bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

弥生時代の土偶形容器を横浜市歴史博物館に見学に行く

文明の衝突は社会を激震する。律令制明治維新はその代表的なものだが、弥生時代の到来もそれに劣らない文明の衝突であった。

弥生時代に先立つのは縄文時代である。この時代は、1万年もの長きにわたって続き、人々は狩猟採集の定住生活を享受していた。この当時の人びとは、食糧確保のために費やす時間はそれほど多くはなかったと推察されている。傍証になるが、定住はしなかったが、同じように狩猟採集生活を送っていたオーストラリア先住民のアボリジニの人々は、食糧獲得のために、4時間半程度しか使っていなかった。彼らは、余剰の時間を音楽や絵画に振り向けていたが、縄文時代の人々はどのように振り分けていたのであろうか。

その一端を伺わせてくれるのが、時間をかけて丁寧に作成されたと見られる、土器や土偶である。縄文時代の中期になると、燃え上がる炎をかたどったような装飾性溢れる火焔型土器が出現する。同じころ、長野県の八ヶ岳山麓の遺跡では「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が、後期の初めになるとそこから4㎞離れた地点で「仮面の女神」と称せられる土偶が造られた。また、東北地方でも後期には、合掌土偶や遮光土偶が造られている。

男女間での分業が行われていた縄文時代には、土器や土偶は女性により製作された。得意のおしゃべりをしながら余剰の時間をこれらの製作を通して楽しんだのであろう。他方の男性は余剰の時間をどのようにつぶしたのであろう。これは推察の域を出ないが、食料確保を兼ねながらスポーツとして狩猟を楽しんだのだろうか。

しかし、楽しんでばかりもいられなかった。縄文時代も晩期になると、これまで温暖であった気候は寒冷化し、現在よりも気温で2度程度低下し、縄文集落が集中した信州の山々には深い雪が降り、関東の海岸線は後退して、狩猟採取生活が困難になる。縄文時代最盛の中期には26万人程度の人々が住んでいたが、晩期には8万人程度に落ち込んだ。

縄文の人々が困難を極めている頃、新しい文明がもたらされた。朝鮮半島からの水田稲作技術を携えた人々の渡来である。今から3000年前のことで、九州北部で始まった。

水田稲作で特徴づけられる弥生時代の文化は、狩猟採集による縄文時代のそれとは大きく異なっていた。縄文時代の社会が家族あるいは拡大家族を中心とした共同体であったのに対し、弥生時代は血縁関係を超えた大きな集団が形成され、それを統率するようなリーダーが出現し、社会が階層化し始めるような社会であった。水田稲作は、水田の管理・運営に多大の労力を必要とするだけでなく、従事者間での協力や秩序を必要とする。水田稲作によって、多くの人々は土地に縛られ、離れられない状態になる。他方で、人や水田を管理するような人も現れる。

仲間内で諍いが起きたとき、縄文時代は他の場所に居住地を求めて去れることが容易に行えたが、弥生時代は水田に縛られているため、他の場所に移動することは容易ではなかった。このため、諍いが起こらないようにすることで生じるストレス、そして、諍いが生じたときにそれを解決しようとすることに起因するストレスは、それ以前とは比較にならないほど大きかった。他の言葉を借りるなら、縄文時代とは異質のモラルを弥生時代は必要とした。

さらには、収穫物である米や生産するための水田を狙っての集落の間での収奪も生じる。このため、部族間での対立を解決するための対策や方策も必要とした。

縄文時代は血のつながりを認識できるような人々の集まり、部族社会であったのに対し、弥生時代には、集団を統率する人が現れ、社会が階層化しはじめた。即ち、古墳時代に本格化する首長社会への移行期である。古墳時代になると地方豪族が大きな集団をまとめるようになり、さらに、ヤマト政権が誕生して原始国家が成立するようになる。

