bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

都内世田谷区の荏原台古墳群を訪れる

11月3日は晴れの日が多い特異日である。この日は雨が降ると天気予報ではずっと伝えられていたが、前の日になって、急に晴天になると変更された。そのとおり、雲一つない素晴らしい日になったので、前の日の埼玉古墳群に続いて、荏原台古墳群を訪れた。
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訪問の一つの理由は、思い出の地だからである。荏原台古墳群は田園調布と野毛の二つの地域に分かれている。田園調布では、駅の近くにある教会で結婚式を挙げたし、短い期間だが生活したこともある。野毛は高校3年生の夏にテニスに明け暮れたところだ。

埼玉古墳群と荏原台古墳群の間には、因縁があるというのももう一つの理由だ。後で詳しく説明するが、荏原台古墳群の豪族が先に台頭し、その後で、埼玉古墳群(あるいはその近く)の豪族が台頭してきて、両豪族の間で、「武蔵国造の乱」が起きたのではないかと見なされている。

それでは、野毛の地域を紹介しよう。ここは、大井町線等々力駅が最寄り駅だ。景色を楽しむために、等々力渓谷を経由する。夏でもひんやりとしていて、渓谷という名に恥じないところだ。渓谷の様子をいくつか示そう。多くの人が散歩を楽しんでいる。
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高校3年生の時にテニスで利用したところは、企業の保養所で半分は建物と庭園、半分はテニスコート3面になっていた。テニスコートは住宅に変わっていたものの、残りの部分は日本庭園として活用されていた。
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ここからそれほど遠くないところに、野毛大塚古墳がある。ここは、帆立貝形古墳がある。全長82mで5世紀前半の築造だ。埼玉古墳群に先んじていることが分かる。
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この古墳の模型もあった。
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等々力駅に戻って、東横線多摩川駅で下車して、荏原台古墳群のうちの田園調布の地域を訪ねる。多摩川の堤の上にあり、眺めがよい。人気高い住宅街となっている武蔵小杉を望むことができる。
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この台地にはかつて調布浄水所があったそうで、跡地は次のようになっている。
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しばらく歩くと、亀甲山古墳の案内がある。この地域最大の古墳で4世紀後半から5世紀前半の築造で、全長は107mである。樹木に覆われているため、全容を見ることはできない。
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さらに歩くと、多摩川台古墳群1~8号墓の案内がある。
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それぞれの墓には、場所を示すだけの板が置かれているだけだ。付近を見ても墓らしい様子を知ることはできない。
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しかし、墓とは反対側の田園調布の景色はきれいだ。結婚式を挙げたカトリック田園調布教会も見ることができた。
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さらに歩くと、前方後円墳の宝莱山古墳を右手にし、左の方に曲がると宝莱公園になる。公園を出ると、駅へと繋がる銀杏並木がある。
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さらに進むと、懐かしい駅舎が現れる。
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しかし、この駅舎は駅の業務をしていない。面影だけを残しているモニュメントだ。かつては駅舎の向こう側にはホームがあった。しかし、今は、モニュメントの駅舎を抜けると、本当の駅舎へ向かうための階段が現れる。昔の田園調布の駅前の雰囲気がとても良かったので、その雰囲気を残すために、そのままの姿で残されたのであろう。

歩いたコースの説明が終わったので、荏原台古墳群と埼玉古墳群の関りを説明しよう。

この当時の世界情勢から始めよう。『日本書紀』の継体21年(527)・22年(528)の条には、『筑紫国造磐井』の「叛逆」事件の伝承がある。

この伝承に対して、戦前からこれまで様々な解釈が試みられてきた。今日では、東アジアの国際情勢とのかかわりあいを重視して、「磐井は、この頃、九州の筑紫・火(肥)・豊の諸国に勢力を張り、朝鮮半島高句麗百済新羅諸国と積極的に外交を行い、一つの王国を形成しつつあったことがうかがえる」と見られている(佐藤信)。

