bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

新宿歌舞伎町で大歌舞伎を鑑賞する

新宿の歌舞伎町で歌舞伎を鑑賞した。歌舞伎が演じられるのは、銀座の歌舞伎座だろうと言われそうだ。確かに、町名は歌舞伎となっているが、古典芸能の歌舞伎のイメージはなく、憂世を浮世にしようとする「かぶきもの」で溢れている繁華街のイメージが強い。この町名はいつ頃から使われるようになったのだろう。ウィキペディア新宿コマ劇場について調べると次のように記述されている。この劇場を作るときに、阪急・東宝グループの創始者小林一三さんが、劇場を創設する時の理念を「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」としたそうで、ここからこの周辺がこのように呼ばれたと説明されている*1

今昔マップには、1947年(左側)と1967年(右側)の地図があり、この地域は新田裏から歌舞伎町へと変更されていることが分かる*2

今回の「歌舞伎町大歌舞伎」は、東急歌舞伎町タワーで演じられている。この建物は、新宿ミラノ座の跡地に建てられ、昨年完成した。かつてのミラノ座は大スクリーンを要する映画館であった。この近くの高校に通っていた私は、同級生と一緒にピーター・オトゥール主演の「アラビアのロレンス」を見にいった。アラビアの砂漠をラクダに乗って行軍するピーター・オトゥールの顔が巨大な画面に映し出され、憂いの籠った表情を今でも鮮明に覚えている。新築なったタワーの6~8階には、ミラノ座の名前を受け継いだ「THEATER MILANO-Za」が設けられた。開館してから1周年を迎え、満を持しての歌舞伎公開である。

歌舞伎の歴史をウィキペディアを参照しながら振り返ることにしよう。歌舞伎の語源は傾(かぶ)くである。世間の常識にお構いなしに、流行の最先端をいく奇抜なファッションで飾る人をかぶき者といった。これをまねて扮装して見せたのが、歌舞伎のルーツといわれる「かぶき踊り」である。「かぶき踊り」は女性の出雲阿国(いずものおくに)によって京都で始められた(慶長8年(1603))*3。その後、「かぶき踊り」は遊女屋で取り入れられ遊女歌舞伎、若衆(12~18歳の少年)の役者が演じる若衆歌舞伎が始まった。しかし、いずれも風紀を乱すということで幕府に禁止される。次に登場したのが、成人男性中心の野郎歌舞伎である。歌舞伎を男性だけが演じる過程で女方も生まれ、今日の歌舞伎の基礎ができあがった。

そして、元禄年間(1688~1704)には飛躍的な発展を遂げる。この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事*4」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。また、狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。江戸では、当初数多くの芝居小屋が生まれたが、次第に整理され、正徳4年(1714)には中村座市村座森田座の三座のみが官許の芝居小屋として認められた。

歌舞伎の舞台が発展したのは享保年間からで、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられ、後年、宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。延享年間(1744~48)にはいわゆる三大歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』が書かれた。

これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代(1804~1830)になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』『於染久松色読販』など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。天保3年(1832)には五代目市川海老蔵歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」を贔屓客に配り、天保11年(1840)に 『勧進帳』を初演し、現在の歌舞伎十八番となった。

明治時代になると、文明開化・欧化改良の政策の影響を受け、歌舞伎の近代化が行われる。シェークスピア劇の影響を受け、坪内逍遥が中心となって、新時代の国民演劇にしようという運動が起きた。逍遥が明治29年(1896)に発表した桐一葉は新歌舞伎の始まりとなった。これ以後、歌舞伎界の外部にいた文学者たちが、歌舞伎の脚本をさかんに執筆した。これらの作品は、いずれも伝統的な歌舞伎の内容を否定し、西欧の近代文明から学んだ思想や文芸思潮を主題として注入しながら、演技・演出の様式はできるだけ伝統的な方法を生かそうとした。「古い皮袋に新しい酒を盛るもの」と形容された。岡本綺堂との提携で生み出した「鳥辺山心中」「修禅寺物語」などは名作で、新歌舞伎の中でも古典的作品となった。

その後紆余曲折を経て、1960~1970年代には戦後の全盛期を迎え、明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要視されるようになった。昭和40年(1965)に重要無形文化財に指定され、国立劇場が開場した。また、平成21年(2009)に世界無形文化遺産に選ばれた。

今回鑑賞したのは、長唄の舞踊『正札附根元草摺(しょうふだつきこんげんくさずり)』、軽妙洒脱な舞踊『流星(りゅうせい)』、新作歌舞伎『福叶神恋噺(ふくかなうかみのこいばな)』であった。歌舞伎町大歌舞伎のホームページには舞台写真が公開されている。

正札附根元草摺*5は文化11年(1814)正月に、江戸・森田座で初演された。四世杵屋六三郎の作曲による長唄舞踏で、幸若舞*6「和田酒盛*7」での曽我五郎と小林朝比奈との力比べを題材とした曽我物*8である。初演では、七代目團十郎が五郎を、初代男女蔵が朝比奈を演じた。今回の劇では、五郎を留めるのは、朝比奈ではなく、その妹の舞鶴である。美しい女性が、思いもよらない力強さで留めようとしたり、無理だとなると色仕掛けとなる。留め役を男性ではなく女性とすることで、軽妙さ・滑稽さが増し、艶っぽさが加わっている。ジャンルは古くからの荒事舞踊に属す。そのため古風な趣も保ち、伝統芸術として楽しめる。曽我五郎時致の役を中村虎之助が、小林妹舞鶴中村鶴松が演じた。