残念なことに、水田稲作をいったん始めてしまうと、かつての狩猟採集生活に戻ることはできない。単位面積当たりで獲得できるカロリー量では、水田稲作は圧倒的に勝る。このため、水田稲作を始めてしまうと人口が急増し、狩猟採集では維持できないほど多くの人々が居住してしまい、縄文時代の生活に戻ることは不可能になる。

水田稲作という新しい文明が日本列島に入り込んできたとき何が起きたであろうか。縄文時代の生活を維持していた在地の人々は、水田稲作を携えてやってきた渡来の人びとを、すんなりと受け入れたのであろうか。あるいは、撃退しようとしたのであろうか。逆に、撃退されたのであろうか。

関東地方に水田稲作がもたらされたのは、だいぶたってからのことである。横浜では大塚遺跡が有名であるが、ここに伝わったのは弥生時代中期後葉、2000年前ごろとされている。九州北部にもたらされてから1000年もたってからのことである。水田稲作を生業とする集落は、他集落からの攻撃に備えて、環濠で守られている。環濠は、集落の周りをV字型や逆台形の深い溝(大塚遺跡の場合は幅4.5m深さ2.5m)で囲んだ構造物である。大塚集落は、環濠集落全体が発見された、貴重な遺跡である。

小田原市の中里遺跡は、関東地方では最初期の弥生集落である。大塚遺跡から発見された土器は宮ノ台式土器であるが、この遺跡からはその一つ前の世代の中里式 (須和田式) 土器が出土している。中期中葉と呼ばれる時代に属す。

中里遺跡の北5㎞のところには、弥生時代前期前葉、およそ2500年前、の中屋敷遺跡がある。この遺跡からは炭化米が発見されている。関東地方での水田稲作の到来については解明されていない点が多いものの、この遺跡はこれを研究する上で貴重な存在と考えられている。

中屋敷遺跡は昭和女子大学が発掘調査を行っている。調査に当たっている人たちが女性だけというユニークさも手伝って、興味のある場所である。

ここから発掘された小型の精製品の土器は、縄文時代晩期以降の形式を踏襲しており、縄文文化が根強く残っていることを伺わせる。そして、面白いのは、土偶形容器だ。

先週まで、横浜市歴史博物館で、「横浜に稲作がやってきた」という特別展示が開催され、この土偶が展示されていた。そこで、文明の衝突の一端でも知ることができればと思い、見学に行った。
正面から見ると、
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顔の表情が豊かで、入れ墨も施されている。普通の女性なのだろうか、それとも、祭祀と関係のある特別な人なのだろうか。縄文時代土偶はほとんどが女性だ。この土偶も胸の表現があるので女性だろう。土偶と言えば、縄文時代を代表する遺物で、弥生時代には存在しないと思われているが、そのようなことはな。非常に少なくなるが400体ほど発見されている。その中で、土偶形容器と呼ばれるものもおよそ40体ほど見つかっている。土偶形容器は男女一対で作られることが多いので、対の男性の方はまだ地下で眠っているのだろうか。

上の方から見ると中空の容器のようになっていることが分かる。
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容器の中には、骨が入っていたそうで、新生児の骨と鑑定されている。土偶が墓の副葬品として利用されることは縄文時代にはほとんどなかったが、晩期後半には東海地方ではそのように用いた例もあるそうだ。また、この容器の中に新生児といえどもそのまま入れることはできなかったと思われるので、一度埋めた後、その骨を取り出して容器の中に収めたと思われる。縄文時代後・晩期には再葬が広く行われるようになっていたが、その傾向をひくものだろう。また、弥生時代初期には、蔵骨器を用いた壺型再葬墓が発達するがその流れにも沿ったものである。

中屋敷遺跡の状況を見る限り、縄文時代からの継続性を読み取ることができる。また、炭化米の出現が示唆するように弥生文化の到来が近くまで迫っているが、新しい文化からそれほど大きな影響を受けているようには思えない。しかし、水田稲作文化の影響を本格的に受けるのは、この後であろうから、その時、どうであったかについては判断を下すことはできない。

