bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

上総国分尼寺を訪れる

古代史の勉強の一休みに、永井路子の『美貌の女帝』を読んでいる。

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主人公は氷高皇女(ひたかひめみこ、680-748)だ。女性の持統天皇の孫娘で、元正天皇となった(彼女の弟の軽皇子文武天皇になる。この姉弟の母の阿閇(あへ)皇女は、文武天皇がなくなった後、元明天皇となる。息子から母への継承である。彼女の母は蘇我姪娘(めいのいらつめ)である。氷高皇女は元明天皇の後をついで天皇になる。母から娘への継承である。なお、氷高皇女の父親は、草壁皇子であるが、夭折する。また、氷高皇女は結婚することはなかった)。この時代、女帝天皇が相次ぐ。皇太子が若いために、成人するまでの中継ぎとして、皇后が天皇になったといわれている(氷高皇女の場合は例外で娘)。永井路子のこの小説は、そうではなく、蘇我の娘として、男子の天皇に劣ることなく国家を統治してゆくという設定になっているようだ。まだ、読み始めなので、断定的なことは言えないのだが、これまでの視点とは違った見方に立って氷高皇女が描かれている。40ページほど読み進んだが、関心を持ちながら読んでいる。

元正天皇は、甥の聖武天皇(701-756)に譲位する(聖武天皇文武天皇の子)。聖武天皇が在位していた時期(724-749)、天然痘(737)が発生し、藤原の四兄弟(不比等の子供)を始めとして、要職についている人たちの多くが死亡するという惨事や、災害や世の乱れ(729年に長屋王の変、740年には藤原広嗣の乱)などもあり、聖武天皇は救いを求めて仏教に深く帰依する。741年には、国分寺建立の詔を出す。これにより、全国60余りの国にそれぞれ、国分寺が建立される。

国分寺は、男の僧のための国分僧寺と尼僧のための国分尼寺とがあり、それぞれの国に、対となって建立された。千葉県の市原市には、市役所を挟むようにして、上総(かずさ)国の国分僧寺国分尼寺の遺跡がある。今回(9月28日)は、この二つの寺の跡を訪ねることにした。
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市原まではかなり遠いのだが、4月に新宿に大きなバスターミナルが完成したので、そのバスタ新宿を見がてら、市原市役所行きの高速バスを利用することとした。

バスタ新宿新宿駅南口にある。改札を出ると目の前にその建物が見える。
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バスターミナルは4階にあるので、エスカレータで上り、少し進むと切符売り場に行きつく。
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最近の日本の盛り場はどこもそうなのだが、ここも例外ではなく、日本語以外の言語の方が優勢である。長距離バスの方が安いこともあって、利用する人も多いのだろう。先日、長野から出てきた同級生は、バス代がなんと片道1500円だったと、教えてくれた。高速バスの低価格に馴染んでいる人にとっては、このような価格は当たり前のようになっているのだろうが、新幹線の料金しか知らない身には、驚愕の価格である。全く競争にならないと思う一方で、やはり、事故も多いのだろうと昨今のバス事故を思い出して改めて考えさせられた。

案内所を出ると、長距離の高速バスが客を待ち構えている。
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僕のバスの乗り場はA3である。そこに行ってみると、ひとつ前の東京ディズニーランド行きのバスが丁度お客さんを乗せるところであった。人気がある場所への便ということで満席で出発した。市原市役所行きのバスを待つ場所も指定してあったが、そこには誰もいなかった。込み合うこともあるまいと思い、発車時間までしばらく間があったので、バスタ新宿からの景色を楽しむため窓に沿って散策した。

バスタ新宿側から新宿駅南口を見るとこんな感じである。
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立派になったものだと思う。高校生の頃はこの南口をほぼ毎日利用した。改札を出て甲州街道を四谷の方に下り、明治通りを渡ったところに僕たちの高校の正門があった。その頃の南口には駅舎が唯一つあるだけで、賑やかなところではなかった。

駅を出るとすぐに陸橋に差し掛かるが、橋の下には、まだ、蒸気機関車を見ることもできた。現在はこぎれいな電車が出入りしている。
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さて、出発時間の10時を少し遅れて到着したバスに乗り込んだ。乗客は6人、寂しいぐらいの乗客数であったが、示し合わせたかのように、ばらばらに適当な間隔をあけて席に着いた。途中、渋滞も少しあったが、1時間半ほどで目的地の市原市役所に着いた。

