bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-城めぐり・岡山城(烏城)

今度の記事は黒い城として知られている岡山城である。真っ黒いカラスになぞらえて烏城とも呼ばれる。この城の付近には旭川が流れていて、その流域には岡山、石山、天神山という三つの丘があった。戦国武将の宇喜多直家は、石山にあった城を手に入れて本拠地とし、この地域を戦国の表舞台に立たせた。そして直家の子・秀家は岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(豊臣秀吉の指導によるとも伝えられている)。城下町は、城の北と東を旭川が守るように河道を変更し、さらに内堀、中堀、外堀をつくり、南北に長く作られた。岡山城は、平野の中の丘の上にあるので、姫路城と同じように平山城である。

岡山市政策局事業政策課発行の『都心創生まちづくり構想』によれば、岡山城の内堀、中堀、外堀は旭川に沿って作られた。

城下町も同じように形成された。南北に長いのが特徴である。

岡山城は、岡山駅からは2km足らずだが、この日はかなりの雨が降っていたので、バスを利用した。

県庁前までバスで行き、その後天守を目指した。

上図の下部にある橋・内下馬橋の中ほどから見た内堀の石垣。烏城公園の碑がある。

鉄門(くろがねもん)跡。1階部分の木部をすべて鉄板で覆い、堅固で厳めしい造りであったため、この名がついた。

不明門。普段は閉ざされているので、この名になった。

天守。明治以降も残され、詳細な図面も起こされたが、戦災で焼失してしまった。昭和41年に往時をしのばせる天守が再建された。大入母屋造りの基部に高楼を重ねた望楼型である。姫路城と同じである。

廊下門。本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。

廊下門近辺から天守を見る。

月見櫓の石垣。池田忠雄が1620年に築いた石垣で、隅は算木積(長方形の石を交互に振り分けて積む方法)になっている。

コトバンクによれば岡山城の歴史は次のようである。正平年間(1346~70)に上神高直によって築かれた石山城が初めとされている。元亀元年(1570)に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して城を奪い、天正元年(1573)に入城し増築する。その子秀家は豊臣秀吉の養子となり備前57万石を領し、城もそれにあわせて大改修された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀家は城と所領を没収され、かわって小早川秀秋が城主となった。しかし秀秋が病没したため、慶長8年(1603)に池田輝政の二男忠継が28万石で入封し、以来池田氏の一族が世襲した。なお、姫路城のところで、本田忠刻と千姫の娘・勝姫を紹介したが、その勝姫は播磨藩三代目藩主・池田光政の妻となった。

あいにくの雨が降っている中での見学となった。そのため薄暗い背景の中に黒い城が溶け込んでいるような感じで、城を正面から見たとき、2次元の平らな面に描かれた厚みのない建造物のように見え、不思議な感覚にとらわれた。このブログでの写真を見ても同じである。黒だと厚みがあるように感じさせるのが難しいのだと知った。このあと後楽園を見る予定であったが、雨脚が強くなってきたのであきらめた。

次は備中高松城跡である。

早春の四国・中国旅行-城めぐり・姫路城(白鷺城)

姫路城はよく知られているように日本を代表する城で、ユネスコ世界文化遺産に指定され、国宝でもある。是非見学したいと思ってはいたが、今に至るまで果たせずにいた。今回が初めての見学になるが、一緒に旅行する仲間から、ガイドをして欲しいと依頼された。見ていない場所をガイドするのは憚られたが、友達同士なので上手に説明できなくても許してくれるだろうと思い、引き受けた。このためちょっと荷の重い見学となった。

姫路城は兵庫県の西部にあり、山陽新幹線の姫路駅で降り、北口から大手前通りを北の方に向かうと辿りつく。姫路城の近くには動物園、美術館、歴史博物館、文学館、図書館、好古園、公園、学校などがあり、文教地域となっている。

姫路城として現在残っている部分は内堀とその内部である。かつては内堀の外側には、中堀、外堀があり、外堀は姫路駅の近くを巡っていた。外堀と中堀の間の外曲輪には町人の居住地が設けられ、中堀と内堀の間の中曲輪には武士の屋敷が造られ、内堀の中の内曲輪には天守・櫓・御殿など城の中枢が置かれた。*1

姫路城は播磨平野(播州平野とも)の中に建てられているため山城ではない。しかし平城でもない。天守などの城の中枢は鷺山・姫山と呼ばれる小高い丘の上に造られているので、平山城である。

それでは姫路城を見ていこう。内堀では数日前から和船の運航が始まったので、なんでも体験ということで、乗り込んだ。なんと乗客は、江戸時代体験ということでもないだろうが、笠をかぶらされた。理由を聞くと、大手門前に架かる高さがあまりない橋をくぐるとき、乗客の頭が何かの調子でぶつかっても大事にならないようにするためだと教えてくれた。

舟からは城壁の様子がよくわかる。下の写真は石垣が切れるところである。左側の木があるところは、急斜面をそのまま利用して、城内への侵入を防いでいるとのことだった。

舟から見た大手門。左側の橋は桜門橋。この門は昭和13年に新造された。当時、姫路城は陸軍の練兵場として使われていたため、軍用の車両を通すため、間口が大きくなっていると話してくれた。

大手門を抜けると三の丸。姫路城がとても優雅に見える。

これから姫路城の奥へと入る。

城の中は次のようになっている。今回は、東京に戻らなければならない仲間がいて、時間が限られていたので、一気に天守へと向かった。

最初にある菱の門。華頭窓・格子窓の金色の装飾金具が輝いていた。また木彫りの花菱が冠木(かぶき)に取り付けられているのが見えた。

門を抜けると三国堀がある。ここからの城の眺めが一番良いとされている。

いの門。門にはイロハ順に名前がふられている。この門のつくりは高麗門である。

ろの門。これも高麗門である。

はの門。櫓門で、通り抜けるときに上から鉄砲や槍で攻められるようになっている。

にの門。やはり櫓門である。

ほの門へと進む。

ほの門の近くに「姥ヶ石」がある(金網で覆ってある石)。言い伝えでは、羽柴秀吉がこの地に城を建てようとしたとき石がなかなか集まらなかった。これを聞いた老婆が、この臼を使ってくれと申し出た。喜んだ秀吉はこの石臼を天守の土台に積んだ。この話を聞いた城下の人々が我先にと石を提供し、城は瞬く間に完成したということである。

そして天守に登る。天守は連立式で、大天守、西小天守、乾(いぬい)小天守、東小天守の大小四つからなる。大天守は、高さが33メートル、外観5層、内部7階で、現存天守としては最大規模を誇っている。

天守から見た姫路の街並み。下に三国堀が見える。

姫路城の歴史は古く、元弘元年(1331)の乱(鎌倉幕府打倒をもくろむ後醍醐天皇と北条家との戦い)のとき、播磨守護・赤松則村が陣を構えたのに始まり、正平元年・貞和2年(1346)則村の子貞範(さだのり)が築城したと伝えられる。赤松氏は目代・小寺氏にこの城を守らせた。

嘉吉の乱(1441)の後、一時山名持豊(宗全)が入ったが、天文14年(1545)小寺氏が御著(ごちゃく)城に移ってからは、その臣黒田氏が入った。天正8年(1580)に羽柴秀吉が毛利氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守を築いた。これが現在の姫路城の始めである。

しかし今日みるような建物が建てられ、現在のような規模に拡張されたのはもうすこしあとで、慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ってからであった。輝政は徳川家康の女婿で、播磨・備前・淡路を領する大々名で、本格的な近世城郭に大改修することを計画した。入封の翌1601年に着工し、9年の歳月をかけて完成させた。