中屋敷遺跡から発見された大型の土器も展示されていた。
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これらには弥生時代の条痕文の模様がついている。写真の下の方に小型の土器が写っているが、残念ながら、これらの土器の原形の部分が破片に近かったので写真を撮るには至らなかった(この記事を書いている段階では、縄文時代の模様が記録として残らず残念なことをしたと感じている)。

特別展示を見た後、大塚遺跡も見て回ったので、その時の写真も載せておこう。
環濠はこのようになっている。
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竪穴住居跡は、
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復元された竪穴住居は、
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掘立柱建物跡には高床倉庫が復元されている。
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大塚遺跡の規模は2.2ha、竪穴住居の数は85軒、使用された年数は50年程度、各住居跡で3~5回程度建て替えられたと考えると同じ時期に立っていた住居はおよそ20軒、各住居に5人程度住んでいたとすると、同時期の居住者の数はおよそ100人と考えられている。遺跡は、1/3ほど残されていて、夜間を除いて見学できるようになっている。

また、隣接して、歳勝土遺跡がある。ここは、大塚遺跡の人たちの墓地と考えられていて、弥生時代の代表的な墓制の一つである方形周溝墓が30基ほど発見されている。
木棺が埋められた状況が復元されている。
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また、墓の全体もわかるようになっている。
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関東地方では、立派な土偶を見ることは少ないが、今回は、弥生時代のものとは言え、優れた土偶を見学することができ、とてもよかった。特別展示の入口には土偶形容器が、出口には人面付土器(横浜市上台遺跡)が置かれていた。これは、弥生時代後期のものであった。中期までは再葬墓として用いられていたが、これは集落から発見されたそうで、その用途が変化したのだろう。およそ1000年の弥生時代の変化を知ることもでき、良い展示であった。
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都内世田谷区の荏原台古墳群を訪れる

11月3日は晴れの日が多い特異日である。この日は雨が降ると天気予報ではずっと伝えられていたが、前の日になって、急に晴天になると変更された。そのとおり、雲一つない素晴らしい日になったので、前の日の埼玉古墳群に続いて、荏原台古墳群を訪れた。
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訪問の一つの理由は、思い出の地だからである。荏原台古墳群は田園調布と野毛の二つの地域に分かれている。田園調布では、駅の近くにある教会で結婚式を挙げたし、短い期間だが生活したこともある。野毛は高校3年生の夏にテニスに明け暮れたところだ。

埼玉古墳群と荏原台古墳群の間には、因縁があるというのももう一つの理由だ。後で詳しく説明するが、荏原台古墳群の豪族が先に台頭し、その後で、埼玉古墳群(あるいはその近く)の豪族が台頭してきて、両豪族の間で、「武蔵国造の乱」が起きたのではないかと見なされている。

それでは、野毛の地域を紹介しよう。ここは、大井町線等々力駅が最寄り駅だ。景色を楽しむために、等々力渓谷を経由する。夏でもひんやりとしていて、渓谷という名に恥じないところだ。渓谷の様子をいくつか示そう。多くの人が散歩を楽しんでいる。
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高校3年生の時にテニスで利用したところは、企業の保養所で半分は建物と庭園、半分はテニスコート3面になっていた。テニスコートは住宅に変わっていたものの、残りの部分は日本庭園として活用されていた。
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ここからそれほど遠くないところに、野毛大塚古墳がある。ここは、帆立貝形古墳がある。全長82mで5世紀前半の築造だ。埼玉古墳群に先んじていることが分かる。
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この古墳の模型もあった。
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等々力駅に戻って、東横線多摩川駅で下車して、荏原台古墳群のうちの田園調布の地域を訪ねる。多摩川の堤の上にあり、眺めがよい。人気高い住宅街となっている武蔵小杉を望むことができる。
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この台地にはかつて調布浄水所があったそうで、跡地は次のようになっている。
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しばらく歩くと、亀甲山古墳の案内がある。この地域最大の古墳で4世紀後半から5世紀前半の築造で、全長は107mである。樹木に覆われているため、全容を見ることはできない。
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さらに歩くと、多摩川台古墳群1~8号墓の案内がある。
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それぞれの墓には、場所を示すだけの板が置かれているだけだ。付近を見ても墓らしい様子を知ることはできない。
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しかし、墓とは反対側の田園調布の景色はきれいだ。結婚式を挙げたカトリック田園調布教会も見ることができた。
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さらに歩くと、前方後円墳の宝莱山古墳を右手にし、左の方に曲がると宝莱公園になる。公園を出ると、駅へと繋がる銀杏並木がある。
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さらに進むと、懐かしい駅舎が現れる。
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しかし、この駅舎は駅の業務をしていない。面影だけを残しているモニュメントだ。かつては駅舎の向こう側にはホームがあった。しかし、今は、モニュメントの駅舎を抜けると、本当の駅舎へ向かうための階段が現れる。昔の田園調布の駅前の雰囲気がとても良かったので、その雰囲気を残すために、そのままの姿で残されたのであろう。