流星は安政6年(1859)に江戸・市村座で初演された。演者は4世市川小団次ほか、作詞は2世河竹新七(河竹黙阿弥)、作曲は清元順三であった。内容は、七夕で牽牛と織女が久しぶりの逢瀬を楽しんでいるところに、流星が雷の夫婦げんかを報告にくるというものである。雷の夫婦・子ども・婆の4役をしわけるのが眼目である。流星の役を中村勘九郎が、牽牛と織姫の役を勘九郎の子である中村勘太郎中村長三郎がそれぞれ演じた。親子共演である。勘太郎と長三郎の愛らしい演技は観客を和ませてくれる。しかし、何といっても素晴らしいのは勘九郎の演技力である。4役を顔の表情だけで使い分ける。幸いなことに我々の席は前から10番目だったので、表情の変化を楽しむことができた。花道に来たときは目の前だったので、写楽が描いた似顔絵を思い出させてくれた。

福叶神恋噺は、落語の「貧乏神」を、歌舞伎用にアレンジしたものである。グータラだが憎めない大工の辰五郎は、家でブラブラしているだけで仕事をしない。その辰五郎に貧乏神のびんちゃんが取り付く。貧乏神の本来の役割は、取り付いた人から取れるだけ財産を奪って働かせ、ひたすら貧乏にするのが仕事である。しかし、辰五郎があまりに仕事に行かないので、質屋に入れてある大工道具を戻すためのお金を貸してやる。同じ貧乏神のすかんぴんがそのようなことをしてはダメだと忠告するが聞き入れない。案の定、辰五郎はニ三日働いたもののまた仕事に行かなくなる。仕方がないので、貧乏神のびんちゃんが内職をして、家計を支える。攻守が逆転してしまう。そうこうしているうちに、愛想をつかして家を出ていた妹のおみつが結婚することになる。しかし、兄の辰五郎はその席には招かないという。それを聞いた辰五郎は兄らしいことをしてやれない自身の不甲斐なさを恥じ、心を入れ替えてまじめに働くと誓う。ここから一気に好転してハッピーエンドだと思った瞬間、もっとすごいどんでん返しが待っていた。以前に買ったあみだくじが当たっていると教えられる。偶然にもそれを保管していたのはびんちゃんであった。貧乏神転じて福の神となる。辰五郎は一生働かなくてもよいほどのお金を手に入れる。ここで劇は終わりである。その後、辰五郎は悠々自適な生活をおくったのか、約束通りまじめに働いたのか、あるいは元のグータラな生活に戻ったのかは、観客の解釈に任される。おびんちゃんを中村七之助、辰五郎を中村虎之助、おみつを中村鶴松、すかんぴんを中村勘九郎が演じた。福叶神恋噺は、この公演が初演である。脚本を書いたのは、落語作家の小佐田定雄さんで、彼は落語「貧乏神」の作者である。歌舞伎の方はドタバタで終わるが、落語の方はもちろん「おち」で終わる。比較すると、それぞれの味があって面白い。

最後に、歌舞伎町タワーを写真で紹介する。まずは、入り口付近。歌舞伎を見終わった人たちが帰途についている。

1階は歌舞伎横丁。かつてのこの周辺の飲み屋街を再現したのだろう。



劇場内。黒・白・柿の三色は中村屋の定式幕である。


客席の外。タワーの中なので控えめなのぼりが立っていた。


ロボットは電気が切れてぐったり。

タワーからの景色。

今回は、福叶神恋噺の初演を鑑賞できてラッキーであった。我々にも「福の神のおびんちゃん」が来ることを願って帰路についた。

*1:ウィキペディアで歌舞伎町を調べると、1945年の東京大空襲でこの辺は焼け野原となった。戦後、石川栄耀や鈴木喜兵衛らによって「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられ、都市計画担当者の石川栄耀の提案で歌舞伎町と名付けられた。しかし、この構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまった。

*2:左側の地図で、中央に文とマークのある所は府立第五高女(富士高校)で、戦災で焼失し中野区へ移転。下の方にあるのは府立六中(新宿高校)である。

*3:「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』である。

*4:やつし事は高位の若殿や金持ちの若旦那などが流浪して卑しい身分に落ちぶれた姿を見せる演技、またはその演技を中心にした場面をいう。

*5:草摺は鎧の下についている防具で、草摺を引っ張って留めることを草摺引きという。

*6:幸若舞は語りを伴う曲舞の一種。室町時代に流行し、福岡県のみやま市瀬高町大江に伝わる民俗芸能として現存している。

*7:和田義盛は、相模国山下宿河原の長者のもとで、3昼夜に及ぶ酒宴をおこなう。曽我十郎祐成の愛人である虎御前を、義盛は再三招くが応じてくれない。しかし、祐成の諫言で虎御前はしぶしぶ宴席に出るが、祐成とだけ盃のやり取りをしているため、義盛の不興を買ってしまい険悪になる。曽我五郎時致は夢で兄の危急を察する。祐成のもとに向かう五郎を朝比奈三郎義秀が留めようとし、草摺引きをする。その後宴席に加わって義盛を屈服させた。

*8:曽我物は、建久4年(1193)5月28日、曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟が、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩に乗じ、父の仇である工藤祐経(すけつね)を討った仇討物語を題材に、能・文楽・歌舞伎などで演じられる作品をさす。