bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北部九州を旅行する(4日目午前)ー筑紫君磐井の遺跡を訪ねる

北部九州の旅行を始めてから4日目、最終日だ。夜7時の飛行機で東京に戻ることにしているので、見学の時間はたっぷりだ。前日、吉野ケ里遺跡を見学しているときに、北部九州の古代国家について、ボランティアガイドの人と意見の食い違いはあったが、楽しく談笑している中で、磐井の乱が話題に上った。そのとき、ボランティアガイドの人が、その地は向こう側の八女だと教えてくれた。吉野ケ里遺跡からこんなにも近いところに磐井が残した遺跡があろうとは思ってもいなかったので、当初の予定を変更して、磐井の墓と思われている岩戸山古墳へと向かうことにした。
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ホテルはJRの駅から遠いので交通の便が良いとは言えないのだが、都合のよいことにホテルの近くから久留米駅行のバスが出ていることが分かった。さらに良いことに、久留米駅で乗り換えて八女方面に向かえば、岩戸山古墳にたどり着けることも分かった。ホテルのフロントでバスの時刻を教えてもらい、8時14分のバスに乗る。携帯電話で確認したらこの時刻にはバスは走っていないので少し心配になったが、ホテルからの情報を信用して、無事に岩戸山古墳へと向かうことができた。

久留米駅に近づいたころ、バスの窓から趣のある教会が目に入ってきた。由緒ある建物ではと写真を撮った。後で調べたところ、毛利秀包(ひでかね)が久留米領主であった時代(1587~1600)に始まるそうだ。黒田如水の仲介もあって秀包は、キリシタン大名大友宗麟の七女マセンチア引地を妻にし、宗麟や妻の勧めによって洗礼を受け、宣教師を保護し、城のそばに教会堂を建立したそうだ(イエズス会年報1600年)。写真の聖堂は1955年に建てられたものだ。
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久留米駅でバスを乗り換え、最寄りのバス停の福島高校前で降車した。岩戸山古墳の近くには八女市岩手山歴史文化交流館があり、まずはここに立ち寄った。ここでは、岩手山古墳の石像を中心にした展示があった。

展示室を入るとすぐに、「リーダーの誕生」という説明があり、2000年前ごろの北部九州で大集落が発生したことを教えてくれた。春日市の須玖(すく)・岡本遺跡群(奴国)、糸島氏の三雲・井原遺跡群(伊都国)などとともに、八女市にも大規模な環濠を伴う室岡遺跡群がうまれたそうだ(ここでは説明されていなかったが、前日に訪問した吉野ケ里遺跡も含まれるが、室岡遺跡とともにクニの名前は残っていない)。次の写真は室岡遺跡群の西山ノ上遺跡から発見された遺物だ。鉄片が展示されていて、この当時、先進的な場所であったことが分かる。
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同じように先進性を示す茶ノ木ノ本遺跡から出土された銅鉾(どうほこ)・同鏡などもあった。
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古墳時代になると円墳や前方後円墳が現れる。
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5世紀初めの立山山24号墳からは銅鏡・勾玉・製鉄武器が副葬されていることから、この地方に有力者が出現したことがわかる。
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同じころ前方後円墳も現れる。これは有力者が統合され、「磐井」一族が生み出されたとも考えられている。前方後円墳は系列をなし、5世紀には、石人山古墳、岩櫃山古墳、そして6世紀になるとこの地域では最大規模の岩戸山古墳が現れ、その後に磐井の乱で滅ぼされた影響を受けたのだろう、小型化した乗場古墳・善蔵塚古墳・鶴見山古墳を経て、7世紀には円墳の童男山古墳へとなる。

岩戸山古墳からは沢山の石像が出現している。しばらく見ていこう。「刀を帯び鞘を負う石人」
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「鞘を負う石人」
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石刀
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武装石人頭部」
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武装石人」
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「石鞘」
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「石盾」
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その他にもたくさんの石像があった。
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磐井の乱とは継体天皇の時代の北部九州でのヤマトと磐井との争いであった。527年にヤマト王権は、近江毛野が率いる軍を朝鮮半島へ出兵させようとしたが、筑紫君磐井にはばまれたので、ヤマト王権は北部九州に物部麁鹿火(あらかい)と大友金村を北部九州を派遣した。そして、磐井はヤマト王権軍によって鎮圧された。

磐井の乱終結した後、ヤマト王権から罰せられることを恐れた磐井の息子の葛子(くずこ)は、糟屋の地を差し出した。ヤマト王権はこの地を屯倉とし、このあと北部九州に次々に屯倉を設置していき、ヤマト王権による中央集権化が進んでいった。そのような中にあって、磐井の後継者たちは、90m規模の岩手山古墳には劣るものの、乗場古墳・鶴見山古墳などの大型前方後円墳を次々に築造し、一族再生の機会をうかがったようだ。

ヤマト王権により設置された北部九州の屯倉が下の写真の赤い丸の部分だ。。
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磐井の側近たちの墓とも考えられている6世紀の釘崎古墳から発掘された武具だ。
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交流館を抜けて岩戸山古墳へと行った。模造だが石像が展示されていた。ここは筑紫国風土記に記載されている別区と呼ばれる場所だ。
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岩戸山古墳の入り口、
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古墳は鬱蒼たる樹木で覆われていた。
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近くには岩戸山4号古墳があり、石室が見られるようになっていた。
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岩戸山古墳をたっぷりと見学したので、古代時代の九州の中心地である大宰府へと向かう。
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久留米に近づいたころ車窓に何とも変わった大仏と塔が現れた。後でインターネットで調べたところ、成田山久留米分院の救世慈母大観音様とインドのブッタガヤ大仏塔と同型の塔ということが分かった。
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久留米駅西鉄天神大牟田線に乗り換えて大宰府へと向かった。この続きは次のブログで紹介しよう。