歩いたコースの説明が終わったので、荏原台古墳群と埼玉古墳群の関りを説明しよう。

この当時の世界情勢から始めよう。『日本書紀』の継体21年(527)・22年(528)の条には、『筑紫国造磐井』の「叛逆」事件の伝承がある。

この伝承に対して、戦前からこれまで様々な解釈が試みられてきた。今日では、東アジアの国際情勢とのかかわりあいを重視して、「磐井は、この頃、九州の筑紫・火(肥)・豊の諸国に勢力を張り、朝鮮半島高句麗百済新羅諸国と積極的に外交を行い、一つの王国を形成しつつあったことがうかがえる」と見られている(佐藤信)。

当時の日本列島は、「王(キミ)」と呼ばれる地方豪族が存在し、王たちが連合的関係を作り、その中心の王を「大王(オオキミ)」と呼んでいた。大王はのちに天皇になるが、この当時の大王と王の関係は上下関係ではなく、同盟関係に過ぎなかった。

磐井も筑紫君磐井と呼ばれた。君と王とは「キミ」は同音であり、磐井は「王」であった。

磐井の乱と同じように地方豪族との戦いが、同時期に関東にもあったことが伝承されている。これは「武蔵国造の乱」である。『日本書紀』安閑元年(531)閏12月条に記載されているが、そこに、「王」と同音の「君」を用いた、上毛野君小熊が出てくる。大王に対抗できるような王が関東にいたのであろう。『日本書紀』には次のように書かれている。

武蔵国造笠原直使主(オミ)と同族小杵(オギ)と、国造を相争ひて、[使主・小杵、皆名なり。] 年経るに決め難し、小杵、性阻くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて逃げ出づ。京に詣でて状を言す。朝廷臨断めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅す。国造使主、悚憙懐に満ちて、黙已あること能はず。謹みて国家の為に、横渟、橘花、多氷、倉樔、四処の屯倉を置き奉る。

この伝承は、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争ったとき、その加勢を、使主は朝廷(大王)に求め、小杵は上毛野君(王)に求めたというものだ。磐井と同じように、上毛野は大君と争うほどの勢力があったことが分かる。また、横渟は横見郡(埼玉県)と、橘花橘樹郡(川崎市)、多氷は多摩郡(東京都)、倉樔は久良岐郡(横浜市)と比定されている。

滅びてしまった小杵だが、彼はどこに住んでいたのであろうか。二つの説があり、一つは南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)、他の一つは(比企地方の古墳群)である。なお、使主は埼玉古墳群と比定されている。

埼玉古墳群稲荷山古墳からは鉄剣が出土している。辛亥年と銘があり、471年と531年の説があるが、前者の方が有力である。また、銘文の解釈は一つではないが、中央豪族のワカタケル大王(倭王武)からこの地域の豪族ヲタケに下賜されたというのが有力である(大王が中央豪族ではなく関東の豪族という説がある)。もし、これが正しければ、同盟関係から従属関係へと移行していたことをうかがわせる。