当時の日本列島は、「王(キミ)」と呼ばれる地方豪族が存在し、王たちが連合的関係を作り、その中心の王を「大王(オオキミ)」と呼んでいた。大王はのちに天皇になるが、この当時の大王と王の関係は上下関係ではなく、同盟関係に過ぎなかった。

磐井も筑紫君磐井と呼ばれた。君と王とは「キミ」は同音であり、磐井は「王」であった。

磐井の乱と同じように地方豪族との戦いが、同時期に関東にもあったことが伝承されている。これは「武蔵国造の乱」である。『日本書紀』安閑元年(531)閏12月条に記載されているが、そこに、「王」と同音の「君」を用いた、上毛野君小熊が出てくる。大王に対抗できるような王が関東にいたのであろう。『日本書紀』には次のように書かれている。

武蔵国造笠原直使主(オミ)と同族小杵(オギ)と、国造を相争ひて、[使主・小杵、皆名なり。] 年経るに決め難し、小杵、性阻くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて逃げ出づ。京に詣でて状を言す。朝廷臨断めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅す。国造使主、悚憙懐に満ちて、黙已あること能はず。謹みて国家の為に、横渟、橘花、多氷、倉樔、四処の屯倉を置き奉る。

この伝承は、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争ったとき、その加勢を、使主は朝廷(大王)に求め、小杵は上毛野君(王)に求めたというものだ。磐井と同じように、上毛野は大君と争うほどの勢力があったことが分かる。また、横渟は横見郡(埼玉県)と、橘花橘樹郡(川崎市)、多氷は多摩郡(東京都)、倉樔は久良岐郡(横浜市)と比定されている。

滅びてしまった小杵だが、彼はどこに住んでいたのであろうか。二つの説があり、一つは南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)、他の一つは(比企地方の古墳群)である。なお、使主は埼玉古墳群と比定されている。

埼玉古墳群稲荷山古墳からは鉄剣が出土している。辛亥年と銘があり、471年と531年の説があるが、前者の方が有力である。また、銘文の解釈は一つではないが、中央豪族のワカタケル大王(倭王武)からこの地域の豪族ヲタケに下賜されたというのが有力である(大王が中央豪族ではなく関東の豪族という説がある)。もし、これが正しければ、同盟関係から従属関係へと移行していたことをうかがわせる。

鉄剣を下賜されたヲタケと笠原直使主の関係も明らかではないが、何らかの関係があるとすれば、笠原直使主が朝廷を頼ったこともわかりやすい。

さて、小杵が南武蔵の豪族であったとすると、彼らが残した古墳は荏原古墳群であったと思われる。この古墳群は、先に述べたように、田園調布の地域と野毛の地域に分かれる。

まず、田園調布の地域に、4世紀前半には全長97mの宝莱山古墳が、後半から5世紀前半には全長107mの亀甲山古墳が出現する。これらの古墳は前方後円墳である。この後、この地域には6世紀前半まで、古墳は出現しない。

5世紀になると、古墳の位置は野毛の地域に移動し、全長86mの野毛大塚古墳、全長30mの八幡塚古墳、全長57mの御嶽山古墳が出現し、八幡塚古墳は円墳であるが、残り二つは帆立貝形古墳である。

6世紀になると、再び田園調布に戻るが、古墳は小型である。6世紀前半に小型前方後円墳浅間神社古墳、6世紀後半から7世紀中ごろにかけて多摩川台古墳8基(二つは小型前方後円墳、残りは円墳)、6世紀末に前方後円墳と思われる観音塚古墳が出現し、7世紀中・後期には古墳は築造されなくなり、横穴墓となる。

小杵が敗れたのは6世紀の前半であるので、この当時田園調布に築造された古墳が小型になる。この点をとらえて、甘粕健は「武蔵における古墳時代の有力古墳の分布が、前期の武蔵南部から後期には武蔵北部(埼玉古墳群)に移動したことも、「武蔵国造の乱」とかかわりがあると指摘している。

このように遠く離れた二つの地域が、歴史の中でつながりがあったことを知るのは楽しいことである。