bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

杉山正明著『疾駆する草原の征服者』を読む

今度の日曜日から大相撲三月場所が開催される。コロナ禍の中、家に閉じこもりがちなので、楽しみにしている人も多いことだろう。この間発表された番付から幕内力士の出身地を調べてみると、42人中10人が外国出身の力士だ。率にして24%。グローバリゼーションが進んでいるとみていいだろう。中でもモンゴル出身の力士の活躍は目覚ましく、二人の現役横綱もこの国の出身だ。

ところで歴史の中でのモンゴルへの印象はどうだろう。多くの人は鎌倉時代の蒙古襲来(文永の役弘安の役)を思い出すだろう。恐ろしいいでたちの兵士たちが、大規模な艦隊を擁して、九州北部に襲い掛かってきたことを思い浮かべるだろう。

ところが先日読んだ杉山正明著『疾駆する草原の征服者』は、このようなイメージとは異なる創造的な人々を活写してくれる。2005年に講談社から発売された「中国の歴史シリーズ」が昨年より文庫本化され、順を追いながら出版されている。2月の配本がこの本であった。前にも説明したが、このシリーズは中国と台湾で翻訳出版されたという滅多に見られない現象を起こしたシリーズで、どの分冊もユニークで面白い。『疾駆する草原の征服者』もその例外ではない。

中国は、万里の長城の内側いわゆる中華と呼ばれる農耕地域、その西側・北側の遊牧地域、東北側奥の狩猟・採集地域に大別できる。中国の歴史は中華について語られることが多いが、この本はその外側の遊牧民たちが築いた歴史を、唐滅亡のきっかけとなった安禄山の乱をスタートにして、契丹突厥女真族、そして大モンゴルまでの600年について、語ったものである。テンポの良いリズミカルな本で気持ちよく読み進んでいたが、大モンゴルの説明に入った途端に、調子が崩され、前のページを読み返す機会が多くなった。

冒頭の大相撲の力士につながってくるというわけではないが、モンゴル帝国が成し遂げたグローバリゼーションについて書かれているのだが、何ともすっきりと頭に入ってこない。そこで、作者の意図とは異なるところがあるかもしれないが、数学的な手法を組み入れながら、第6章「ユーラシアの超帝国モンゴルの下で」をまとめてみた。

モンゴル帝国の歴史を簡単に纏める。12世紀にモンゴル高原では遊牧民が争いを繰り返していたが、13世紀初頭モンゴル部のテムジン(のちのチンギス・カン)が諸民族を統一、千人隊集団(千戸制)と呼ばれる軍事・行政制度を取り入れて、キタイの人々が築いてきた政治・行政制度を発展させ、初代のモンゴル帝国皇帝チンギス・カンとなった。彼は、華北の金(女真族)へ進入、西アジアのホラズム・シャー国、中央アジア西夏(タングート族)を滅ぼして、ユーラシア大陸の平原に広大な帝国を築いた。2代目のオゴデイは金を滅ぼし、カラコルムを首都とした。さらにはロシアを征服し、ヨーロッパへも進撃したが、オゴデイの死によってヨーロッパ征服は叶わなかった。5代目のクビライは南宋を滅ぼし、朝鮮の高麗を属国とし、日本や東南アジアの支配を目指すが失敗に終わった。首都を大都(現在の北京)と上都とに造営して二都とし、大帝国が完成し、東西交流が活性化された。


チンギス・カンの時代には、その版図はユーラシア大陸の平原地帯全体に及び、モンゴルの習慣に従って王族やその部将(ノヤン)たちに分封された。分封されたもの(領地と言いたいだが正確には領民)はウルスと呼ばれた。現在のモンゴル語ではウルスは国を意味するが、本来の意味は人々の集まりである。近代国家においては、境界を定めることが重要な政治課題の一つであるが、羊や馬を伴って遊牧する遊牧民にとっては一緒に移動する人々の集まりが最大の関心事であった。このため遊牧民たちは、領地を大切にする農耕民とは国という概念を異にしていた。モンゴル帝国の時代にあっては、ウルスは支配する領域というよりも、一緒に行動する政治集団という意味合いが強かった。モンゴル帝国には多くのウルスが存在したが、これらウルスは緩やかに結びついた連合国家(イエケ・モンゴル・ウルス)をなし、連合国家の長は大カアンと呼ばれた。

移動して生活する遊牧民にとって重要なものは、持ち運びのできる金銀財宝などの貴重品である。これらは他の部族から武力を用いて略奪したことだろうが、そのときに欠かせないのは軍事力である。チンギス・カンは前にも述べたように、組織力と機動力に優れた千人隊を編成した。麾下の全遊牧民を95の千人隊集団に再編成し、有力部族の族長を千人隊長とした。彼の子たち(長子ジョチ,次子チャガタイ、三子オゴデイ)にはそれぞれ4団の千人隊集団を与え、西部のアルタイ山方面に配置した。彼の弟たち(次弟ジョチ・カサル、アルチダイ(第三弟カウチンの遺児)、末弟テムゲ・オッチギン)にはそれぞれ1,3,8団(これには母の分も含まれる)の千人隊集団を与え、東部の興安嶺方面に割り当てた。モンゴルでは、伝統的に右翼・左翼・中央と鳥が羽を広げたような形に軍隊を布陣するが、千人隊集団の割り当てはこれに倣ったものである。

