弥生時代後期の相模の国(神奈川県西部)の遺跡では、東海地方の特徴を持つ土器が多く発見され、この地方との文化的な交流や人的な移動があったことをうかがわせる。特に、神崎遺跡はその傾向が顕著で、東海地方の人々が、200Kmという海路を渡ってきたと見なされている。しかも、短い期間、居住しただけで、すぐに誰もいなくなっている。
神崎遺跡はこのように珍しい特徴を有しているので、見学して確認したいと思うようになり、11月1日に訪れた。
この遺跡は、神奈川県の綾瀬市にある。前回訪れた海老名市温故館の南4.5Kmの場所だ。
相模川支流の目尻川が近くを流れ、相模野台地の上に立地している。下の写真で、左側に遺跡、道の右下を目尻川が流れている。川に沿った沖積地の標高は13m、遺跡の標高は24mである。前回紹介した海老名市の川原口坊中が低地で湿地にあったのに対し、神崎遺跡は台地に位置している。洪水などの自然災害に遭いにくいので、居住場所としてはこちらの方が優れていると言えるだろう。しかし、不思議なことに、後で述べるように、短い期間しか使われなかった。
神崎遺跡は、東海地方の人々と特別な関係があったことが認められ、2011年に国の史跡に指定された。2016年には資料館が完成し、今年4月より公園が一部公開され、来年の4月には完成する予定になっている。資料館はこじんまりとまとまっていて、1階と2階に展示室があり、1階は綾瀬市の歴史を、2階は神崎遺跡を紹介している。
公園は、4月の完成に向けて、最後の整備を行っていた。
資料館の玄関には、この遺跡で発見された土器の中で最も大きな壺が展示されている。
神崎遺跡の情報を得るために、2階に上がる。床をこたつのようにくりぬいて、その低面に東海地方から移住してきたことを強調する絵が描かれていて、床に張られたガラス面を通して見られるようになっていた。
2階の展示室は、壁面に説明があり、その前に土器が置かれていた。東海地方からの移住を説明している所の壁面は次のようになっていた。
その前には、下の写真の土器が飾ってあった。
壁面の説明によると、東海地方(静岡県西部から愛知県東部)の土器と在地の土器は、模様のつけ方が異なるそうだ。東海地方の土器は竹串でこすって模様をつけていた(櫛描文)。これに対し、関東地方では、拠り紐を転がすことで模様をつけていた(縄文)。出土土器の95%は東海地方の特徴を持っていたので、在地の人が作ったのではなく、東海地方の人が作ったとされ、また、使用されている粘土が在地のものであることから、東海地方の技術で、この地で製造されたと見なされている。さらに、住居も縦長型の関東地方とは異なり、横長型の東海地方の形をしていることも東海地方の人が移住してきたことを裏付けている。
東海地方の人が相模の地に移住した理由は、この時期(2世紀)は、西の方では戦いが多かったので、(それから逃れるために)集団で移住してきたのだろうと説明されている。
また、神崎遺跡は、この人々が集落を作る前までは無人であった。また、家の建て替えも1回ぐらいしか行われていないので、移住後あまり年月を経ないうちに、人々はいなくなった。突然、遠い地域から現れ、あっという間にいなくなってしまった。なぜ、この地を選んで、そして、捨てたのだろう。色々なことが考えられてミステリーに富んだ遺跡である。
一回り2階の展示室を見た後、工事中の公園を見学した。今度の連休に環濠を発掘する様子を公開するということで、その準備がなされていた。
また、新築の竪穴式住居も見学者の訪問を待っていた。
この地で生活した人々は、素晴らしい景色の中で生活したのだろうと羨ましく思った。できれば、このような牧歌的なところで一度は暮らしてみたいと思いながらこの地を後にした。