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bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

身近な存在としての量子力学(2):ヨーロッパコマドリ

3.ヨーロッパコマドリ

今では、地球上のどこに自身が位置しているのかは、GPSによって簡単に把握することができる。しかし、過去においては、それほど簡単なことではなかった。15世紀半ばから17世紀半ばにかけて、ヨーロッパ人がアフリカ、アジア、アメリカ大陸へと大規模に航海をした時代がある。この期間は大航海時代と呼ばれることもある。この大規模航海時代を可能にしたのは、方位磁針(コンパス)の発達であった。方位磁針と地図があれば、自分の位置をかなり正確に知ることができる。下図はウィキペディアから複製したカンティーノ平面天球図である。ヨーロッパやアフリカは正確に描かれているが、東アジアはその海岸線を把握できないほどに不正確で、アメリカ大陸に至ってはほんの一部しか記述されていない。大冒険家たちは、この程度の地図と方位磁針を頼りに、海に乗り出したものと思われる。
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人間は、自ら作りだした道具を利用して未知の場所を旅行できるようになったが、他の動物たちはどうであろうか。渡り鳥はどのようにして、越冬のために、あるいは、繁殖のために、長い距離を渡ることができるのだろうか。魚にも、産卵のために、回遊するものがいるが、何を利用しているのであろうか。蝶の仲間にも越冬のために長い距離を飛ぶものがいる。とても不思議なことが起きている。しかし、最近、その一端が量子生命学の研究で分かってきた。それはヨーロッパコマドリである。

量子力学で生命の謎を解く』には、ヨーロッパコマドリが、冬になるとスウェーデン中央部のトウヒの森から地中海に渡っていく様子が、とても叙述的に書かれている。ここでは、この本の内容を要約して、ヨーロッパコマドリ量子力学を用いて、どのように渡るのかを述べることにする。ヨーロッパコマドリが利用しているのは地球の磁場である。人間は、方位磁針を用いるが、これは、南北の方向を示してくれるが、どの緯度に属しているのかは教えてくれない。

これに対して地球の磁場(地磁気)からは、南北の方向だけでなく緯度も分かる。地球の磁場は、砂鉄の上に磁石を置いた時と同じように、南と北の磁極では垂直に向いている。また、赤道の上では平行である。地表面に対する磁場の傾きを伏角と呼ぶ。それぞれの緯度では伏角が異なる。緯度が高くなるにしたがって、伏角は水平から垂直へと傾く。このため、伏角が分かると緯度を知ることができる。また、地球の磁場は、左右に曲がることがなく、南北にまっすぐである。地球の磁場との左右のずれを偏移と呼ぶが、偏移を知ることで、どの方向に向かっているのかが分かる。

そこで、ヨーロッパコマドリは、地球の磁場から得られる伏角と偏移を知ることで、自身の位置を把握しているのではないかと想像することができる。これを明らかにしたのが、ドイツ人鳥類学者のヴィルチュコである。彼は、1972年に、地球の磁場を感じるための磁気受容体は伏角コンパスであると論文で示した。1978年になるとドイツ人化学者のシュルテンは鳥のコンパスの中には量子もつれ状態になる遊離基のペアが使われていると提唱した。しかし、この説は当時真剣には受け止められなかった。

量子のもつれ状態について説明しよう。2個の電子が一つの原子や分子の中でペアを作ることがある。ペアを構成している2個の電子が同じエネルギーを有するとき、パウリの背反原理により同じ方向のスピンにはならない。必ず、お互いに逆向きのスピン状態となる。電子のペアは通常はこの状態となる。このような状態をスピン一重項状態(以後は単に一重項状態とする)と呼ぶ。しかし、2個の電子が同じエネルギーを有していないとき、電子のペアは同じ方向をとることがある。これをスピン三重項状態(以後は単に三重項状態とする)と呼ぶ。

原子同士の結合は、2個の電子を共有結合することで作られる。例えば、水素分子は2個の水素原子が共有結合して作られる。
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この図では、ペアをなす二つの電子は同じエネルギーを有している。電子は、厄介なことなのだが、上向きあるいは下向きスピンの二つの状態を、同時に有する。この場合は二つだが、複数の状態を同時に持つことを(前の記事で説明したが)量子の重ね合わせという。しかし、パウリの背反定理により、同じエネルギーを有している二つの電子は同じ方向のスピンをとることができず、反対向きのスピンとなる。このように二つの粒子(ここでは電子)がつながっている状態を量子もつれという(なお、二つの粒子はどれだけ離れていてもよい)。

