bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

世田谷のボロ市を見学する

昨年の11月ごろより、近くの駅のポスターや電車のつり広告で、世田谷のボロ市の宣伝を多く見るようになった。さらに開催日が近づくと、臨時電車を出しますという広告まで現れた。人気が高いという話は聞いていたが、これまではそれほど行ってみたいとは思っていなかった。

しかし江戸時代の百姓たちに関する本を何冊か読み、その中に江戸の市場の説明があった。それらは主に日本橋を中心とする大店や魚河岸についてであったけれども、この時代は辺鄙であった世田谷でも市が開かれたことに興味を覚えた。ボロ市は12月の15,16日、さらに年が明けて1月の同日に開催される。暮れは他に用事があり機会を逸してしまったので、1月に行こうと予定していた。そうしたら突然、ボランティアの仲間からボロ市に行こうという誘いがあり、一人で行くよりは楽しそうなので、これに便乗した。

行程は、世田谷線の世田谷駅で降りて、ボロ市の会場を巡りながら、途中で代官屋敷・区立郷土博物館を見学し、その後、世田谷城阯公園・豪徳寺松陰神社を訪れ、世田谷線松陰神社前に至る都合2.8㎞であった。

世田谷区のホームページによると、ボロ市のはじまりは安土桃山時代まで遡るとのことである。関東一円を支配していた北条氏政(後北条氏4代目当主)が、天正6年(1578)世田谷新宿に楽市を開いた。毎月の1と6の日の都合6回開催されたので、六歳市と呼ばれた。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城は廃止されて城下町としての意義を失う。同時に六歳市も自然消滅し、いつのころから暮れの年一回だけ開かれる歳の市(市町と呼ばれた)になった。

明治になって、新暦が使われるようになると正月15日に開かれるようになり、やがて暮と正月の15,16日の両日に開催されるようになった。明治20年代頃には、これまでの農機具や正月用品に代わって古着やボロ布の扱いが主流になり、その実体に合わせてボロ市と呼ばれるようになった。

下図は明治末頃の世田谷である。道沿いに集落がみられるが、殆どは田圃である。左図中央に家が立ち並んでいる街路があるが、これが今回のボロ市の会場であった。

会場に行ってみると、人で埋め尽くされていた。


お店を覗くのも大変なのだが、空いているお店を探して写真を撮った。ガラス細工、

着物、

瓢箪。

ボロ市の通りの中ほどに代官屋敷がある。


徳川家光(3代将軍)は、彦根藩井伊直孝(2代藩主)に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄料として与えた。その時、代官になったのは大場市之丞であった。北条氏が関東一円を支配していたころ、この地域を防御するために世田谷城が設けられ、そこの城主は吉良氏、大場氏はその家臣であった。北条氏が秀吉との戦いに敗れ、吉良氏が滅びると、大場氏は帰農した。井伊氏が世田谷に所領地を得たときに、その代官として登用された。以後、大場家は明治維新に至るまで235年間代官を務めた。屋敷は住宅兼役所として使われた。建物は茅葺・寄棟造で、建築面積は230㎡、玄関・役所・役所次の間・代官の居間・切腹の間、名主の詰め所などが設けられた。現存の建物が建築されたのは元文2年(1737)である。


建物の外には白洲跡もある。江戸時代は訴訟が多かったとされているが、ここではどのようなことが裁かれたのか知りたいところである。

代官屋敷敷地内には世田谷区立郷土博物館がある。入り口には庚申塔・石像などが並んでおかれていた。左端に見えるのは臼。その右は三界萬霊塔。三界は一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とはこの迷いの世界におけるすべての霊あるものを指す。その隣は地蔵菩薩立像。さらに隣は狐の石像。主神に従属しその先ぶれとなって働く神霊や小動物のことを「使わしめ」といい、狐は稲荷の使わしめである。右端は、青面金剛(しょうめんこんごう)で、この供養塔の本尊である。病魔・病鬼を払い除くとされ六臂三眼・憤怒相で、三尸(さんし:体中にいるとされる虫)を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。

郷土博物館には、旧石器時代から近現代までの世田谷区の歴史が分かるように要領よく展示されていた。世田谷区のホームページには世田谷デジタルミュージアムがあり、いつでも見られるようになっている。そこで郷土博物館の展示の中で、興味を持ったものだけをここでは紹介する。

古墳時代には、世田谷にもいくつかの前方後円墳や円墳がつくられた。その中の一つが野毛大塚古墳で、その複製の円墳と石棺があった。


そして鎧の複製。

さらにはこのころから使われ始めたカマドの模造も展示されていた。

鎌倉時代には江戸氏傍流の木田見氏が御家人であった。

室町時代から戦国時代の領主であった吉良氏の説明もあった。

さらに、江戸時代のボロ市の様子を示した模型もあった。

そしてまた人混みのボロ市へと戻った。名物の代官餅を食べてみようとも思ったが、長い行列ができていることだろうと想像し、次の目的地へと向かった。

出かける前は、ボロ市は大きな広場の中で開かれるのだろうと勝手に思っていたが、そうではなく、道路沿いであることに驚いた。江戸時代は戸板を使ってお店を開いていたことと思われるが、今回もほとんどのお店は戸板の大きさ程度で、当時の雰囲気を醸し出してくれた。ただ道沿いにある家は、店を開いている場合は良いものの、そうでないときは出入りが不便になってかわいそうな気もした。

また5年ごとに代官行列が行われると紹介されていた。江戸時代には市が開かれているとき、治安を維持するために代官が見廻りしたそうである。それを模しての行事とのことだが、これほどの人混みの中で実行するのはさぞかし大変なことだろうとも思った。今回はコロナ開けという事もあり特に混雑していて、買い物を楽しむというわけにはいかなかったが、落ち着いた頃に、代官行列を見がてらもう一度来たいと思っている。