チンギス・カンの滅後、諍いはあったものの、大きな混乱を引き起こさずに皇帝は選出されてきた。しかしクビライが皇帝を名乗ったときに抵抗があり、弟アリクブケそしてそのあとにオゴデイ家のカイドゥとの戦いは、クビライが亡くなるまで40年間にわたり続いた。このような内部抗争を抱えながらもモンゴル帝国は、東アジアの大元ウルス(元朝)、中央アジアチャガタイ・ウルス(チンギス・カンの次子チャガタイを祖とする)、キプチャク草原のジョチ・ウルス西アジアのフレグ・ウルス(クビライの弟)の4大政権に分かれ、大元ウルスの皇帝であるクビライを盟主(大カアン)とする緩やかな連合国家に再編された。

クビライの大元ウルスの版図はモンゴル高原と中華であった。モンゴルに併合される前の中華は、宋と呼ばれる王朝が支配していた。しかし満洲から南下してきた女真族によって華北は奪われ、江南だけを支配するようになった。女真族華北に建てられた国は金と呼ばれ、江南に逃げてきた宋は南宋と呼ばれた。金は第2代皇帝オゴデイによって滅ぼされ、宋は第5代皇帝フビライによって滅ぼされた。これによりフビライは中華の地を獲得するが、遊牧民が農耕民をどのように統治するかが課題となった。

エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』によれば、遊牧民モンゴル高原では一時的父方同居もしくは近接居住を伴う核家族であり、農耕民の華北・江南では父方居住共同体家族である。これら二つの地域は、家族システムが大きく異なるので、統治が容易でないことはすぐに気がつく。

この難事業をクビライは統治システムの中に独創的なアイデアを導入することで解決した。それを見ていくことにしよう。統治目標は、モンゴル高原の草原世界と中華(華北・江南)の農耕世界とを、政治的・経済的・軍事的に纏めることである。

これを論理的な構造で表そうとすると、接着空間(adjunction space)を用いるのがよさそうである。接着空間は数学的な概念だが、数学的な用語を用いないで説明すると、二つの空間が与えられたとき、同じと考えられるものを一つにまとめ、そのほかはそのままに残して新たな一つの空間を作ることとなる。数学的な記述では、二つの(位相)空間\(A,B\)において、二つの空間を張り合わせる接合関数(adjunction map)を\(f\)としたとき、\(A \sqcup_f B\)と記される。

チンギス・カンが支配した世界は広大だが草原世界にとどまる。しかしクビライの時代になると、農耕世界が加わる。彼の統治目標を数学的に表すと、草原世界と農耕世界をそれぞれ\(A,B\)としたとき、これらを張り合わせた新たな世界\(A \sqcup_f B\)を実現することである。
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それではクビライの実績を見ていくことにしよう。

最初は首都である。

モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイのときにモンゴルの本拠地であるカラコルムに首都が造営された。江南を含む中華全体が支配領域に含まれるようになった第5代クビライのときに、首都は大元ウルスの中心へと移された。しかも一つの都ではなく二つの都が設けられた。草原世界と農耕世界は万里の長城によって分けられる。その外側の草原世界の都として上都が、内側の農耕世界の都として大都が造営され、上都は夏の都として、大都は冬の都として使われた。夏と冬の居住地の間を移動している遊牧民の習慣をそのまま踏襲したと考えられる。

この様子を接着空間で表すと下図のようになる。草原世界と農耕世界が首都を介して接着される。
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上都と大都の間は350Kmほど離れていて、二都の間に3本の主要路と1本の補助路が造られ、その間には、官営工場都市、宮殿都市、軍事基地、屯営集落などが設けられ、二都を結ぶ長楕円形の移動圏は、首都圏として機能した。 そこで接合関数\(f\)は首都圏を一体と見なすように定義すれば、クビライの構想に合致することになる。
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クビライは大元ウイルスを3人の子たちに分封して統治した。第二子チンキムには燕王にしたあと皇太子にして腹裏(首都圏を含む中心部)を、第四子ノムガムには北平王にして「国家根本の地」であるモンゴル高原を、第三子マンガラにはフビライの私領であった京兆(けいちょう)・六盤山地区を割当てた。マンガラが支配した地域は、中華の西部の陝西・甘粛・四川・ティベットで、上都・大都と同じように、開成(六盤山)を夏の都、京兆を冬の都とし、その間を小型の首都圏として、腹裏と同じような機能を持たせた。その他にも王族に分与された地域で同じような状況を発見できる。このため首都圏は、草原社会と農耕社会を接合する機能として生かされたということが分かる。
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それでは次に統治システムへ進むことにしよう。
モンゴルの統治システムは側近政治で、重要な意思決定はクリルタイと呼ばれる集会でなされた。この集会には、王族や部将たちが集まり、カアン(君主)の選挙、外国に対する征服戦争の開始と終結、法令の制定などの重要事項が協議された。また軍事・行政の実務的システムは千人隊集団により行われた。