鉄剣を下賜されたヲタケと笠原直使主の関係も明らかではないが、何らかの関係があるとすれば、笠原直使主が朝廷を頼ったこともわかりやすい。

さて、小杵が南武蔵の豪族であったとすると、彼らが残した古墳は荏原古墳群であったと思われる。この古墳群は、先に述べたように、田園調布の地域と野毛の地域に分かれる。

まず、田園調布の地域に、4世紀前半には全長97mの宝莱山古墳が、後半から5世紀前半には全長107mの亀甲山古墳が出現する。これらの古墳は前方後円墳である。この後、この地域には6世紀前半まで、古墳は出現しない。

5世紀になると、古墳の位置は野毛の地域に移動し、全長86mの野毛大塚古墳、全長30mの八幡塚古墳、全長57mの御嶽山古墳が出現し、八幡塚古墳は円墳であるが、残り二つは帆立貝形古墳である。

6世紀になると、再び田園調布に戻るが、古墳は小型である。6世紀前半に小型前方後円墳浅間神社古墳、6世紀後半から7世紀中ごろにかけて多摩川台古墳8基(二つは小型前方後円墳、残りは円墳)、6世紀末に前方後円墳と思われる観音塚古墳が出現し、7世紀中・後期には古墳は築造されなくなり、横穴墓となる。

小杵が敗れたのは6世紀の前半であるので、この当時田園調布に築造された古墳が小型になる。この点をとらえて、甘粕健は「武蔵における古墳時代の有力古墳の分布が、前期の武蔵南部から後期には武蔵北部(埼玉古墳群)に移動したことも、「武蔵国造の乱」とかかわりがあると指摘している。

このように遠く離れた二つの地域が、歴史の中でつながりがあったことを知るのは楽しいことである。

全国有数規模の埼玉古墳群を訪れる

弥生時代の遺跡を2か所ほど立て続けに訪問したので、それに続く、古墳時代の遺跡を訪ねることにした。
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この時代の象徴的な墓は前方後円墳である。前方後円墳と言えば、近畿地方と思いがちだがそうではない。全国に広がっていて、関東地方にもたくさん存在する(前方後円墳が一番多い県はなんと千葉県で約720基存在する)。埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群は、全国有数の規模を誇り、10基余りの前方後円墳が集中している。近畿地方には、全長が200mを超えるものが存在する(最大のものは大仙陵古墳で486m)ので、それらには匹敵しないが、ここには100mを超えるものが3基存在する。

10月2日も天気に恵まれたので、電車が空きはじめたころに家を出た。横浜方面から埼玉県へ向けての移動は、新宿湘南ラインができてから、とても便利になった。この日も、渋谷駅まで出た後、そこからは最寄り駅まで一本で行けた。但し、最寄り駅と言っても、古墳群まではかなりある。行田駅から「観光拠点循環コース」を利用すれば古墳群まで運んでくれるのだが、一日7便しか出ていない。どれも都合のよい便ではなかったので、一つ前の吹上駅で降りて路線バスを利用した。
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吹上駅からの路線バスでは、佐野経由を利用するとよい(行先表示変化中にシャッターを押したため、表示が明瞭でない)。
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残念ながら、路線バスは古墳群には行かない。このため、最も近い停留所「産業道路」で降り、そこから15-20分歩かないといけない。産業道路の一つ前の停留所は「佐野団地」。ここまでは、バスは駅からまっすぐに進んでくる。そして、産業道路の停留所の手前で左折する。バスを降りた後、去って行くバスとは反対方向にひたすらまっすぐ歩いていくと、埼玉古墳群に至る。ここは大きな公園になっている。
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全ての古墳を見学するコースは1時間半ほどかかると説明にあった。遠路をはるばるやって来たので、全てを見学することにした。見学した順番ではなく、古墳ができた順に従って説明しよう。