天守が完成したのは1609年で、そのあと元和3年(1617)に池田光政(みつまさ)が鳥取へ転封し、桑名より本多忠政が入り、さらに松平(奥平)、松平(結城)、榊原、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と入れ替わり、寛延2年(1749)に酒井忠恭(ただずみ)が前橋より転封され、以後明治維新まで世襲した。

西の丸は時間の都合で訪問できなかったが、そこには千姫化粧櫓がある。千姫は、慶長2年(1597)に誕生、父は2代将軍となる徳川秀忠。母は織田信長の妹・お市の三女・江(ごう)である。7歳になったとき、11 歳の豊臣秀頼と結婚し、大坂城に入った。12 年後の大坂夏の陣のとき、千姫は落城する城内から救出された。

元和2年(1616)、本田忠刻(ただとき)の正室となる。義父の本田忠政が姫路に転封となり、忠刻と姫路入りした。この時西の丸に忠刻のための御殿が建てられた。間もなく、勝姫、幸千代姉弟を相次いで出産、本多家中は華やいだ雰囲気に包まれた。しかし幸せな日々は長く続かず、元和7年(1621)幸千代が、5年後には夫・忠刻、続いて忠刻の母・熊姫、さらに千姫の母・江が次々と他界した。忠刻亡き後、千姫は江戸・竹橋の御殿に帰り、下総・弘経寺の了学上人により落髪、天樹院と号した。寛文6年(1666)に没した。享年70歳。

姫路城の隣に兵庫県立歴史博物館があり、そこに大天守の骨格模型があった。大天守は地下1階・地上6階の7階建てで、地下から5階まで2本の心柱が貫いている。一方の心柱は一本の大柱で、他方は2本の大柱を継いで作られた。1階から5階までの床はこの心柱で支えられ、心柱がバランスをとっている。6階と7階の層は心柱の上に乗っかって、心柱の重しとなっている。下層が入母屋造の建物になっていて、その上に望楼を載せた天守を望楼式というが、姫路城も望楼式天守である。

今回の訪問では、俄かガイドの方に神経を集中したため、じっくりと姫路城を堪能することはできなかったが、白さが鮮やかで、とても優雅な城であるという印象を強く受けた。また機会があれば、その時はゆっくり見学したいと思っている。

次は岡山城である。

*1:明治22年(1889)に市政をひいたときの人口は24958人なので、江戸時代は2万人くらいと推定される

早春の四国・中国旅行-城めぐり・備中松山城(天空の山城)

大学時代の友人と姫路から淡路と讃岐を巡り、その後別れて、高校時代のクラスメートに案内されて岡山へと、全部で4泊5日の旅をした。これまでは旅行をしたときは経路に従って見学した場所を説明してきたが、今回はテーマごとに説明したいと思う。まずは今回の主目的であった「城めぐり」から始める。それでは山城から平城の順で説明する。城は言うまでもなく軍事的防衛施設で、古い時代には山城が多く、新しい時代になると平城が多くなってくる。これは土木技術の発達と関連していて、まだ未熟な時代には山の地形を利用して山城を構築したが、発達してくると平地に高台や堀を構築できるようになり平城を造るようになった。

今回訪ねた山城は、天空の山城として有名な備中松山城で、この時代の山城では唯一天守を残している。臥牛山(標高487m)にあり、天守のある所は標高430mである。岡山駅で出迎えてくれた友人の車で約1時間、臥牛山5合目の城町ステーションで車を駐車して、登城整理バスで8合目のふいご峠まで運んでもらった。そこからは坂道を20分700mをひたすら歩く。

坂道は敵の攻撃をかわすためなのでかなり急であった。友人とどちらが長く持ちこたえられるかを競いながら、息を切らせて登る。二人とも呼吸を整えざるを得なくなったため、途中で小休止を入れ、眼下に見える高梁市の風景を愛でた。

高梁市から観光パンフレットが配布されていて、その中に城内の地図(下図)がある。左の広場が三の丸、中央左が二の丸、中央右が本丸、右中央の建物が天守、右の建物が二重櫓である。

城内は三の丸、二の丸、本丸と階段状になっているので順に進む。まずは三の丸。

さらに近づいて二の丸から見た備中松山城で、左から六の平櫓、五の平櫓、天守である。

本丸より見た天守。木造本瓦葺き・二層二階であるが、三層に見える。そして国の重要文化財に指定されている。籠城戦を想定して、天守の中には囲炉裏や装束の間が設けられている。

天守の二階には、城の守護神を祭る御社壇がある。

天守の裏には国の重要文化財の二重櫓があるのだが、訪問時にはその存在を知らなかった。

備中松山城の歴史は、コトバンクには次のように説明されている。この城がある地は山陰と山陽を結ぶ戦略上の要所として知られ、中世から戦乱が絶えなかった。仁治元年(1240)に秋葉重信が地頭になり、臥牛山の一番北の峰の大松山に最初の城(簡単な砦)を築いた。以後、城主はめまぐるしく替わり、戦国時代の三村元親の代に本格的な山城として整備された。しかし元親は毛利輝元と争って自刃した。関ヶ原の戦いの後、小堀正次・政一父子が代官として入り、城の改修を行った。その後、池田氏(1617~1641)、水谷氏(1642~1695)と領主は替わるが、現存する天守などの建築物は水谷氏時代に築かれた。水谷氏改易後、安藤(1695~1711)・石川(1711~1744)・板倉氏(1744~)と、譜代大名が城主となった。幕府の老中となった板倉氏7代目の勝静(かつきよ)の代に明治維新を迎えた。

備中松山城は先に記したように「天空の山城」として有名である。雲に浮かんだ城を眺めると幽玄な気分に誘われるであろうが、今回は残念ながらそのような機会には恵まれなかった。またの機会があればそれに期待しよう。

次の記事では姫路城を説明する。

お台場の夜景を楽しむ

お台場に行った。それもフジテレビ本社の18階の食堂に行った。ここは夜景のきれいなところとして知られている。まずは写真から。中央左側の橋はレインボーブリッジ、左下の像は自由の女神像(ニューヨークの1/7のサイズ)。下半分のところに浮かんでいるのは屋形船。対岸の左側は芝浦、中央の橋の橋脚の上から出ているのが東京タワー、右側は新橋である。

地図で示すと、赤いマークがあるところがフジテレビ本社である。ここから左上部にある東京タワーを見るようにした写真となる。

お台場は、今日でこそ、フジテレビ本社やショッピングモールのダイバーシティー東京プラザで有名で、観光客の訪れるところになっているが、幕末には江戸を守る場所であった。嘉永6年(1853)のペリー来航は、江戸幕府の役人だけでなく町人・百姓に至るまで、多くの人々を驚愕させた事件であった。これを機に砲台を設置して防備に備えたのがお台場である。その概要はウィキペディアには次のように記述されている(一部修正)。

嘉永6年(1853)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国を迫った。脅威を感じた幕府は、老中首座の阿部正弘の命でお台場を築造した。江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に11基ないし12基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ、およそ8か月の工期で嘉永7年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部が完成し、品川台場と呼ばれた。お台場は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけた呼び名である。

2度目のペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した。第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した。第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。

完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることも狙った。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を吹くことなく開国することとなった。

現在は、ダイバーシティー東京プラザで、ガンダムが守りを固めている。ガンダムには平和がずっと続くことをお願いした。

江戸時代の学び方

歴史の同好会で年に一度の発表の時期が巡ってきた。昨年まではほぼ秋だったのが、今年はなぜか早春に回された。発表予定の順番が決まるのが12月も押し詰まった年末である。これまでは半年以上も時間をかけて構想を練ればよかったが、今年は短い期間の中での準備となってうまく纏められるか、スケジュールが発表されたときは心配になった。

