11月3日は晴れの日が多い特異日である。この日は雨が降ると天気予報ではずっと伝えられていたが、前の日になって、急に晴天になると変更された。そのとおり、雲一つない素晴らしい日になったので、前の日の埼玉古墳群に続いて、荏原台古墳群を訪れた。
訪問の一つの理由は、思い出の地だからである。荏原台古墳群は田園調布と野毛の二つの地域に分かれている。田園調布では、駅の近くにある教会で結婚式を挙げたし、短い期間だが生活したこともある。野毛は高校3年生の夏にテニスに明け暮れたところだ。
埼玉古墳群と荏原台古墳群の間には、因縁があるというのももう一つの理由だ。後で詳しく説明するが、荏原台古墳群の豪族が先に台頭し、その後で、埼玉古墳群(あるいはその近く)の豪族が台頭してきて、両豪族の間で、「武蔵国造の乱」が起きたのではないかと見なされている。
それでは、野毛の地域を紹介しよう。ここは、大井町線の等々力駅が最寄り駅だ。景色を楽しむために、等々力渓谷を経由する。夏でもひんやりとしていて、渓谷という名に恥じないところだ。渓谷の様子をいくつか示そう。多くの人が散歩を楽しんでいる。
高校3年生の時にテニスで利用したところは、企業の保養所で半分は建物と庭園、半分はテニスコート3面になっていた。テニスコートは住宅に変わっていたものの、残りの部分は日本庭園として活用されていた。
ここからそれほど遠くないところに、野毛大塚古墳がある。ここは、帆立貝形古墳がある。全長82mで5世紀前半の築造だ。埼玉古墳群に先んじていることが分かる。
この古墳の模型もあった。
等々力駅に戻って、東横線の多摩川駅で下車して、荏原台古墳群のうちの田園調布の地域を訪ねる。多摩川の堤の上にあり、眺めがよい。人気高い住宅街となっている武蔵小杉を望むことができる。
この台地にはかつて調布浄水所があったそうで、跡地は次のようになっている。
しばらく歩くと、亀甲山古墳の案内がある。この地域最大の古墳で4世紀後半から5世紀前半の築造で、全長は107mである。樹木に覆われているため、全容を見ることはできない。
さらに歩くと、多摩川台古墳群1~8号墓の案内がある。
それぞれの墓には、場所を示すだけの板が置かれているだけだ。付近を見ても墓らしい様子を知ることはできない。
しかし、墓とは反対側の田園調布の景色はきれいだ。結婚式を挙げたカトリック田園調布教会も見ることができた。
さらに歩くと、前方後円墳の宝莱山古墳を右手にし、左の方に曲がると宝莱公園になる。公園を出ると、駅へと繋がる銀杏並木がある。
さらに進むと、懐かしい駅舎が現れる。
しかし、この駅舎は駅の業務をしていない。面影だけを残しているモニュメントだ。かつては駅舎の向こう側にはホームがあった。しかし、今は、モニュメントの駅舎を抜けると、本当の駅舎へ向かうための階段が現れる。昔の田園調布の駅前の雰囲気がとても良かったので、その雰囲気を残すために、そのままの姿で残されたのであろう。
歩いたコースの説明が終わったので、荏原台古墳群と埼玉古墳群の関りを説明しよう。
この当時の世界情勢から始めよう。『日本書紀』の継体21年(527)・22年(528)の条には、『筑紫国造磐井』の「叛逆」事件の伝承がある。
この伝承に対して、戦前からこれまで様々な解釈が試みられてきた。今日では、東アジアの国際情勢とのかかわりあいを重視して、「磐井は、この頃、九州の筑紫・火(肥)・豊の諸国に勢力を張り、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅諸国と積極的に外交を行い、一つの王国を形成しつつあったことがうかがえる」と見られている(佐藤信)。
当時の日本列島は、「王(キミ)」と呼ばれる地方豪族が存在し、王たちが連合的関係を作り、その中心の王を「大王(オオキミ)」と呼んでいた。大王はのちに天皇になるが、この当時の大王と王の関係は上下関係ではなく、同盟関係に過ぎなかった。