降車した後、市役所、国分寺中央公園を右側に見ながら国分尼寺へと向かう。しばらく行くと、次のような看板に行きついた。
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歩いている方向に間違いがないことを確認し、安堵する。さらにしばらく進むと、展示館にたどり着いた。ここを見るのは後回しにして、まずは、寺の跡を見ることにする。展示館のそばからの国分尼寺跡の風景は次のような感じ。
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綺麗に整備されていて、とても、のどかな感じである。周りには、掃除をしている人がいるだけで、観光客は一人も見つからない。一人でこの風景を独占でき、とても、いい気分になってさらに奥へと進んでみる。回廊がズームアップされる。
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さらに進むと中門が表れる。立派な門である。
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門の復元だけで2億円、回廊には12億円要したとのことであった。さらに回り込んで、回廊を外側から見る。
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金堂院は金堂基壇だけが復元されている。基壇から中門を望んだ風景は次のようである。
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回廊の内側は法隆寺を真似て復元したとのことであった。
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回廊で囲まれた庭は整然と石が敷き詰められていた。
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展示館に戻って、テレビでの説明20分、模型を使っての説明10分を受けた。
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上総国分尼寺は、全国の国分尼寺の中でも最も規模が大きいそうで、その総面積は12万平米にも及ぶとのことである。現在、その1/3を市が所有し保護に努めているそうだ。

国分尼寺が建立されたころの日本は、律令制のもとでの中央集権国家で、天皇が強い力を持っていた時代である。地方は国ごとに支配され、それぞれの国には国府が置かれ、行政官である国司は中央から派遣されていた。また、それぞれの国は郡に分かれており、郡司には地方の豪族が就いていた。このため、実際の実務は豪族によって仕切られていた。

この当時の民衆たちは、律令制の基本である公地公民制で縛られていた。班田収授法に基づいて土地が割当てられたものの、租庸調によって一定の税金や使役が課せられた。

民衆たちは、豪族の監督の下で、国分寺建立の作業に従事させられたと思うが、随分と辛い仕事だったのではないかと考えるのだが、これを立証するような資料は残されていないので、想像の域を出ない。国分尼寺は、完成するまでに、20年の歳月を要したそうである。

尼寺が出来上がった当初は20人の尼僧が住み、その後、倍の40人になったそうである。雑用などをする人を含めて、全体では百人程度の人が住み、政務所と呼ばれるところで、日常の業務をしていたとのことである。

尼寺の概略は、次の看板によって知ることができる。
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尼寺を後にして、僧寺の遺跡に向かった。正面には、上総国分寺の石碑があった。
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中に入ると仁王門がある。
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坂東だなと思わせる塔もあった。将門塔である。将門伝説の一つなのだろう。
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さらに奥に進むと薬師堂がある。1716年に完成したとのこと。古風な趣のある建物である。
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少し外れたところに、国分僧寺の遺跡がある。70メートルの高さはあったであろうと推察されている七重塔の心礎が残っている。
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とても大きな石のため、このあたりでは採石できないので、50Km離れた鋸山から持ってきたのではと推察されている。心礎を囲むように、土台となる石が周りに配置されている。
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この周囲も市が所有しているのだろう。緑の野原になっていた。
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国分寺の遺跡が見つかっているのだから、国府の遺跡もあるだろうと尼寺の展示館で質問したところ、残念ながら見つかっていないとのことであった。

律令制の下では、税を都に納めることが課せられていた。納入するのは、民衆の役目である。当時、都と上総を結ぶのは東海道であった。当時の東海道は現在とは異なっている。相模国から、武蔵国に入るのではなく、海路で安房国を経由し、その後、陸路で上総国に向かっていた(武蔵国へは東山道を利用して上野国経由で至った)。市原のあたりにも古道らしきものは見つかっているようだが、当時の古道はたいそう立派な道路であったと予想される。しかし、そのような整備された古道を使ったとしても、上総から都まで、税を民衆が運ぶのは大変な夫役だったのではと思われる(納入する人夫は運脚と呼ばれた)。何人もの人が故郷に戻れなかったことであろう。

律令制を行き渡らせる中で、国府、郡衙国分寺、街道などの建設が行われたわけだが、当時の王朝の権力がいかに強かったかが、これらの遺構を見るたびに、認識させられる。

遺跡見学に満足し、バス停でおにぎりをほおばった後、帰路に着いた。高速道路で事故があり長い渋滞になっているという情報をチケット売り場で運よく入手したので、内房線五井駅から電車を利用した。快い疲れの中で、電車の中で軽い睡眠をとっての帰宅となった。

追:乙巳の変(645年)で蘇我入鹿は殺害され、親の蝦夷は自殺する。これにより、蘇我本宗家は滅びる。しかし、この変で、蘇我家の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)は、蝦夷・入鹿の滅亡を企てる側に立つ。この変の後、この一族は天皇家外戚(母方の親戚)となり、蘇我倉山田石川麻呂の血は氷高皇女(元正天皇)まで引き継がれる。(元正天皇が譲位した)聖武天皇の母は藤原不比等の娘の宮子、また、妻は同じ不比等の娘の光明子である(宮子とは異母姉妹)。これを機に、天皇家外戚蘇我から藤原へと移り変わる。