bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

日本の歴史公園100選に選ばれた薬師池公園を訪れる

中先代の乱の古戦場「井手の沢」のあとに訪れたのは薬師池公園、2007年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれた町田市を代表する公園で、季節に応じて、梅、椿、桜、花菖蒲、古代ハス、紅葉などを楽しむことができる。いまの時期は花菖蒲と紫陽花である。

公園の名称にもなっている薬師池はかつては「福王寺池」と呼ばれたそうで、この池は戦国時代に農業用の溜池として開発された。この地域の支配者であった北条氏照が、天正5年(1577)に、野津田の武藤半六郎(河井家祖先)に印判状を下し、天正18年に溜池は完成した。

北条氏照は、後北条家3代目氏康の子で、4代目氏政とは同母兄弟である。氏照は大石家に養子に入って大石源蔵氏照と名乗り、滝山城主となる(1563~67の間に)。武田信玄との戦い(1569年)で敗れたのち北条に復姓する。父の氏康が死去(1571年)、遺言に従い兄の氏政が、上杉との同盟を見限り武田と同盟を結んだため、今度は上杉謙信と戦うことになる。謙信没後(1678年)に上杉家では家督争いが生じ、紆余曲折の末、上杉と武田が和睦し、氏政は武田との同盟を破棄する(このときは勝頼、信玄は1573年に死去)。武田勢からの攻撃に備えて、氏照は八王子城を構築し(1581年)、のちに移る。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)のとき、小田原城に駆けつけ籠城し戦うが敗北、自刃した。

氏照の略歴からも分かるように、薬師寺池が開発されたのは、戦いに明け暮れていた時期で、領主も百姓も溜池の開発どころではないように思える。その理由を知りたいところだが、公園の案内にはない。ほかにも調べてみたのだが、開発の経緯に関わる資料を見つけることができなかった。その代わりと言っては何だが、どのようなところを開発しようとしたのかを知りたくて、埼玉大学教育学部谷謙二さんの「今昔マップon the web」で調べてみると、明治39年(1906)には下図のようになっていた。
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上部(北)が鶴見川、中央のやや下の窪んだところが薬師池である。拡大したのが下図である。薬師池から北の鶴見川に向かって、細く長い谷戸が形成されていて、それに沿って水田が開かれているのが分かる。池から鶴見川まではおよそ1㎞ほど、谷戸の幅はあまり広くはない。ここからの収穫量がどれだけあったのかが気になるが、農業用水確保のための開発に見合うだけの利益はあったのであろう。
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薬師池は、宝永4年(1707)の富士山の噴火により泥砂で埋まり3年かけて除去、また文化14年(1817)にも埋まったため掘り直したそうだ。昭和51年(1976)に薬師池公園として開園した。

現在の薬師池公園は下図のように、薬師池を中心に大きな公園になっている。2ヶ月前の4月17日には、薬師池公園四季彩の杜西園(地図では薬師池公園の下の方になる)がオープンしたが、コロナウイルスの影響を受けて、その催しはひっそりと行われたそうである。
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我々はオープンしたばかりの西園から入場し、薬師池公園へと向かった。尾根道を越えてしばらく行くと展望が開け、紫陽花や花菖蒲が見事に咲いていた。
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公園の中には水車も、
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趣のある薬師池、
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重要文化財の旧永井家住宅。多摩ニュータウンの建設に伴って、町田市小野路より移築された。建築年代ははっきりしないものの、1600年代末ごろのものと考えられている。建物の幅15m、奥行き8.8m、寄棟造、茅葺で、窓や出入り口が少なく、薄暗い閉鎖的な建物である。
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内部に入ってみる。敷居をくぐると大きな土間がある。典型的な農家だと思ったのもつかの間、ヒロマが竹の床なのを見て一瞬たじろいだ。この上にむしろを敷いて利用するのだろう、何とも居づらそうな空間で嫌だと感じた(後で分かったが、竹簾子床(たけすのこゆか)と呼ばれる)。これも後で分かったことだが、この他にヘヤとデイと呼ばれる小さな部屋があり、ヘヤは竹の床、デイは板敷きだそうだ。この家のような間取りは、「広間型三間取り」と呼ばれ、居間(ヒロマ)、寝間(ヘヤ)、客間(デイ)の3間で構成されている。
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野津田薬師と呼ばれている薬師堂。天平年間(729~749)行基の開基と伝えられ、現存する薬師堂は明治16年(1883)に再建されたものである。
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もう一軒の古民家、江戸時代末期に医院兼住宅として建てられた旧荻野家住宅。木立に囲まれた武蔵野らしい風景で、気に入った。
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最後は少し急ぎ足になったが、思いもかけず、この時期の美しい花々を見ることができ、充実した一日となった。季節を変えてまた訪れたいと思っている。