70歳で退職してすぐに、基礎的な知識さえ持ち合わせていなかった日本史の勉強を始めた。一人では持続できそうもないので、仲間を求めて入会したのが今の同好会だ。ここでは毎月2名の会員が発表することになっている。入会した次の年から発表する仲間に入れてもらった。教科書にしたがって、古い時代から始めて新しい時代へと話題を見つけながら、これまで話を続けてきた。昨年は室町時代雪舟について話題を提供したので、今年は江戸時代にして、この時代の人々がどのように学んできたかについての話をすることにした。

同好会での研究発表は、自由な雰囲気が良い。在職していたときも論文執筆は年がら年中だったし、国際会議にも頻繁に出かけた。しかしそこでの論文は審査を受けたいわゆる公的な論文である。それに対して同好会でのそれは、審査などはないし、発表の形式も自由である。のびのびと自分の意見を仲間たちに話をできることが楽しい。

現在の学びの場はもちろん学校である。それに対して江戸時代は藩校や寺子屋である。前者は教える枠組みが定まっている公教育であるのに対して、後者は教える側の自由意思に任された私教育と言っていいだろう。ちょうど退職前に書いていた論文が前者に当たり、退職後のそれが後者に当たる。どちらの方がよいのだろう。

それにしても江戸時代の学びの場はとても大きな広がりを持っていた。庶民から武士階級まで、これほど多くの人たちが学び舎に通ったことは奇跡に近いように思える。多くの人たちが社会からの要求にこたえて知識を身に付けることを強いられたともいえそうだし、あるいは持て余している時間を潰すために本を読むという娯楽に没頭したともいえそうである。いずれにしても識字化率が高まったことで、明治という新しい時代に脱皮できたといえる。このように考えるといくつもの疑問が沸き起こってくる江戸時代の学びについてまとめてみようと考えて以下の報告を行った*1

*1:著者名だけペンネームに変えてある

横浜北部で菜の花と桜を愛でる

先日、横浜市郊外の川和町で菜の花と桜がきれいに咲いている様子がテレビで紹介された。午前中になんとも消耗な会議に出席し、気が滅入ったので、憂さを晴らすべく帰りに立ち寄ってみた。場所は横浜市営地下鉄グリーンラインの川和駅で、2番出口からは目と鼻の先である。

桜の木は一本だけなのだが、薄紅色に綺麗に咲いていて、菜の花の黄色とのハーモニーが素晴らしい。桜の種類は「大漁桜」で、原木は熱海市網代漁業組合の網干場にある。花の色が鯛の色に似ているのでこの名がつけられたそうである。角田春彦さんというかたが作られた品種で、早咲きの大島桜の種を熱海市営農場で種まきし、育成した苗から選別されたそうである。すべての花に旗弁(花の内側に旗をあげたような小さな花びら)があるそうだ。
別の角度から、

さらに別のところから、右の白い駅舎は川和駅である。

また、中央と左の葉を落としている樹木はシドモア桜である。エリザ・R・シドモアさん(1856~1928)は、アメリカの著作家・写真家・地理学者で1885年から1928年にかけて日本をたびたび訪れて、"Jinrikisha Days in Japan"(『日本・人力車旅情』・『シドモア日本紀行:明治の人力車ツアー』)を始めとして、日本に関するいくつかの本を出版されている。1885年にワシントンに帰国する際にワシントンDCに日本の桜を植える計画を着想したが、その後彼女の関心は他の方に向かってしまった。彼女の計画が現実となったのは、1909年に大統領となったウィリアムス・タフトの妻ヘレンが興味を示したことによる。そして西ポトマック公園(Tidal Basin of the Potomac River)などに植えられた*1。1991年に、横浜外人墓地にあるエリザの墓碑の傍らに里帰りした桜が植えられ、シドモア桜と名付けられた。川和のこの地には2012年春に植えられた。今年も3月末にはきれいに咲くことだろう。

桃の花と思われるが、早春を迎えたもう一つの光景があった。

そして最後は一面の葉の花畑。

シドモア桜が咲くころまで、菜の花がこの美しさを保ってくれることを願って、帰路についた。

*1:3月14日のCNNによると、タイダルベイスン周辺では、防波堤補修のために桜の木160本が伐採されるとのことである。また補修後には桜274本を含む450本余りが植樹されるそうである。

川崎市北部の五反田川に河津桜を見に行く

私が子供のころは、桜と言えば入学式と一緒に思い浮かべる光景だった。もう何十年も前になるが、この年は桜の開花が遅れて、4月12日に入学式をする大学に進学した私は、希望にあふれた祝いの日を、綺麗に咲きそろった桜に囲まれて寿いだ。しかし近頃は、気候変動による温暖化が続き、桜が咲く時期はいつのころからか卒業式の頃となり、さらに卒業式の頃にはもう散っているという事態にまでなっている。最近は、節目の行事と一緒にというわけにはいかないようである。

日本人に好まれているソメイヨシノは今年も我々を楽しませてくれることだろう。しかし多くの場所では老木となり、名所と言われていたところでも、衰えが目立ち始めている。ソメイヨシノは江戸時代の後期に開発された品種で、今のソメイヨシノの樹木はその時の木からのクローンである。このため植えられた時期は新しいとしても、すべての木はそろそろ200歳という年を迎える。木の寿命についてはよくわからないが、ソメイヨシノはそろそろお年ではと思わないでもない。

私が住んでいる住宅地の周辺を始めとして多くの場所で、老木となったソメイヨシノを切り倒し、他の品種に植え替え始めているようである。その中でも際立って好まれているのは河津桜ではないだろうか。この桜は1955年に伊豆の河津町で発見された。当初は、河津川に沿って苗木が植えられ、いつのころからか早春の桜として皆の目を楽しませるようになった。そして評判が高まるにしたがって、あちらこちらで植えられるようになり、目に触れる機会が多くなった。

珍しいニュースがないかとブログをたぐっていたら、川崎市北部の生田でも河津桜がきれいに咲いているという記事を見かけた。そこで出かけたついでに立ち寄ってみた。小田急生田駅から線路沿いに向ヶ丘遊園駅のほうに歩いて5分ほどのところで、五反田川沿いである。

ここに25本ほどの河津桜が植えられている。



メジロも蜜を求めて飛び回っていた。


川面の河津桜も綺麗である。

花見をしているのは地元民だろうと思っていたら、日本語以外の言語があちらこちらから耳に入ってきたのにびっくり。インバウンドの人々がこのようなところまで見学に来ていることに驚いた。有名な観光地はオーバーツーリズムになっていて、普段の日本を楽しもうと思うインバウンドの人たちは、どこからか情報を仕入れて、我々にとっても珍しいところに来ているようだ。インバウンドへの認識を新たにした。

日銀・東証を訪れる

あるグループの仲間と連れ立って、金融の中心である日本銀行東京証券取引所を中心に、日本橋兜町の界隈を散策した。東京駅の日本橋口に、通勤時間帯さなかでの集合であった。最近は通勤ラッシュの時間帯に出かけることはないので、どの程度の込み具合かの認識がない。そこで安全第一と考えて新幹線で向かった。朝方は新横浜駅から東京駅までは指定席も自由席となるので、快適に都心に向かうことができる。さらにアップルウォッチをかざすだけで在来線から新幹線へとすり抜けられるので、切符を購入する手間も省けてとても便利でもある。

皆が集合したところで日銀へと向かった。途中、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一像を見る。彼については、後で詳しく説明するので、まずはその姿だけを目にとめておく。戦前、ここに像が建てられていたそうだが、戦争中の金属供出で撤去され、戦後になって立て直されたそうである。

さらに行くと常盤橋門跡がある。江戸城と街道を結ぶ江戸五口(他に田安門・神田橋門・半蔵門・外桜田門)の一つで、江戸城から本町通り(現在の大伝馬本町通り)・浅草橋門を経て奥州道へと通じる交通の要衝であった。