他方、中華の統治システムは、中央集権体制の官僚機構で、官僚たちは科挙制度により採用され、登用は能力主義である。中華を支配する歴代王朝によって長いこと培われたきた成熟した統治システムであった。この異なる統治システムをいかに統合するかがクビライに課せられた課題であった。
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彼が導入した統治システムは、見かけは中華、中身はモンゴルのハイブリッドであった。中央の統治システムは、中華のそれに倣って三省六部の構成である。三省は、行政を担う中書省、軍事を担う枢密院、監察を行う御史台からなり、また中書省の下には、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部が設けられた。

しかしそれぞれの役所に配属される役人は、中華の科挙制度によるものではなく、草原世界(モンゴル)の伝統に従った。すなわち中央の官僚システムの首班には、部族軍や私兵を持つ有力な族長やケシク長と呼ばれるクビライの親衛隊長が就いた。また、中央の行政事務を統括する高級官僚は、実務・指令能力が重視され、民族に関わらず、有力家系出身者やクビライの個人ブレインあるいはケシク(親衛隊)から選ばれた。このため、モンゴルだけでなく、ウイグル、キタイ、タングト、ムスリム漢人など、それぞれの民族が有する能力が生かされた。しかも組織の決定は、官僚組織の枠組みを超えて、モンゴルの伝統に従って有力者の集まりで決定されることが多く、官僚の任命も官僚組織の階段を登っていくのではなく、クビライや有力者の推薦によって恣意的に行われがちであった。
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また地方を統治する機関として、各地を11ないし12の地域に大区分し、そこに行中書省という出先の機関が設けられた(上都や大都を含む主要な地域は、腹裏と呼ばれ、中書省の直轄とされた)。見かけ上の組織は農耕世界(中華)の郡県制であったが、その運用は草原社会(モンゴル)での千人隊集団の制度を利用した。

華北や江南など宋が統治していた農耕社会の地域である。これらの地域をモンゴルが支配するようになると、一族分封の原理に基づいて、一族で均等になるように領域が分配された。その結果、大元ウルスの領域は、クビライが所領する直轄地と、帝室諸王・貴族・土着諸侯が有する投下領とが混在した。そこには、農耕社会と草原社会との接合だけでなく、大元ウルスによる中央政府と、投下領主による地方政府との接合も課題になった。

それは次のように解決された。それぞれの行政地域では、中央政府と地方政府(投下領)とから、そこでの長がそれぞれから任命された。例えば、路には路総監府が設けられたが、中央政府からは総監が、地方政府からはダルガチが送られ、州では中央政府から知州が、地方政府からダルガチが来た。府と県についても同じである。中央政府からの役人は、中央政府に関わる行政、例えば国税(塩専売制・商税)の徴収を行った。地方政府は、征服された土地でもその前からの人材が登用されることが多かったので、従来のしきたりに従った地方税の徴収を行った。このため地方税は地域によって異なった。
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これを接着関数で表すと次のようになる。ファスナーだと考えればよい。ファスナーを閉めること、すなわち中華的官僚組織のポジションにモンゴル的側近制度の人材を割当てることで、統治システムが形成されると考えることができる。
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最後に交易に関する部分を簡単に纏めておこう。モンゴル帝国が隆盛を極めた大きな要因は、ユーラシア大陸、アフリカに渡る広範囲な世界で交易をおこなったことである。帝国各地を運輸・通信で結ぶ駅伝制(ジャムチ)による陸の道、江南の物資を首都大都へ運ぶための大運河、そして、中近東・ヨーロッパ・アフリカまでをもつなぐ海の道でつないだ。

これらはこれまでと同じように接合関数によって表すことができる。ムスリム商業勢力は、陸の道と海の道を利用して交易の拡大を図り、モンゴルの拡大を図る資金源・情報源となるとともに、クビライ政権では財政管理・経済振興を図るムスリム経済官僚として活躍した。
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軍事国家を経済国家・財政国家に飛躍させた交易は、モンゴル帝国の偉大なイノベーションと言えるものであろう。モンゴルの伝統的な力ずくでの略奪を平和的・合法的な交易に代え、世界の貴重品を大都に集めるという概念の発見は、モンゴル、漢人ウイグル族ムスリムなど、多様な民族・宗教の人々が、現在の基準に照らしても、差別なく自由に活躍できる世界を作り出し、中世におけるグローバリゼーションの姿を示してくれた。一方で、広範囲にわたる活発な人々の異動は、史上有名な14世紀の黒死病というパンデミックを引き起こし、世界の人口の1/4がなくなるという悲劇をもたらした。今日の新型コロナウイルスパンデミックを考えるとき、歴史は繰り返されると思わざるを得ない。