bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

四国・中国旅行―浄土寺・石手寺

旅行3日目午前は、たくさんの寺院をまわって御朱印集めをしようと目論んだが、あいにくの雨。ずぶ濡れになるのも嫌なので、厳選して2寺だけ見学することにした。

最初は浄土寺ウィキペディア浄土寺は次のように紹介されている。寺伝によれば、天平勝宝年間(749-757)に、孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀った。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。平安時代中期の天徳年間(957-960)に、天台宗の僧空也がこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416)には兵火で焼失。河野通宣(かわのみちのぶ)によって文明14年(1482)に再建された。現在の本堂はそのときのものである。慶安2年(1649)には大規模な修繕、昭和36年(1961)には解体修理が行われている。

それでは、浄土寺を見ていこう。
山門(仁王門)。

正面が本堂、文明14年(1482)に創建、本瓦葺き、寄棟造りで、重要文化財にも指定。左が阿弥陀堂、右が太師堂。本堂には国の重要文化財である空也上人像が安置されている。空也上人(903〜972)は、腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき、鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」と唱え、言葉を仏として吐き出した。上人は、道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した。彼は遊行僧で念仏聖である。空也上人像は、この様子を表し、6体の阿弥陀小化仏を口から吐き出している。

阿弥陀堂

愛染堂。

弘法大師が祀られている太師堂。

鐘楼と山門。

次は石手寺(いしてじ)。ウィキペディアで紹介されている寺伝によれば、石手寺は次のような寺である。神亀5年(728)に伊予国太守・越智玉純(おちのたまずみ)が、夢でこの地を霊地と悟り、熊野十二社権現を祀った。聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729)に行基薬師如来を刻んで本尊として安置し、開基した。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改められた。

寛平4年(892)に石手寺に改められる。その逸話は後述する。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失ったが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。

石手寺の名前の由来については、衛門三郎の伝説が残っている。

衛門三郎は、巡礼の途中であった弘法大師に無礼を働いたために全ての子を失い、改心して大師の後を追って四国各地を巡り歩く(この行為が遍路の始まりとされる)。そして臨終の間際に再会。大師に望みを尋ねられると、伊予の国主である河野家の家に生まれ変わりたいと言った。そこで大師は路傍の石に「衛門三郎再来」と書くと、それを左手に握らせた。これが天長8年(831)のこと。

それからしばらくの後、伊予の国主・河野息利(こおのやすとし)が男子を授かった。ところが、その子は生まれつき左を固く握ったまま開こうとしなかった。困り果てた息利は、安養寺の住職に祈祷を依頼した。そしてその甲斐あって、男子は手を開けた。手の中には小石があり、そこには「衛門三郎再来」と書かれてあった。この奇瑞を喜んだ息利は、安養寺にこの不思議な石を奉納した。そして寛平4年(892)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。

国宝の仁王門。

重要文化財の本堂、鎌倉末期建立。

阿弥陀堂

重要文化財の三重塔、鎌倉末期建立。

絵馬堂。

弘法大師が祀られている太師堂。

護摩堂(左)と弥勒堂(右)。

鐘楼。

洞窟入口。洞窟の中には、お地蔵さんがいくつも並んだ「地底マントラ」がある。

強くなったり、小やみになったりする雨の中をお寺を巡拝しているお遍路さんたちに出会った。晴れているときにあったお遍路さんたちは、楽しそうに談笑したりしていたが、雨のときは、声も出さずに、黙々とただひたすら歩いている。自然から受ける仕打ちにただ身を任せ、耐え抜いているようである。暑い日もあり、寒い日もあり、非情な移り変わりの中で、ひたすら、安らぎを求めているのであろう。無事に、修了されることを願ってやまなかった。

このあと松山城に向かった。