そして日本銀行。この銀行は、銀行の銀行ともいうべき存在で、その目的は「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」だそうである。

今回の目的は、旧館(本館)の見学である。見学にはあらかじめ予約しておくことが必要で、予約を取るのはなかなか大変だったと世話人の方が苦労話をしてくれた。

日本銀行は、明治15年(1882)に永代橋のたもとで開業したが、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定されたそうである。現在の本館の設計者は、当時の建築学界第一人者の辰野金吾(帝国大学工科大学教授)である。彼は日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)や東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた。なお、この建物は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定された。

本店の場所として日本橋が選ばれたのは以下の理由からだそうである。①江戸時代から両替商が軒を連ねていて金融・商業の中心地であった、②大蔵省や同省印刷局が常盤橋を隔てた大手町にあった、③日本橋は、本館建設にあたって建設資材の運搬に活用できるなど水運の利便性が高く、江戸時代には街道の起点で、交通の要所であったことである。

辰野金吾博士は、日本銀行本店の設計にあたって、欧米各国を訪れて銀行建築を調査し、ベルギー国立銀行を設計したアンリ・ベイヤールに学び、調査のためイングランド銀行を度々訪れてロンドンで設計原案を作ったことから、これらの銀行を模範に日本銀行を設計したとされている。外観は古典主義様式で秩序と威厳を表現し、中庭の1階の列柱はドリス式様式、正面・中庭・西面の2階から3階を貫く双柱はコリント式の様式で、正面中央はドーム(丸屋根)を冠している。


内部に飾ってあった写真から全体が分かる。

外壁は外装材の石と内装材のレンガを積み上げ、石の種類は地階と1階は花崗岩、2階以上は安山岩である。大正12年(1923)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしなかったが、近隣火災からの延焼でドームや一部フロアが焼けた。現在のドームはその後復元したものである。
内部は一部写真を撮ることが許された。1億円の束は10kgの重さがある。

7月に発行される新札もお目見えしていた。

地下金庫の中はイギリス製の分厚い扉で守られていた。

お札を運んだマニ車の模型。

天井付近。建てられたころはガラス窓で覆われて太陽光が差し込んでいた。関東大震災でここから火が入ったため、そのあと防火上の理由から塞がれた。

日銀見学後は隣にある貨幣博物館に寄った。ここには古代の貨幣から次の新札までの貨幣の移り変わりと、偽造防止のために各国のお金にどのような工夫がなされているかについての紹介があった。残念ながら撮影は禁止だった。唯一許されたのが、ヤップ島で使われていたという大きな石貨である。

日本橋に向かう途中で三浦按針屋敷跡の碑を見る。

日本橋で、魚市場発祥地の碑を見る。

日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・按針町の広い範囲で魚市が開かれ、江戸時代もとてもにぎわっていた。浮世絵『東海道五十三次(隷書東海道)』「日本橋」(歌川広重 - ボストン美術館)からもその様子が分かる。

明治時代に作られた旧道路法で、日本橋は国道の起点とされた。東京市道路元標は、大正12年(1923)の関東大震災から復興したことを記す日本橋のモニュメントとして昭和3年(1928)に建てられた。

東京市道路元標は都電の架線柱として使用されていたが、その廃止(昭和47年)に伴って北西側袂に移設された。同時に、東京市道路元標があった場所に、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。

現在の日本橋明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造り2連アーチ橋である。照明灯の柱などには和洋折衷の装飾が施されていて、中でも妻木頼黄(よりなか)考案の麒麟や獅子のブロンズ像は完成度の高い芸術作品である。

日本橋郵便局は郵便発祥の地でもある。

この後は東京証券取引所を目指した。途中、日本最古の銀行の第一国立銀行があった場所に立ち寄った。設立者は渋沢栄一である。彼の生誕地・深谷市のホームページに、彼の紹介があるので、そこから抜粋して紹介する。

天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に誕生し、幼少の頃より、家業の藍玉製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受け、7歳頃から従兄の尾高惇忠のもとで「論語」などの四書五経を学んだ。

文久3年(1863)、尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを企てた。幕府からの追手を避けるために故郷を出た後、一橋家に仕える機会をえて、財政の改善などに手腕を発揮した。徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察の随行員に抜擢されて渡欧し、先進的な技術や産業を見聞した。

帰国後、蟄居した慶喜のいる静岡で地域振興に取り組んだのち、明治政府に招かれて新しい国づくりに関わった。その中の一つに富岡製糸場の設立がある。明治6年(1873)、官僚を辞めた後は、第一国立銀行の総監役となり、民間人として近代的な国づくりを目指し、生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力した。昭和6年(1931)、91歳で没した。

明治時代の浮世絵師・小林清親は、浮世絵「海運橋・国立第一銀行 」(小林清親、 浮世絵名作選集より)を描いている。

東京証券取引所の正面近くにある「鎧の渡し」にも寄ってみた。その由来が説明書に次のように記されていた。平安時代(1050)の奥州平定の途中、源義家渡し船に乗っていて暴風にあい沈みそうになった。そこで鎧を沈めて龍神に祈りを捧げたところ無事に渡れたそうである。

明治5年(1872)に橋が架けられ渡しはなくなった。江戸の名所の一つだったのだろう。浮世絵『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」(歌川広重)が残されている。

最後は、東京証券取引所だ。

ここは、日本最大の金融商品取引所である。かつては立ち合いでディーラーが激しくやり取りをして熱気を帯びた場所であったが、現在では取引はコンピュータで行われるため人影がほとんどない。大きな電光掲示板に株価の変化が示されるだけである。訪れた日は4万円を超えることが期待され、報道陣がその瞬間を今か今かと待ち構えていた。

直径17メートルのガラスシリンダーで覆われたマーケットセンターは、市場の透明性と公正性を表現するためにガラス張りになっている。

センターの上をぐるぐると回っているチッカーは、一周が約50mの大きさの電光掲示板で、売買が成立した株価が次々と表示される。売買数が多くなると回転速度も速くなる。

証券史料ホールには東証の歴史を中心に展示・解説がなされていた。江戸時代の古い地図もあった。東京駅(写真の真ん中)から東京証券取引所(真ん中から少し下がったところ)まで、まっすぐに運河があるが、ほぼこれに沿って歩いたことになる。

歩くだけだと小一時間の距離だが、日銀と東証では係の人に案内してもらい、途中でも世話人の方がブラタモリに倣って詳しく説明してくれ、しかもお昼を抜いての強行軍だったのでいささか疲れたが、簡単には見ることができない場所を詳しく説明してもらい、有意義であった。

證菩提寺の阿弥陀三尊像を鑑賞する

昨年の今頃、證菩提寺*1を紹介したが、その中で国の重要文化財阿弥陀三尊像について簡単に触れた。その三尊像が横浜市歴史博物館の「横浜市指定・登録文化財展」で展示されている。しかも撮影もOKということなので、早速出掛けた。まずはお揃いのところから、

中央が阿弥陀如来坐像、写真の左側が右脇侍の勢至菩薩立像、右側が左脇侍の観音菩薩立像である。三尊像はそれぞれ木造で漆箔が施され、平安時代末期に造立された。12世紀ごろの和様彫刻の典型的な作風で、仏師は京都、奈良で活躍した一流の仏師と推定されている。また国の重要文化財に指定(1925年)されている。

阿弥陀如来は、大乗仏教で信仰の対象となっている如来(釈迦や諸仏)の一尊である。浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、浄土に往生できると説いている。そして阿弥陀如来は西方にある仏国土(浄土)の教主とされている。