前方後円墳近畿地方では3世紀ごろに始まり6世紀になると規模が小さくなるが、埼玉古墳群はこれとは反対に6世紀に盛んになる。

埼玉古墳群の中で最古の古墳は、稲荷山古墳である。時期は5世紀後半である。全長120mの前方後円墳だ。
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古墳の頂まで登れるようになっているので、上を目指す。
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この古墳からは、後で紹介するが、文字が刻まれそこに金が埋められた鉄剣が出土している。下の写真のように埋葬されていたそうだ。
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二子山古墳は6世紀前半に築造された。全長138mの前方後円墳で、埼玉古墳群の中では最も大きい。古墳の一部が損傷しているということで、修復工事が行われていた。
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丸墓山古墳も6世紀前半に築造された。ここの古墳群の中では唯一の円墳で直径105m、日本最大規模の円墳である。1590年の小田原征伐の時に石田三成忍城攻略のために陣を張った場所としても有名である。また、古墳に沿って半円形に石田堤が掘られている。写真の中で、手前に茶色に帯びたすすきがあるが、そのあたりである。
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瓦塚古墳も6世紀前半の前方後円墳である。資料館のそばにあり、全長は73mである。
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奥の山古墳は6世紀中ごろ、全長70mの前方後円墳である。
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愛宕山古墳は6世紀中ごろに築造され、全長63mで最も小さい前方後円墳である。
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鉄砲山古墳は6世紀後半の前方後円墳で、全長は109mである。二子山、稲荷山古墳に次いで大きい。
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将軍山古墳は6世紀末、全長90mの前方後円墳である。古墳には埴輪が配置され、往時の姿を彷彿とさせている。
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また、「将軍山古墳展示館」があり、古墳の内部に入れるようになっている。石室の側壁には房州石が使われ、千葉県の富津市あたりから運ばれてきたものとみなされている。
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内部には埴輪も展示されている。
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さらに埋葬の様子も分かるようになっている。
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中の山古墳も6世紀末の前方玖円墳で、全長は79mである。
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最後に紹介するのがさきたま遺跡の資料館だ。ここには、国宝がいくつも紹介されている。その中でも、一番貴重なのは稲荷山古墳から出土した、金錯銘鉄剣だ。
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鉄剣の表と裏には金の文字で、鉄剣の由来が書いてある。それによれば、辛亥の年(471年)に、この刀はワカタケル大王(雄略天皇)からヲタケに贈られた。ヲタケの祖先は代々、杖刀人首(じょうとうじんしゅ、親衛隊長)を務めていた。そして、ヲタケはワカタケル大王に仕え、天下を治める補佐をしていたと記されている。これより、ヤマト王権の力が、東国関東にまで及び、この地方の豪族と同盟関係あるいは主従関係にあったことが分かる貴重な資料である。

展示室は、蛍光灯の光が邪魔をして、撮影するには不向きな環境であったが、国宝の大刀、鉄剣、鉄鏃、帯金具、辻金具、鉸具(かこ)、画文帯環状乳神獣鏡、銀環、勾玉などの国宝が整然と展示されていた。
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また、埴輪も展示されていた。
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小春日和に恵まれたこの日、広場では、幼稚園児や小学生たちが、遠足なのだろう、広々とした芝生の上を楽しそうに走り回っていた。弥生時代の子供たちもこのように戯れていたのだろうかと思いを巡らしながら、電車が混まないうちに少し早めに帰宅への途に就いた。

東海地方の人びとが通り抜けた弥生時代の神崎遺跡を訪ねる

弥生時代後期の相模の国(神奈川県西部)の遺跡では、東海地方の特徴を持つ土器が多く発見され、この地方との文化的な交流や人的な移動があったことをうかがわせる。特に、神崎遺跡はその傾向が顕著で、東海地方の人々が、200Kmという海路を渡ってきたと見なされている。しかも、短い期間、居住しただけで、すぐに誰もいなくなっている。

