視したときは何通りになるかを求めることにしよう。無視しないとすると
通りの並び順があったが、これを一緒と見做すため、いま求めたものを
で割ればよいので、
通りとなる。さらに一般化すると、もう少し抽象的な数学の分野に入れそうだが、今回はここまで。