平安時代初期に、入唐した最澄空海によって密教がもたらされたが、中期から後期になると、辛苦を伴う修行をしなくても、単に念仏を唱えるだけで浄土に往生できるという浄土教が主流になった。これに伴って、宇治の平等院、平泉の中尊寺、鎌倉の永福寺のように極楽浄土を思わせるような寺院が建立され、その本尊として阿弥陀如来三尊が祀られた。證菩提寺阿弥陀如来三尊は、どこの寺院の本尊として造立されたかは不明である*2

それでは一躰ずつ見ていこう。最初は阿弥陀如来坐像、

右脇侍の勢至菩薩立像、

左脇侍の観音菩薩立像、

最後は再びお揃いで、

このように間近で見るチャンスはそうそうないので、とても良い機会を得ることができ、とてもよかった。

*1:平安時代の末に源頼朝が伊豆で挙兵した。東に向かう途中の石橋山の戦いで頼朝は敗れたが、そのとき身代わりとなって戦死したのが佐奈田与一義忠(岡崎義実の息子)である。そのの菩提を弔うため、頼朝によって證菩提寺は建てられたといわれている

*2:横浜市文化財保護審議会副会長の山本勉さん(講演:仏像が語る横浜の平安時代)によると、阿弥陀三尊像が造立されたのが1175年頃で、岡崎義実が佐奈田義忠菩提堂を建立したのは1189年なので、この間に14年間の開きがある。そこで、岡崎義実が頼朝の父の義朝の菩提を弔うために鎌倉亀谷に建立した仏堂の本尊を證菩提寺に移した可能性があるのではないかと見ている。また仏師も奈良仏師・成朝ではと見ている。ちなみに勝長寿寺は頼朝が発願した義朝の菩提寺で、本尊は成朝(定朝系)が造った。

千葉市美術館で「鳥文斎栄之」展を鑑賞する

鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)は、旗本出身で、10代将軍家治が逝去(天明6年(1786))し、田沼意次が老中を辞したころの時代の変わり目に本格的に活動を始めた絵師である。喜多川歌麿と拮抗して活躍したが、栄之の作品の多くは明治時代に海外に流出した。この度、ボストン美術館大英博物館から里帰りして、世界初となる鳥文斎栄之展が千葉市美術館で開催された。千葉市美術館は、家から2時間以上もかかる遠い場所にあるのだが、彼の浮世絵をまとめて鑑賞できるのはこれが最初で最後の機会だろうと考えて、思い切って出かけた。

千葉市美術館は、1955年に開館し、2020年にリニューアルオープンした。

エレガントな雰囲気を漂わせている1階の空間は、さや堂ホールである。ここにはかつて川崎銀行千葉支店があった。この銀行は、矢部又吉によってネオ・ルネサンス様式で設計され、1927年に建てられた。現在は、かつての銀行を覆うように美術館が建てられている。古い建物をこのように覆って残す方式は「鞘堂方式」と呼ばれる。川崎銀行は川崎財閥の川崎八右衛門(彼の先祖は水戸藩の為替御用達であった)によって設立され、1936年に第百銀行に改名し、戦時下に三菱銀行に吸収合併された。

鳥文斎栄之は、宝暦6年(1756)に500石取りの直参旗本細田家の長男(名は時富)として生まれ、祖父は勘定奉行を務めた。安永元年(1772)に17歳で家督を継いだ。絵を狩野派の狩野栄川院典信(えいせいいんみちのぶ)に学び、師の号を貰って栄之と名乗った。天明元年(1831)から同3年まで、10代将軍家治の小納戸役に列し、絵具方を務めた。天明元年(1781)に布衣を着すことを許され、天明3年には無職の寄合衆(3000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者)に入っている。天明6年に家治が死去、寛政元年(1789)に34歳で隠居した。浮世絵は鳥居文竜斎に学んだ。天明の時期から浮世絵師として活動していたが、本格的に作画活動したのは、隠居した寛政元年からである。

展示は、プロローグと七つの章とエピローグに分かれていた。プロローグ「将軍の絵具方から浮世絵師へ」では、狩野派の師匠の栄川院が描いた田沼意次領内遠望図と、自身が描いた関ケ原合戦図絵巻などが飾られていた。

1章は「華々しいデビュー 隅田川の絵師誕生」である。喜多川歌麿葛飾北斎はデビューのころは細判の役者絵からスタートしたのに対し、栄之はデビュー間もないころから大判の見ごたえのある続絵を描いた。写真撮影可であった「川一丸舟遊び」。大型の屋形船が、5枚続きで、華やかな女性が描かれている。

同じく撮影可能であった「新大橋橋下の涼み舟」では、大きな屋形船に品の良い美人たちが集い、船上での穏やかな時の流れを感じさせてくれる。

2章は「歌麿に拮抗ーもう一人の青楼画家」である。栄之が錦絵で活躍したのは、喜多川歌麿が活躍した寛政期(1789~1801)とも重なっている。歌麿と同様に、寛政三美人や吉原の遊女を題材とした作品を多く出した。栄之は独自の様式を確立し、後に青楼の画家と呼ばれるようになり、歌麿と拮抗する存在となった。栄之の主要な版元は西村屋与八で、歌麿を見出し育てたのは蔦屋重三郎である。版元同士も競争関係にあった。代表的な作品「青楼芸者撰図 - いつとみ」(Wikipediaよりの転写)も飾られていた。歌麿美人画が妖艶であるのに対し栄之は静謐である。

3章は「色彩の雅ー紅嫌い」である。源氏物語などの古典が、江戸の風俗に置き換えられて「やつし絵」として描かれていた。品の良い画風に加えて、「紅嫌い」(赤い色をわざと避けた錦絵で、紫を多用することから紫絵ともいわれた)の手法を栄之は用いた。展示の一つの「風流やつし源氏 松風」(Wikipediaよりの転写)。会場の展示の方が、紫色が映えていて、見ごたえがあった。

4章は「栄之ならではの世界」である。武家出身の栄之は、上流層の女性風俗や教養を感じさせる古典主題の作品を描いた。

5章は「門人たちの活躍」である。栄之は、細田派という流派を創始し、鳥橋斎栄里、鳥高斎栄昌、鳥園斎栄深、一楽亭栄水、一掬斎栄文、栄鱗、文和斎栄晁、鳥喜斎栄綾、鳥玉斎栄京、鳥卜斎栄意、酔月斎栄雅、桃源斎栄舟、葛堂栄隆、栄波、春川栄山、一貫斎栄尚、酔夢亭蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出した。撮影されることが許されたのが、鳥高斎栄昌の「郭中美人競大文字屋内本津枝」である。寛政9年の「吉原細見」からは、大文字屋に本津枝(もとつえ)という遊女を確認できるそうで、郭中美人競(びじんくらべ)というシリーズの最後に出された図と推察されている。明るい表情の本津枝とかんざしをいじっている猫が印象的である。

6章は「栄之をめぐる文化人」である。天明狂歌と呼ばれるほどに狂歌が流行した天明期(1781-1789)には、武家と町人が相まじりあって狂歌に熱中するグループが登場した。栄之も、山東京伝などが執筆した洒落本に挿絵を描くなど、町人文化にも親しんでいた。次の「猿曳き図」(Wikipediaよりの転写)は、会場にあった絵と異なり左側に猿を操る男性が描かれていないが、この男性と猿を北尾重政が描き、右側の遊女・禿・新造を栄之が描いた。

さらに「女房三十六歌合」では、和歌を江戸長谷川町花形義融門下の少女が書し、栄之が美しく精緻な歌仙絵を手掛けた。

7章は「美の極みー肉筆浮世絵」である。寛政10年(1798)ごろより、錦絵を離れ、肉筆画に集中するようになる。このころから寛政の改革により出版業界に対する統制が強まった。歌麿たちはこれに抗したが、武家出身の栄之はそうはできなかったようで、依頼者の手元にしか残らない肉筆画を描いた。フランス語版のWikipediaには、「Oiran in Summer Kimono」が掲載されている(会場では見ることができなかった)。