神崎遺跡はこのように珍しい特徴を有しているので、見学して確認したいと思うようになり、11月1日に訪れた。
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この遺跡は、神奈川県の綾瀬市にある。前回訪れた海老名市温故館の南4.5Kmの場所だ。
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相模川支流の目尻川が近くを流れ、相模野台地の上に立地している。下の写真で、左側に遺跡、道の右下を目尻川が流れている。川に沿った沖積地の標高は13m、遺跡の標高は24mである。前回紹介した海老名市の川原口坊中が低地で湿地にあったのに対し、神崎遺跡は台地に位置している。洪水などの自然災害に遭いにくいので、居住場所としてはこちらの方が優れていると言えるだろう。しかし、不思議なことに、後で述べるように、短い期間しか使われなかった。
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神崎遺跡は、東海地方の人々と特別な関係があったことが認められ、2011年に国の史跡に指定された。2016年には資料館が完成し、今年4月より公園が一部公開され、来年の4月には完成する予定になっている。資料館はこじんまりとまとまっていて、1階と2階に展示室があり、1階は綾瀬市の歴史を、2階は神崎遺跡を紹介している。
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公園は、4月の完成に向けて、最後の整備を行っていた。
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資料館の玄関には、この遺跡で発見された土器の中で最も大きな壺が展示されている。
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神崎遺跡の情報を得るために、2階に上がる。床をこたつのようにくりぬいて、その低面に東海地方から移住してきたことを強調する絵が描かれていて、床に張られたガラス面を通して見られるようになっていた。
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2階の展示室は、壁面に説明があり、その前に土器が置かれていた。東海地方からの移住を説明している所の壁面は次のようになっていた。
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その前には、下の写真の土器が飾ってあった。
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壁面の説明によると、東海地方(静岡県西部から愛知県東部)の土器と在地の土器は、模様のつけ方が異なるそうだ。東海地方の土器は竹串でこすって模様をつけていた(櫛描文)。これに対し、関東地方では、拠り紐を転がすことで模様をつけていた(縄文)。出土土器の95%は東海地方の特徴を持っていたので、在地の人が作ったのではなく、東海地方の人が作ったとされ、また、使用されている粘土が在地のものであることから、東海地方の技術で、この地で製造されたと見なされている。さらに、住居も縦長型の関東地方とは異なり、横長型の東海地方の形をしていることも東海地方の人が移住してきたことを裏付けている。

東海地方の人が相模の地に移住した理由は、この時期(2世紀)は、西の方では戦いが多かったので、(それから逃れるために)集団で移住してきたのだろうと説明されている。

また、神崎遺跡は、この人々が集落を作る前までは無人であった。また、家の建て替えも1回ぐらいしか行われていないので、移住後あまり年月を経ないうちに、人々はいなくなった。突然、遠い地域から現れ、あっという間にいなくなってしまった。なぜ、この地を選んで、そして、捨てたのだろう。色々なことが考えられてミステリーに富んだ遺跡である。

一回り2階の展示室を見た後、工事中の公園を見学した。今度の連休に環濠を発掘する様子を公開するということで、その準備がなされていた。
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また、新築の竪穴式住居も見学者の訪問を待っていた。
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この地で生活した人々は、素晴らしい景色の中で生活したのだろうと羨ましく思った。できれば、このような牧歌的なところで一度は暮らしてみたいと思いながらこの地を後にした。
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海老名市温故館に「弥生時代のムラ」を見に行く

台風一過のこの日(10月30日)、恵まれた天気の中、神奈川県海老名市の温故館を訪れた。

温故館の建物は、大正17年に海老名村役場庁舎として建てられたものを、相模国分寺跡後に移築されたものだ(移築は平成22年に始まり完成したのは翌年)。木造建築で、窓枠の濃い緑色と、壁面の白色のコントラストが鮮やかな洋館だ。
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ここで、「大山を望む弥生のムラー河原口坊中遺跡展」が開催されていたので、相模川沿いの弥生遺跡を知りたくて訪問した。