量子力学では、量子の重ね合わせにある電子を観察すると、二つある状態のうちのいずれしかしか現れない(いずれが表れるかはその状況での確率によって定まっている)。そこで、観察した結果、ペアをなしている一方の電子が上向きのスピンであったとすると、量子もつれから、他方の電子は観察するまでもなく下向きのスピンであることが分かる。

分子に適当なエネルギーを与えると、共有結合を解いて、不対電子を有する原子あるいは分子の片割れとなることがある。二つに分かれてしまった原子あるいは分子の片割れのそれぞれをを遊離基といい、もともとは一つであった二つの対を遊離基のペアと呼ぶ。遊離基のペアは、不思議なことに、一緒になっていた時の性質を保持している。即ち、どれだけ離れていても、量子もつれの状態になっていて、それぞれの不対電子は相互に逆方向のスピンとなっている。従って、一方を観察すれば、他方の状態はどんなに離れていようとも観察せずにわかることになるのだが、アインシュタインはこの「不気味な遠隔操作」の存在を疑っていた。
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遊離基のペアにはもう一つ厄介な話がある。一重項状態によって量子もつれを作り出しているだけではない。二つの不対電子は同じエネルギーを有してはいないので、スピンの方向が同じになる状態、即ち、三重項状態も同時にとることができる。即ち、一重項状態と三重項状態の二つを同時に取る。即ち、遊離基のペアは量子の重ね合わせ状態もとる。何ともややこしい話なのだが、量子の世界ではこのようなことが生じる(但し、観察すると、どちらかの状態を目撃する。その比率は、量子の重なりが置かれている状況によって異なる)。

クロプトクロムが、光と相互作用して遊離基のペアを発生させるタンパク質と、同種類のものであることが知られていた。これに飛びついたシュルテンらは2000年にクロプトクロムが鳥の化学コンパスであると提唱した(この時の論文の筆頭著者はシュテルンの下で博士研究をしていたリッツである)。その考え方は以下のとおりである。

クリプトクロムは、青い光の光子を吸収するタンパク質である。クリプトクロムに光子が吸収されると、クリプトクロムを構成する色素分子FADの中の原子から電子が一つ飛び出す。飛び出した後には、電子の隙間が残る。その隙間をめざして、トリプトファンというアミノ酸(これもクリプトクロムの構成要素)から量子のもつれ状態にある電子の一つが移動してくる。これによりもつれ状態であった電子のペアは、遊離基のペアでの不対電子となり一重項状態と三重項状態の量子の重なりを作り出す。

遊離基のペアを観察すると一重項状態が観察されたり、三重項状態が観察されたりする。クリプトクロムでのこの確率は、電子ペアの方向に対する磁場がなす角度に強く影響される。遊離基のペアは不安定なので、電子同士が再結合して生成物を生じるが、その生成物の成分は(一重項状態か三重項状態かの)観察の確率に依存する。即ち、地球の磁場の影響によって異なる。

Natureのホームページには、下図の"The Avian Quantum Compass(2012年)"の図が掲載されている。
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2000年に論文を出した時点では、クリプトクロムに光が当たると遊離基のペアが生じるという証拠はなかったが、2007年には、モウリストンらの研究によって、青い光が当たると長寿命の遊離基ペアが生成されることが明らかになった。その後、クリプトクロムがショウジョウバエオオカバマダラやニワトリなどからもクリプトクロムが磁気受容に重要な役割を果たしていることが明らかになった

現在、残されている課題は、生成物の化学的な組成の違いがどのように脳に伝えられ、磁気の方向を認識しているかである。

なお、人間が方位磁石によって南北を知るように、鳥の体内に含まれている磁鉄鉱がコンパスの役割をしているのではないかという予想が長いことされていたが、これは、鳩での研究によって2012年に否定された。

追伸:遊離基の理解を進めるために、遊離基を利用してメチルからエチルを生成する化学反応をあげておく。図中、ドットが遊離基の不対電子である。
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