bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

海老名市温故館に「弥生時代のムラ」を見に行く

台風一過のこの日(10月30日)、恵まれた天気の中、神奈川県海老名市の温故館を訪れた。

温故館の建物は、大正17年に海老名村役場庁舎として建てられたものを、相模国分寺跡後に移築されたものだ(移築は平成22年に始まり完成したのは翌年)。木造建築で、窓枠の濃い緑色と、壁面の白色のコントラストが鮮やかな洋館だ。
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ここで、「大山を望む弥生のムラー河原口坊中遺跡展」が開催されていたので、相模川沿いの弥生遺跡を知りたくて訪問した。

海老名市は神奈川県の中央部に位置する。この地域は、圏央道、新東名などの大型土木工事が盛んにおこなわれたために、数多くの遺跡が発見されている。河原口坊中遺跡もその一つで、圏央道の建設に伴って調査されたもので、弥生時代前期から古墳時代まで続く期間の長い遺跡である。
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上図に示すように、相模川に沿った場所に立地し、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点にある(二つの川はこの図では、右側にある細い二つの川である)。海老名市のホームページには、下図の海老名市の地形分類図が掲載されている(元図は小中学生の副読本『海老名の大地』)。
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海老名市は、西側に相模川が流れ、川に沿って黄色で示されている自然堤防がある、その後背地は湿地となっている。ここまでが低地で、その後ろには、相模野台地が広がっている。緑色の部分がそれにあたる。さらに一段と高くなった場所に丘陵がある。この間の段差は10mを越えている。河原口坊中遺跡は自然堤防あるいは後背湿地の場所にある。

後背湿地の部分は戦前までは沼地で、一歩足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでいくようなところで、この場所で水田作業をする人は大きな田下駄をはいたそうだ(温故館の2階に田下駄が展示されている)。

河原口坊中遺跡が湿地に立地したおかげで、この当時使用された道具が水を含んだ土に閉じ込められ、空気に触れない環境にあったため、今日まで原形をとどめて保存されていた。このため、この遺跡展では当時使われた木工具が中心となっていた。そのうちのいくつかを紹介しよう。最初は、米を利用していたことを示す臼と杵である。

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農耕具の一つ、土をならすために利用したであろうエブリ。
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水田作業の時に、沈み込むのを避けるために利用したであろう田下駄。
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木製品の高坏。
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高床式住居の上り下りに使われたであろうはしご。
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発掘したときは肌色に近い色をしてたが、空気に触れたために黒くなってしまった編みかご。
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今回の展示の主役は板状鉄斧である。これと同じようなものは朝鮮半島南部で多く見られ、日本列島では西日本に限られているため、貴重品である。空気に触れることがなかったため、錆びずに保存されていた。
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また、小銅鐸も展示されている。神奈川県では3つしか発見されていない。西日本では大きな銅鐸は墓の副葬品として用いられるが、この銅鐸は竪穴住居跡から発見されたとのこと。日常生活の中で使っていたのであろう。
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土器も展示されていた(下図は主に弥生時代後期のもの)。
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神奈川県の土器形式は図に示すように変化している(展示用のパンフレットの弥生時代の神奈川県域の編年表によっている)。
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弥生は、水田稲作が始まった時代である。神奈川県で最初に水田稲作が始まったのは、足柄上郡大井町にある中屋敷遺跡である。水田の跡は見つかっていないものの、炭化米が見つかっており、AMS法による放射性炭素年代測定では紀元前5世紀~4世紀のものであった。このときは弥生時代前期後半に属す。

東日本で最初の大規模な水田稲作が始まった集落は、小田原市足柄平野にある中里遺跡である。この遺跡は、弥生時代中期中葉のもので、水田跡や方形周溝墓(弥生時代の特徴的な墓)が発見されている。また、在地の中里式の土器に混ざって、東部瀬戸内地方の土器が3%含まれている。その他にも伊勢湾、中部高地、北陸地方、北関東地方、南東北地方の土器が発見されている。これらの土器は、在地の粘土と異なることから外から持ち込まれたと見なされ、これらの地域との交流あるいは人の動きがあったともみなされている。

河原口坊中遺跡では、後期になると、東海、中部高地、東京湾地域の土器が多く見られるようになり、その後、時を経るにしたがって在地化していく。このため、後期の時代に外部の人たちとの交流があったと見なせる。さらに進んで、遺跡が一時途絶えているので、外部から人々が移住してきたとも考えられる。

この遺跡で面白いのは、魚を追い込むためのしがらみ状遺構があることだ。食料を得るために、いろいろな工夫をしたことと思う。
また、環状石器もたくさん発見されている。環状石器の穴に棒を通せば、「はじめ人間ギャートルズ」が持っていた武器を想像させてくれる。
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展示の方はこれくらいにして、国分寺跡を見学した。温故館には国分寺の模型がある。
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相模国分寺の伽藍配置は法隆寺のそれと同じである。多くの国分寺東大寺の伽藍配置(大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、両翼に塔)とは異なり、金堂と塔が左右に並んでいる。この配置を取るのは他に上総国分寺だけだ。温故館を出ると目の前は、国分寺跡である。ここは台地の上にあるので、河原口坊中遺跡のように水に悩まされることはない。塔の跡では幼稚園児たちが遊んでいた。
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広々とした公園になっていて、子供たちを遊ばせるのにちょうどいい。
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当日はお客さんも我々だけで、説明員の方から丁寧な説明を受けて、楽しむことができた。子供の頃には、温故館のような大正時代の洋風な建物を、小学校や図書館など公立の建造物で多く見かけた。老朽化に伴ってこれらは建て替えられてしまったのであろう。今ではあまり見かけることができなくなってしまった。温故館のように保存されていると、子供の頃の懐かしい思い出がよみがえってくるので、是非、これからも長く保存して欲しいと願いつつ、帰路についた。