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bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県中央部の勝坂遺跡公園を訪ねる

旅行

相模線にゆられて縄文の遺跡を訪ねた。これは横浜から出ている相模本線ではない。JRだ。神奈川県の中央部を縦断するように、東海道線茅ヶ崎駅横浜線橋本駅の間を結んでいるローカル線だ。東京の近郊には珍しい単線運転でもある。

往きは小田急線の海老名駅で乗り換えた。小田急線の駅とJRの駅との間は連絡橋で接続されており、丹沢山塊の景色を楽しみながら渡ることができる。小田急側の駅は大きな駅で町の中心を担っていることを実感させてくれるが、JR側の駅は何とも萎びている。鉄道マニアは既に承知のことと思うが、JR線に沿ってもう一本線路が引かれている。相模本線の方から延びてきて厚木の駅までJR線と並走する。かつて、相模線は相鉄の所有であったが戦時中に国鉄に買収された。並走している線は、これを反映する歴史的な名残なのだろう。

今回、訪れたのは勝坂遺跡公園である。この遺跡は国指定の史跡になっている。最寄り駅は下溝駅である。とはいっても都心の感覚での最寄り駅ではない。田舎の感覚でとらえないと大変なことになる。電車を降りて撮った写真が以下である。
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駅員さんももちろんいない。駅を出て振り返っての写真。とてもそっけない。
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ここは相模台地の西側であり、さらにその西側を相模川が流れている。川の向こう側に見えるのが丹沢山塊である(下の写真の右側の大きな建物はヤマト運輸の厚木ゲートウェイ)。
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相模線に沿って造られている県道46号線を南下する。道の山側にだけ幅の狭い歩道がついている。トラックの交通量が多く歩道を歩いていてもこすられそうな感じがして心地よくない。20分近く歩いたところで、勝坂遺跡公園の駐車場への案内に出会う。駐車場の脇に沿って遺跡に入る道が作られている。幅の狭い山道のようなところを進んでいく。途中には、春の訪れを知らせてくれるかのように、花大根の群れが紫色の可憐な花を咲かせていた。
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山道を抜け台地に出ると、走り回る子供たちの大きな歓声が迎えてくれた。遠くに竪穴住居らしきものが見える何もない大きな公園だ。

近くに遺跡があったので、取り敢えずカメラに納める。敷石住居跡だ。
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温暖な気候に恵まれた縄文時代は中期末(4500年前)になると冷涼化する。これとともに、竪穴住居の構造が大きく変わり、石を敷いた住居が出現する。写真は敷き詰められた石である。石を温めることで、部屋の温度を上げたのであろう。

縄文時代は前期から中期にかけては、温暖な気候に恵まれていた。当時の生活様式は採取狩猟である。しかし、一般的な採取狩猟民とは異なり、縄文の人たちは定住生活を送っていた。森を開いて住むための空間をつくり、また、住居の周りにはドングリやクリやクルミの木を植樹して、定住しやすい環境を作っていた。住居の周りに作られた林は二次林と呼ばれるが、勝坂遺跡公園にもそれがあった。緑に生い茂っていれば想像できるのだろうが、この時期、葉が落ちてしまって隙間だらけで寂しいけれども次の写真である。
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そうこうしているうちに、公園の一番隅にある竪穴住居にたどり着いた。二つほどあったが、一つは笹で他の一つは土で屋根が葺かれていた。笹で作られた竪穴住居は4700年前ごろに作られたものの復元である。入口付近は、
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中に入ってみる。内部の壁は木で作られている。豪勢だ。また、少し奥まったところに炉が設けられている。お決まりのパターンだ。温度計と湿度計があるがもちろん当時はない。
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建物を支えている柱だ。この当時は石斧しかないので、作るのは大変だったろうと思う。f:id:bitterharvest:20170317165613j:plain
外に出て全景を取る。
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次は屋根が土で葺かれた竪穴住居だ。入口の写真を一枚。家というよりもなんとなく土で盛られた墓に入っていくような気分になる。
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炉の上に、燻製でも作るのだろうか吊るし棚があった。
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内から入口の方を見ると、
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二つの住居を一緒に撮る。
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建物跡も近くにある。
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少し離れたところに中村家住宅があることを案内で知ったのでそこに向かう。この建物は、国登録有形文化財に指定されている。幕末期の和洋折衷の珍しい建物だ。当初は三階建てだったが関東大震災後に三階部分を取り除いたそうだ。
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中村家と勝坂遺跡には因縁がある。大正15年に休暇で帰省していた学生の清水二郎が、この家の当主中村忠亮が所有する畑で散在する多数の土器を発見し、それを考古学者の大山柏(維新の元勲の大山巌は父)に標本として渡したことが、この遺跡発見の発端となった。

中村家から少し離れたところに、勝坂式土器発見の地があった。また、勝坂遺跡は相模川の小さな支流の鳩川沿いの谷戸に形成されたとのことであった。

最初に来た公園に戻り管理棟を訪れた。小さな会議ができるかなと思えるぐらいの空間であったが、そこには復元だが大山柏発掘の土器が展示されていた。
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また、この遺跡で発見された土器は、勝坂式土器と呼ばれ、中部・関東地方の縄文時代中期の指標となった。
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縄文土器は、この後の弥生式土器や古墳時代の土器と比べると重厚感にあふれている。松木武彦さんは『進化考古学の大冒険』のなかで、なぜ形は変わるのかについて説明している。それによれば、縄文時代には祭祀と調理具・食器の両方で使われたため豪華であったが、弥生時代になると後者のためだけに使われるようになり実用的な形になったと認知心理学を用いて説明している。

帰りは相模線の風景をもう少し満喫したかったので、海老名の方には戻らず、相模線をそのまま乗り継いで橋本駅に向かった。春がそこまで来ていることを知らせてくれるのどかな一日を相模の地で楽しむことができた。