磐井も筑紫君磐井と呼ばれた。君と王とは「キミ」は同音であり、磐井は「王」であった。
磐井の乱と同じように地方豪族との戦いが、同時期に関東にもあったことが伝承されている。これは「武蔵国造の乱」である。『日本書紀』安閑元年(531)閏12月条に記載されているが、そこに、「王」と同音の「君」を用いた、上毛野君小熊が出てくる。大王に対抗できるような王が関東にいたのであろう。『日本書紀』には次のように書かれている。
武蔵国造笠原直使主(オミ)と同族小杵(オギ)と、国造を相争ひて、[使主・小杵、皆名なり。] 年経るに決め難し、小杵、性阻くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて逃げ出づ。京に詣でて状を言す。朝廷臨断めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅す。国造使主、悚憙懐に満ちて、黙已あること能はず。謹みて国家の為に、横渟、橘花、多氷、倉樔、四処の屯倉を置き奉る。
この伝承は、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争ったとき、その加勢を、使主は朝廷(大王)に求め、小杵は上毛野君(王)に求めたというものだ。磐井と同じように、上毛野は大君と争うほどの勢力があったことが分かる。また、横渟は横見郡(埼玉県)と、橘花は橘樹郡(川崎市)、多氷は多摩郡(東京都)、倉樔は久良岐郡(横浜市)と比定されている。
滅びてしまった小杵だが、彼はどこに住んでいたのであろうか。二つの説があり、一つは南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)、他の一つは(比企地方の古墳群)である。なお、使主は埼玉古墳群と比定されている。
埼玉古墳群稲荷山古墳からは鉄剣が出土している。辛亥年と銘があり、471年と531年の説があるが、前者の方が有力である。また、銘文の解釈は一つではないが、中央豪族のワカタケル大王(倭王武)からこの地域の豪族ヲタケに下賜されたというのが有力である(大王が中央豪族ではなく関東の豪族という説がある)。もし、これが正しければ、同盟関係から従属関係へと移行していたことをうかがわせる。
鉄剣を下賜されたヲタケと笠原直使主の関係も明らかではないが、何らかの関係があるとすれば、笠原直使主が朝廷を頼ったこともわかりやすい。
さて、小杵が南武蔵の豪族であったとすると、彼らが残した古墳は荏原古墳群であったと思われる。この古墳群は、先に述べたように、田園調布の地域と野毛の地域に分かれる。
まず、田園調布の地域に、4世紀前半には全長97mの宝莱山古墳が、後半から5世紀前半には全長107mの亀甲山古墳が出現する。これらの古墳は前方後円墳である。この後、この地域には6世紀前半まで、古墳は出現しない。
5世紀になると、古墳の位置は野毛の地域に移動し、全長86mの野毛大塚古墳、全長30mの八幡塚古墳、全長57mの御嶽山古墳が出現し、八幡塚古墳は円墳であるが、残り二つは帆立貝形古墳である。
6世紀になると、再び田園調布に戻るが、古墳は小型である。6世紀前半に小型前方後円墳の浅間神社古墳、6世紀後半から7世紀中ごろにかけて多摩川台古墳8基(二つは小型前方後円墳、残りは円墳)、6世紀末に前方後円墳と思われる観音塚古墳が出現し、7世紀中・後期には古墳は築造されなくなり、横穴墓となる。
小杵が敗れたのは6世紀の前半であるので、この当時田園調布に築造された古墳が小型になる。この点をとらえて、甘粕健は「武蔵における古墳時代の有力古墳の分布が、前期の武蔵南部から後期には武蔵北部(埼玉古墳群)に移動したことも、「武蔵国造の乱」とかかわりがあると指摘している。
このように遠く離れた二つの地域が、歴史の中でつながりがあったことを知るのは楽しいことである。