エピローグでは、売立目録が紹介されていた。

江戸の豊かな文化を伝える美術品は、明治の頃にたくさんのものが国外に流出したために、海外の美術館に行かないと見れないものが多い。そのような中にあって、今回多くが里帰りし、鳥文斎栄之の作品を一堂に介して鑑賞することが出来てとても良かった。落ち着いた優雅な作品が多く、良い雰囲気の中で楽しく鑑賞できた。

追伸:かつての川崎銀行の横浜支店も昔の建物が保存され、それを覆うように新しい建物(損保ジャパン日本興亜馬車道ビル)が建てられている。横浜支店も、千葉支店と同様に矢部又吉の設計で、1922年に建てられた。様式も同じくネオ・ルネッサンスである。ちなみに、矢部又吉は横浜生まれで、ドイツで学んだ。
旧川崎銀行横浜支店の正面。

側面。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -仏具-

前回のブログでは国や郡の有力な初期寺院を紹介したので、今回はこれに次ぐ寺院からの出土品を中心に説明する。国分寺の造営によって仏教は地方に浸透し、8世紀から9世紀にかけては集落に隣接した場所で、仏教寺院が建立された。このようなものを「村落内寺院」と呼んでいる。

愛名宮地遺跡(厚木市)も、厚木市を含む古代東国の集落内に仏教信仰が浸透していたことを裏付けてくれる。この遺跡から発掘された瓦塔は、木造の塔を模倣して作られた土製の小塔で、仏教信仰の対象とされていたであろう。基壇の上に軸、屋蓋、相輪が重ねられ、平安時代(9世紀前半頃)に製作されたと考えられている。瓦塔が出土したところからは、「寺」と書かれた墨書土器、鉄鉢形土器、大量の灯明皿、鉄釘などが出土しているので、仏堂などの仏教関連施設であったと想定されている。
瓦塔

土師器と須恵器

鉄製品の釘

8世紀後半から9世紀にかけては、仏教が一定の浸透を見せたとされ、その一端に葬送方法がある。奈良・平安時代には土葬・火葬で埋葬され、火葬では土師器・須恵器・灰釉陶器の蔵骨器が用いられた。
野川南耕地古墳群(川崎市宮前区)の蔵骨器

武蔵国国分寺周辺からも仏教関連の遺物が発掘されている。観世音菩薩像は、武蔵国分寺尼寺寺域確認調査時(昭和57年)に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路に当たる道路遺構上面から発見された。頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただいている。白鳳時代後期(7世紀後半~8世紀初頭)頃に制作されたと考えられている。

武蔵国分寺関連遺跡の緑釉陶器

多喜窪横穴墓群(国分寺市)の緑釉陶器

武蔵国都築郡からの仏教関連の遺物が見つかっている。
北川表の上遺跡(横浜市都筑区)の灰釉陶器、

須恵器。

武蔵国橘樹郡からの仏教関連の遺物が同じように発見されている。
有馬古墓群台坂上グループ(川崎市宮前区)の須恵器、

細山古墳群大久保古墓(川崎市多摩区)。

最後は神事に関連する遺物である。荷物の輸送のために川が利用されたようで、高座郡では小出川の旧河道が発見され、川津(荷の積み下ろしをする場所)があった。そこからは木製の人形が出土している。これらはケガレを払う儀式によって川に流されたと考えられている。ケガレを移す先は人形で、多くは木製であった。同じように人の顔が書かれた土器も発見されている。これらも祓いなどに使われたと考えられている。
箱根田遺跡(三島市)の土師器(人面墨書)。


南鍛冶山遺跡(藤沢市)の人面墨書、

灰釉土器。

この展示は素晴らしいと思う。律令制が敷かれたころの地方の状況については書物を読んだだけでは具体的なイメージが湧かず、どの程度、行き渡っていたかについてはかなり疑問に思っていた。今回、神奈川県下の国衙、郡家、官寺などから出土した遺物により、かなりはっきりとイメージを得ることができた。これは県下での高速道路を始めとする大型工事の恩恵ともいえるのだが、他方で大型工事が過去の遺産にダメージを与えてもいるので、文化遺産の保護を徹底して欲しいと改めて思った。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -寺院の瓦-

国や郡の役所については前回のブログで記したので、ここでは国や郡に建立された有力な寺院をみていこう。ここで紹介する神奈川県内の有力な初期寺院は、国分寺、下寺尾廃寺、千代廃寺、影向寺、千葉地廃寺、宗元寺である。これまで下寺尾廃寺、影向寺、千葉地廃寺を郡寺とする見方があった。しかし近年では、評衙・郡衙(郡家)と密接な関係を有する準官寺とする見方や、郡司一族・在地共同体の結束を強化するための氏寺(私寺)という見方も出されていて、結論を得るには至っていない。

寺院から出土する遺物の中で特に目立つのは瓦で、軒丸瓦には蓮を模した文様の蓮華文が見られるのが特徴である。また土師器や須恵器などの土器も多く出土しているので、これも併せてみていこう。

相模国分寺跡(海老名市)の軒瓦。丸瓦は蓮華文で、平瓦は唐草文である。

土師器。寺院で使われた土器には内側が黒くなっているものがあるが、これは灯明皿として使われたためと思われている。

水煙。国分寺には七重塔があり、そのてっぺんに水煙が取り付けられていた。

下寺尾廃寺(七堂伽藍跡:茅ヶ崎市)の鬼瓦。地元には昔から大きな寺院があったという言い伝えがあり、その場所を七堂伽藍跡と呼んでいた。近年の発掘により貴重な遺物が発見され、高座郡の郡司層やその一族によって建立された寺院と考えられている。

丸瓦と平瓦、

土師器と須恵器、


硯と絵馬、

通貨。

千代廃寺(小田原市)の瓦。この寺は師長国造域の豪族によって建立され、その後補修され、10世紀半ばまで存続したと考えられている。軒丸瓦には蓮華文で飾られている。


影向寺(川崎市宮前区)の瓦。この寺はこの地方のネットワークの中で建立・維持されたと考えられ、氏寺(私寺)としての性格を有している。軒丸瓦は同じように蓮華文である。

千葉地廃寺(今小路西遺跡:鎌倉市)の瓦。ここには鎌倉郡の官寺があったとされている。

宗元寺(横須賀市)の瓦。御浦郡の有力な古代の寺である。

まだ続きます。

神奈川県立歴史博物館で「華ひらく律令の世界」を見学する -国衙・郡家-

神奈川県立歴史博物館で、律令制の時代を中心とする遺跡展が開催されている。律令制下での神奈川県は、西の地域が相模国、東が武蔵国であった。律令制では国の下部組織として郡が置かれた。相模国には8郡、武蔵国には22郡が設けられそのうちの3郡が現在の神奈川県に属していた。役所として、国には国衙が、郡には郡家が置かれた。また仏教による鎮護国家であったため、国には男性の僧のために国分僧寺が、女性の僧のために国分尼寺が、郡には郡寺が官寺として設けられた。

郡家としてよく知られていたのは長者原遺跡である。ここは武蔵国都筑郡の郡家跡である。残念ながら東名高速道路の開通に伴って遺跡の西半分は調査することなく破壊された。残りの東半分が10年後の1979~81年に調査され、郡庁、正倉院、郡司舘、厨が発見され、横浜市歴史博物館にはその模型が展示されている。都筑郡の隣の橘樹郡の郡家は近年発掘が進み、正倉院跡が発見され、一棟が復元中である。また近くの影向寺(ようごうじ)は郡寺で、現本堂の下は金堂であった。

