bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武蔵国府・武蔵府中熊野古墳を訪ねる

昨日(5月17日)、武蔵国府があった地を訪れた。クスノキがうっそうと茂る大国魂神社と重なるように、国府跡は存在する。現在の地名は東京都府中市、最寄り駅は南武線府中本町駅、あるいは、京王線府中駅だ。

国府が設けられたころ、武蔵国で最も勢力のあった地域は、埼玉県行田市の埼玉古墳であった。しかもこの時期、武蔵野国東海道ではなく、東山道武蔵路に属していた。このため、ヤマト王権に近くて便利なのは埼玉のほうだ。それにもかかわらず、なぜ府中に国府が置かれたのかと感じていたので、現地を訪れて手がかりをつかみたいと思い出かけた。

文献からの手掛かりは以下の通りだ。この地域の状況を大きく変えたのは、国府が設定される1世紀半前の事件だろう。6世紀の中ごろ、関東と九州で、その地の豪族とヤマト王権の勢力関係を一変させる事件が起きた。九州での磐井の乱(527年)、関東での武蔵国造の乱(534年)だ。

武蔵国造の乱は、『日本書紀安閑天皇元年(534年)状に記載されている。笠原直使主(かさはらのあたいおぬし)と、同族の小杵(おぎ)との勢力争いだ。小杵が、上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)の助けを借りて、使主を殺害しようとしたが、この謀を知った使主が京に上り、ヤマト王権に助力を求めた。ヤマト王権は小杵を誅し、使主を武蔵国の国造(くにつくり)に定めた。使主は、これを受けて、横渟・橘花・多氷・倉樔の4か所を屯倉(みやけ)として献上した。

横渟は横見郡(埼玉県比企郡吉見町)、 橘花橘樹郡(川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近)、多氷は多磨郡(東京都あきる野市)、倉樔は久良郡(横浜市南東部)と比定され、橘花・多氷・倉樔は、府中を囲むような地域である。屯倉大和王権が直接経営する土地を意味し、献上されたこの地域は、ヤマト王権にとっては重要な地となり、府中に国府を設置する必然性が存在するようになったのだろう。

武蔵国府は、前記したように、南武線府中本町駅あるいは京王線府中駅が最寄り駅だ。下図で下部に府中本町駅、上部に府中駅、中央の下部に大国魂神社、その左右にふるさと府中歴史館、武蔵国府跡がある。さらに、府中本町駅のすぐ右には、府中御殿井戸跡発見場所がある。
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平成26年に府中市教育委員会から提案された国史武蔵国府保存管理計画書には、武蔵国府関連遺跡と周辺の遺跡が掲載されており、当時の状況が分かる。図下部の武蔵国衙跡が国府の中心で、前に述べたように、大国魂神社と重なっている。また、上部には少し遅れて設置されたであろう武蔵国分寺跡がある。これらの地域が東山道武蔵路で結ばれている。
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一つ前の地図に戻ってみると、国府跡は大国魂神社の東側にある。ここには国府の中枢の役所である国衙が置かれていた。赤い柱は、そのときの建物の柱の跡があった場所だ。
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また府中本町駅の東側に昨年の11月から「国司舘と家康御殿史跡広場」がオープンしている(家康御殿とあるのは、家康、秀忠、家光の三代がこの地を鷹狩の宿舎などとして用いたため)。国司舘は国司が居住する屋敷で、やはり柱の位置が示されている。帰宅してから存在に気がついたので残念ながら写真がない。府中観光協会がここの様子を説明しているので、そちらを見て欲しい。

大国魂神社の参道に沿った「ふるさと府中歴史館」には土器や瓦などの出土遺物が展示されている。
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府中が武蔵国府の地として選ばれた理由が、先ほど説明したように屯倉の地にあったとすれば、屯倉の管理・運営を支えた地元の豪族が存在するはずだ。そのヒントとなるのが武蔵府中熊野神社古墳だ。

この遺跡は南武線の西府(にしふ)駅が最寄り駅だ。西府駅からほぼ真北に向かい、甲州街道を越えた地点が、熊野神社だ。それを奥に進んでいくと古墳にたどり着く。
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熊野神社と古墳への入り口だ。
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熊野神社を右手に、
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左手にしたときは
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全体を写すと、
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この古墳は、上部が円く、下部が方形の、珍しい形の上円下方墳だ。同型の古墳は、奈良市のカラト古墳、沼津市の清水柳北1号墳、福島県白河市の野路久保古墳が確認されているに過ぎない。しかもこれらの段築は2段だが、ここは3段だ。高さ4.8m(推定高5m以上)、上円部の直径16m、下方部は、一辺が、それぞれ上段では23m、下段では32mの正方形だ。それぞれの長さ比は、1:√2:2となっていて、均衡がとれていて面白い。

埋葬施設は複式構造の切石積横穴式石室である。石室に入ることもできる。
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この古墳ができたのは、飛鳥時代の7世紀中ごろである。武蔵国府は奈良時代の初めから平安時代の中頃(8世紀~11世紀)に設置されていたので、古墳は、武蔵国府が設置される直前に構築されたので、武蔵国府とのつながりが特に深いと推測されている。

なおこの古墳に先立って、6世紀から7世紀前半にかけては、西府駅南側の御嶽塚古墳群、その西側に高倉古墳群(地図の高倉塚古墳もその中の一つ)が存在しており、もう少し古い時代にも、小地域の有力者が住んでいたと考えられている。

最後になったが、もちろん大国魂神社も訪れた。社伝『府中六所社伝』などに記された伝承によれば、今から1900年前に創建されたとなっている。国府よりも古いとなるが、果たしてどうなのだろう。大国魂神社という名称は明治になってからのもので、それまでは六所宮と呼ばれていた。これは武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせて祀るためである。境内には様々な建物が立っている。それらを見ていこう。

ますは隋神門、
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隋神の一方の神は櫛磐間戸命で
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他方の神は豊磐間戸命である。
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鼓楼、
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拝殿、
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本殿、
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徳川家所縁の東照宮も、
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参道、
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今回の目的は、国府がなぜ府中に設置されたかを探ることであった。武蔵国造の乱によってヤマト朝廷に献上された屯倉についての手掛かりは得られなかったものの、府中国府跡に向かっている電車のなかで、武蔵府中熊野神社古墳の存在を知り、訪ねることができたのは良い収穫だった。そのおかげで珍しい形の古墳を見ることができたし、隣接する展示館には丁寧な説明があり、新しい知識を得ることができた。

鞘尻金具(さやじりかなぐ)も新しく得た知識の一つだ。これは太刀の鞘の先に使われた金具で、七曜文(1個の小さな円を6個の小さな円が囲い込む)という飾りがついている。この文様は、富本銭のものと同じで、7世紀後葉の作品であることを示している。古墳が構築された時代を教えてくれる物証にもなっていて、ささやかなものが重要な情報を伝えてくれるという良い例だ。今後も国府跡の整備が進むことと思われるので、府中が国府に選ばれたことを示す新たな発見があることを期待して、散策を終えた。
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