bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

四国・中国旅行ー善通寺

旅行2日目の午後は善通寺市。昼食後に訪れた善通寺偕行社は、陸軍将校の親睦と研究を目的とし、社交の場として明治10年(1977)に建築された。以前滞在したオーストラリアの大学では、スタッフの社交の場としてファカルティ・クラブが設けられていて、毎金曜日、地元の美味しいワインを味わっていたことを思い出させてくれた。
正面入り口、

会議室。

このあと近くにある陸上自衛隊善通寺駐屯地の乃木館を訪問。ここにはかつて旧陸軍第11師団司令部があった。現在は資料館として、代々の師団長が使用した執務室や、乃木将軍を記念する品が展示されている。自衛隊の施設なので写真を撮ることは控えた。

そしてこの日の最後の目的地である善通寺。今年は空海生誕1250年、生誕の地とされる善通寺にとっては節目の年である。善通寺は、空海の父の佐伯田公を開基として、平安時代初頭の大同2年(807)に創建された。境内は、創建の地である東院と、空海生誕地とされる西院からなる。空海(宝亀5年(774)-承和2年(835))は、弘法大師とも呼ばれる。平安時代初期に、天台宗を開いた最澄と一緒に、遣唐使とともに唐に渡った(延暦23年(804)) 。そして彼は、長安青龍寺の恵果(けいか)に真言密教を学ぶ、真言宗の開祖となった。

四国の文化の一つは「お遍路さん」。これは空海が修業したとされる88か所の霊場を巡礼すること。全ての霊場をまわると1400㎞、東京から鹿児島まで歩くのと同じ長さになる。善通寺は第75番の札所である。同行の友2人は、白衣を着用しお遍路さんになって参拝した。白衣の背には「南無大師遍照金剛」とあり、その横に「同行二人」と小さく書かれている。これは、お遍路さんが空海と一緒に巡拝しているという意味で、一緒に歩いている友達の数ではない。

それでは西院の駐車場から進んでいこう。

橋を渡って、左手側に見えてくるのが聖天堂。「聖天さん」と親しまれている大聖歓喜自在天が祀られている。平成16年(2004)に再建。

左手奥に聖霊殿。昭和15年(1940)に日中戦争戦没者慰霊のために「忠霊堂」として建立された。戦後に「聖霊殿」と改称された。

ほやけ地蔵堂。子供の頬やけの治癒をこの地蔵菩薩に3年間お願いしたところ、きれいにとれたとの言い伝えがある。

さらに奥に護摩堂。不動明王が祀られ、現在の建物は昭和15年(1940)の落慶

右手に御影堂。西院には空海の生家である佐伯家の邸宅があった。鎌倉時代にその跡地に御影堂を中心とした「誕生院」が整備された。

西院から東院へ向かう。仁王門。金剛力士像(仁王)が立つ。明治22年(1899)に再建。

右側に観智院。最盛期の弘安年間には49の塔頭が散在。観智院は、当時十善坊と称し、筆頭として寺務を掌握していた。

善通寺中門、江戸時代末期再建。


左手に金堂。空海密教を学んだ唐の青龍寺に模して建立されたと伝えられている。永禄元年(1558)の兵火によって消失、江戸時代、讃岐の大名の生駒家・京極家によって再建された。

右手に鐘楼堂、江戸時代末期再建。

さらに五重塔。高さ44m。国内の木造塔としては3番目の高さ。創建以来倒壊・焼失を繰り返し、現在の唐は4代目。明治35年(1902)に再建。

正面に釈迦堂。仏教の開祖である釈迦如来十大弟子を安置。現在の建物は江戸時代の延宝年間(1673-1680)に建立された。

その奥の南大門。日露戦争戦勝を記念して1908年頃再建。

お店で、御朱印帳を購入し、御朱印を押して貰った。
今日のルートは、以下の通りで、このあとは今夜の宿泊地である道後温泉に向かった。