相模国内の郡家で発掘が進んでいるのは下寺尾官衙遺跡群である。2002年に茅ケ崎北稜高校の校舎の建て替え工事が計画されたとき遺跡が発見された。その結果、校舎の建て替えは中止され、移転先を探している。ここは高座郡の郡家跡で、郡庁院・正倉院が発見された。また地元では古くから古代寺院があったことが伝えられ、1957年には「七堂伽藍跡」の碑が建てられた。2000~10年にかけて調査がなされ、大型掘立柱建物跡が見つかった。金堂と講堂があったとされているので、そのいずれかであろう。また伽藍区画溝も発掘された。そのほかに郡家の施設として郡津、交通路、祭祀遺跡が見つかった。

相模国国衙についてははっきり分かっていない部分が多いが、近年では、平塚市から国府国庁脇殿推定建物が発見され、少しずつ成果が出ている。武蔵国国衙は東京の府中市である。

相模国国分僧寺国分尼寺は海老名市にあり、武蔵国のそれらは東京の国分寺市にある。

律令制が整う前のヤマト王権(古墳時代)では、国造が置かれた。相模には師長国造、相武国造、鎌倉別、武蔵東部には无邪志国造が設置された(なお北西部は知々夫国造で、それ以外のところについては諸説あり、武蔵国造も候補の一つである)。律令制に伴って、師長国造は足上・足下・余綾(よろぎ)郡に、相武国造は高座・大住・愛甲郡に、鎌倉別は鎌倉・御浦郡になった。

それでは展示物を見ていこう。最初はヤマト王権の頃である。この時代は古墳時代とも呼ばれ、3つの時代に分けられる。畿内と神奈川では様相が異なる。

畿内では次のようであった。前期は円墳・方墳・前方後方墳前方後円墳が作られ、鏡・玉・碧玉製腕飾りなど司祭者的・呪術的宝器が埋葬された時代である。中期は巨大な前方後円墳が作られ、甲冑・馬具などの軍事的なものや農具など実用的なものが埋葬された。後期になると、小規模の前方後円墳・円墳・方墳・群集墳・横穴墓群となり、金属製の武器や馬具、土師器・須恵器などの副葬品が一緒に埋められた。豪族たちの威信材が墓から副葬品へと変化していった。

神奈川の古墳時代は、古墳の数もそれほど多くなく、規模も小さいのが特徴である。前期後半に比較的規模の大きい前方後円墳が現れ、中期には古墳がほとんど見られなくなり、後期になると群集墳や横穴墓が爆発的に増えた。

入り口には千代廃寺の軒瓦がある。この寺は師長国造の豪族によって建設され、足下郡の郡寺であっただろうと推測されている。

白山古墳(川崎市古墳時代前期)の銅鏡が飾られていた。銅鏡は生産国や大きさの違いによって、ヤマト王権と地方の豪族との結びつきの程度が分かる。

登尾山古墳(伊勢原市古墳時代後期)は、金目川の支流である鈴川流域の比々田神社周辺に存在する古墳群である。古墳からは河原石を積み上げて造られた横穴石室が確認され、多くの副葬品が発見された。
銅椀、

直刀、

雲珠、

五獣形鏡。

須恵器(高坏)と土師器(坏)。

また唐沢・河南沢遺跡(松田町)には、横穴墓群があり、須恵器が発見されている。

律令制が始まると、官人たちは木簡を用いて文書主義で業務した。
官人の大事な七つ道具、

宮久保遺跡(綾瀬市)の木簡。これは、鎌倉郷が記載された最古の資料であり、田令・郡稲長などの郡雑任や軽部という部姓氏族の資料で、古代の地方行政について語ってくれる。

居村B遺跡(茅ヶ崎市)の木簡。茜などが記載された古代税制や染色の様子などを伝えてくれる。

北B遺跡(茅ヶ崎市)の漆紙文書付土器。下寺尾官衙遺跡群から発見された県内最古の漆紙文書である。漆を入れた容器に文書が書かれた用紙を蓋として使い、漆がしみて乾燥し遺物として残った。

それでは武蔵国衙からの出土品を見ていこう。律令制が敷かれたころには、釉薬を塗った陶器が現れるが、その中で緑釉陶器は貴ばれた。
軒丸瓦、

緑釉陶器、

須恵器、

緑釉陶器。

律令制の時代には、国衙や郡家が設置されていたところだけでなく、官人たちが住んでいただろうと思われるところからも遺物が発見されている。
富裕層や在地化した官人の住居跡からと考えられる本郷遺跡(海老名市)の緑釉陶器と土師器、

本郷遺跡(海老名市)の灰釉陶器。

このようなところから発見されることは珍しいが、小規模な竪穴式住居から出土した上吉井南遺跡(横須賀市)の灰釉陶器、

国衙や郡家の建設に携わった関係者の居住域であったと考えられる梶谷原B遺跡の三足壺。

国府出先機関の一つがあったと考えられる厚木道遺跡(平塚市)の金属製品の鍵と焼印、

相模国府の国庁の建物址が見つかった六ノ域遺跡(平塚市)からの金属製品の八稜鏡、

ここまでが国衙・郡家に関する展示である。国分寺を始めとする宗教関係の遺跡については続きで紹介する。

ビッグな1ポンドステーキを料理する

今年になってからあまり車を使っておらずバッテリーが上がってしまうと困るので、それを避けるため遠出の買い物をしようということになり、普段あまり使っていないスーパーを訪れた。野菜や魚を買い物かごに入れた後に物色していた肉売り場で、普段は見かけることがない分厚い牛肉を発見した。商品名は1ポンドステーキとなっている。このように厚いステーキ肉は日本ではほとんど売られていない。

分厚いステーキに最初に出会ったのはもう何十年も前のことである。アメリカに留学して間もないころにホストファミリーの方が自宅に招いてくれるという機会があった。その頃のアメリカと日本の格差は大きく、途中でドルショックがあって円が切りあがったものの、渡米したときは1ドルは360円だった。最近は円安で、海外の人に日本がチープであることが知れ渡り、たくさんの観光客が訪れてくれるが、当時の格差は今日の比ではなかった。

留学前にステーキなどは食べたことはなかったし、アイスクリームだってそのころの日本にはソフトクリームぐらいしかなかった。留学先でアメリカ人の女性におごってあげる*1からと言われて、アイスクリーム屋さんに連れていかれたときは、その種類の多さにびっくり仰天したのを今でも思い出す。

ホストファミリーの方は、夕方迎えに来てくれ、美味しい料理をと考えてくれたのだろう、自宅ではなくレストランに連れて行ってくれた。英語のメニューを見てもわからないのでお任せした。最初にサラダがたっぷり、その後にスープが出てきて、さらにメインと思ってしまうような料理が出され、おなかが十分にいっぱいになったとき、次はメイン料理が出てくるといわれてぎょっとした。ウェイトレスが運んできたものを見ると、大きなジャガイモを一回りも二回りも大きくしたような肉の塊であった。せっかく招いてくれたのだからと、一生懸命に食べるには食べたが、苦しくて死にそうだった。最後のデザートは入る余地はなく、こちらは丁寧にお断りした。

それ以来大きな肉の塊を見ると当時のアメリカの豊かさを思い出す。今日の肉はアメリカ産ではなく、オーストラリア産である。オーストラリアは日本に向けて肉牛の飼育の仕方を変えているので、我々の口にはよく合う。

今回は、肉と一緒に焼き方が記載されたレシピが置かれていたので、これを参考に料理した。手に入れた肉はこのように厚い。冷蔵庫から料理する30分前に出し、肉の温度を室温にした。焼く直前に塩2gを肉の表面にかけ、さらにオリーブ油15ccを表面に塗った状態である。

IHクッキングヒーターの温度を7にする。焼き終わりまでこの状態で、火加減をする必要はない。フライパンにオリーブオイルを入れて熱する。レシピには230℃と書かれていたが、測れないので適当に判断した。初めに脂身がある側面を1分焼く。

横に倒して、表面を再度1分焼く。

裏返してもう一方の表面を1分焼く。

さらに残った側面を1分焼く。

同じように側面、表面、表面、側面と1分ずつ焼く。




合計で8分焼いたことになる。この後フライパンから取り出し、アルミホイルに包んで3分間休ませる。

そのあと塩3ccと胡椒適当量を肉の各面にまぶす。

包丁で食べやすい厚さに切る。

スープとサラダを添えて食した。

赤身肉がとてもジューシーで、塩加減もよく、おいしくいただいた。

*1:英語で"I'll treat you."という。この表現は知らなかったので、何ですかと尋ねたらいいからついてきてと言われた。

横浜市歴史博物館で「ヨコハマの輸出工芸展」を観る

横浜市歴史博物館で、ヨコハマの輸出工芸展が開催されていたので、見学に行ってきた。現在でこそ、横浜は日本を代表するような巨大都市となっているが、幕末の頃は小さな寒村に過ぎなかった。ペリー来航後に開港の地と定められると、外国人のための居留地が作られ、欧米の商人が店を開き、貿易の中心地となった。当時は生糸・茶・陶器などが輸出されたが、横浜で作られたものもそれらに混ざって輸出されるようになった。今回の展示ではそのような四つの工芸品が紹介されていた。

最初に紹介するのは陶芸の横浜真葛焼で、創業者は宮川香山である。ウィキペディアによれば、香山は天保13年(1842)に京都の真葛が原で、陶工真葛宮川長造の四男虎之助として誕生した。長造は朝廷用の茶器を製作し、香山の称号を受けていた。父が亡くなった後、虎之助は香山を名乗り、25歳の時には色絵陶器や磁器を制作、御所献納の品を幕府から依頼されるまでの名工になっていた。明治4年、横浜・太田村に輸出向けの陶磁器工房・真葛窯を開いた。当初は欧米で流行した薩摩焼を研究したが、金を多量に使用して制作費に多額の資金を必要とするので、それに代わる高浮彫(たかうきぼり)という新しい技法を生み出した。金で表面を盛り上げるのではなく、精密な彫刻を掘り込むことで表現した。真葛焼は明治9年のフィラデルフィア万国博覧会で絶賛されて世界で知られるようになった。しかし高浮彫は生産効率が悪かったので、晩年になると窯の経営を養子の宮川半之助(2代目)に任せ、自らは清朝の磁器をもとに釉薬の研究をし、釉下彩の技法をものにした。3代目は2代目の長男葛之輔が継いだ。3代にわたって高い技量で名声を得たが、1945年の横浜大空襲で窯・家は全焼、家族・職人計11名が亡くなった。4代目の智之助の死をもって真葛焼は廃業となった。

それでは展示されている作品を見ていこう。高浮彫の陶器で、「鷹ガ巣細工花瓶(たかがすさいくかびん)」。親鷹が雛にえさを与えている場面が見事に再現されている。羽根の細かいところまで写実的に制作されている。

側面から見たところ。枝のごつごつした感じもよい。

同じく高浮彫の「氷窟二白熊花瓶(ひょうくつにしろくまかびん)」。氷の垂れ下がっている様は工夫のあとが見られる。

洞窟とその中にいる白熊に手の込んだ技法であることを感じる。

高浮彫から脱皮して次の流行となる釉下彩の「黄釉鶏画花瓶(きゆうけいがかびん)」。

二代香山の「祥瑞意遊輪付染付花瓶(しょうずいいゆうりんつきそめつけかびん)」、

「色染付鷹柏木圖(いろそめつけたかかしわぎず)」。

初代または二代香山「黄釉青華寶珠取龍文花瓶(きゆうせいかほうじゅしゅりゅうもんかびん)」。

次は漆器で、横浜芝山漆器である。ある年齢以上の人は、芝山町と聞くと成田闘争を思い出すことだろう。時代は遡って江戸時代後期に、下総芝山村出身の大野木専蔵(安永4年(1775)生まれ)が芝山細工を考案したと伝えられている。この細工は、箱や櫛などの漆塗りした下地を浅く彫り込んで、そこに花鳥人物などに象った貝・象牙・サンゴなどを埋め込んで、立体的に装飾したものである。芝山細工は専蔵(後に芝山仙蔵)が江戸で奉公しているときに考案し、大名や富裕層の人々から好評であった。螺鈿や蒔絵と異なり立体感のある文様が来日した外国人からも評価され、輸出されるようになった。輸出が増えてくるにしたがって、運搬の手間を省くために横浜でも製作されるようになり、横浜で作られるものを横浜芝山漆器、東京で作られるものを本芝山と呼ばれた。先に述べたフィラデルフィア万国博覧会でも展示された。しかし関東大震災や横浜大空襲などの災害・被害を受けて職人が離散するなどして、昭和30年には作られる数もわずかになっていった。追い打ちをかけるように昭和46年(1971)のドルショック(ドルの切り下げ)で輸出量も大幅に減少した。現在、横浜市は伝統的地場産業育成事業の一環として支援している。
Wikipedia(英語版)には、Yokohama Chickenの説明がある。フランス人宣教師が、尾長鳥をヨーロッパに持ち込んだようで、英国ではこの鳥をYokohamaと呼ぶようになった。Yokohama Chickenを意識してと思うが、綺麗に象られている。

こちらも鳥を象っている。

アルバムの表紙にもなった。

そして花鳥屏風。

次は横浜彫刻家具である。これらの家具は宮彫り*1で、龍・松竹梅・鳳凰などの東洋的意匠を、椅子・テーブル・箪笥などに用いた和洋折衷である。輸出用のため、国内に残されたものは多くないが、ここに展示されているのは坂田種苗株式会社のオーナーの家に嫁がれた方の嫁入り家具である。

最後は横浜輸出スカーフ。開港間もない頃にハンカチーフの製造が始まった。昭和初期に「スクリーン捺染(なっせん)*2」が導入されて輸出が始まり、大岡川沿いに捺染工場が多く建てられた。太平洋戦争からの復興とともに、手ごろな服飾品として海外からも好まれ、生産量が増え、最盛期には世界の生産量の約60%、国内の約90%を占めた。このころ意匠侵害防止のためにスカーフ製造協同組合が作られ、輸出品の見本が組合に提出された。今回展示されているのはその見本の中からのものである。
アフリカに輸出されたスカーフ「ニワトリ王子」、

オーストラリアに輸出されたスカーフ「孔雀柄」、
8329
フィリピン・マニラに輸出されたスカーフ「像ペルシャ」、
8328
同じくアフリカに輸出されたカンガ*3

今回の展示会を通して、そういえば日本はモノ作りの国だったと感慨深く思い出した。大正大学地域構想研究所の主任研究員・中島ゆきさんのレポートに衝撃的な図が掲載されていた。産業別就業者割合の推移を示したものだが、2015年には第三次産業に従事している人の割合が71.9%で、第二次産業の25%を大きく上回っている。第一次産業にいたっては4%に過ぎない。高度経済成長が始まった1960年ごろは第一次産業32.7%、第二次産業29.1%、第三次産業38.2%と均等に従事していた。しかし年を追うごとにモノをあまり作らない国に、割合と速い速度でなっていくことがわかる。このような大きな潮流の中で、華々しく輸出されていた横浜発の工芸品も一緒に廃れてしまったことに寂しさを感じた。

*1:宮彫りは、寺社の建築物に精巧に施された彫刻をいう。

*2:あらかじめ防染糊で模様をプリントしてから染色することで、糊で伏せたところが染まらないように柄を出す方法

*3:東アフリカ、タンザニアやケニヤの女性たちに愛されている一枚布