海老名市は神奈川県の中央部に位置する。この地域は、圏央道、新東名などの大型土木工事が盛んにおこなわれたために、数多くの遺跡が発見されている。河原口坊中遺跡もその一つで、圏央道の建設に伴って調査されたもので、弥生時代前期から古墳時代まで続く期間の長い遺跡である。
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上図に示すように、相模川に沿った場所に立地し、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点にある(二つの川はこの図では、右側にある細い二つの川である)。海老名市のホームページには、下図の海老名市の地形分類図が掲載されている(元図は小中学生の副読本『海老名の大地』)。
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海老名市は、西側に相模川が流れ、川に沿って黄色で示されている自然堤防がある、その後背地は湿地となっている。ここまでが低地で、その後ろには、相模野台地が広がっている。緑色の部分がそれにあたる。さらに一段と高くなった場所に丘陵がある。この間の段差は10mを越えている。河原口坊中遺跡は自然堤防あるいは後背湿地の場所にある。

後背湿地の部分は戦前までは沼地で、一歩足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでいくようなところで、この場所で水田作業をする人は大きな田下駄をはいたそうだ(温故館の2階に田下駄が展示されている)。

河原口坊中遺跡が湿地に立地したおかげで、この当時使用された道具が水を含んだ土に閉じ込められ、空気に触れない環境にあったため、今日まで原形をとどめて保存されていた。このため、この遺跡展では当時使われた木工具が中心となっていた。そのうちのいくつかを紹介しよう。最初は、米を利用していたことを示す臼と杵である。

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農耕具の一つ、土をならすために利用したであろうエブリ。
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水田作業の時に、沈み込むのを避けるために利用したであろう田下駄。
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木製品の高坏。
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高床式住居の上り下りに使われたであろうはしご。
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発掘したときは肌色に近い色をしてたが、空気に触れたために黒くなってしまった編みかご。
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今回の展示の主役は板状鉄斧である。これと同じようなものは朝鮮半島南部で多く見られ、日本列島では西日本に限られているため、貴重品である。空気に触れることがなかったため、錆びずに保存されていた。
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また、小銅鐸も展示されている。神奈川県では3つしか発見されていない。西日本では大きな銅鐸は墓の副葬品として用いられるが、この銅鐸は竪穴住居跡から発見されたとのこと。日常生活の中で使っていたのであろう。
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土器も展示されていた(下図は主に弥生時代後期のもの)。
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神奈川県の土器形式は図に示すように変化している(展示用のパンフレットの弥生時代の神奈川県域の編年表によっている)。
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弥生は、水田稲作が始まった時代である。神奈川県で最初に水田稲作が始まったのは、足柄上郡大井町にある中屋敷遺跡である。水田の跡は見つかっていないものの、炭化米が見つかっており、AMS法による放射性炭素年代測定では紀元前5世紀~4世紀のものであった。このときは弥生時代前期後半に属す。

東日本で最初の大規模な水田稲作が始まった集落は、小田原市足柄平野にある中里遺跡である。この遺跡は、弥生時代中期中葉のもので、水田跡や方形周溝墓(弥生時代の特徴的な墓)が発見されている。また、在地の中里式の土器に混ざって、東部瀬戸内地方の土器が3%含まれている。その他にも伊勢湾、中部高地、北陸地方、北関東地方、南東北地方の土器が発見されている。これらの土器は、在地の粘土と異なることから外から持ち込まれたと見なされ、これらの地域との交流あるいは人の動きがあったともみなされている。

河原口坊中遺跡では、後期になると、東海、中部高地、東京湾地域の土器が多く見られるようになり、その後、時を経るにしたがって在地化していく。このため、後期の時代に外部の人たちとの交流があったと見なせる。さらに進んで、遺跡が一時途絶えているので、外部から人々が移住してきたとも考えられる。

この遺跡で面白いのは、魚を追い込むためのしがらみ状遺構があることだ。食料を得るために、いろいろな工夫をしたことと思う。
また、環状石器もたくさん発見されている。環状石器の穴に棒を通せば、「はじめ人間ギャートルズ」が持っていた武器を想像させてくれる。
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展示の方はこれくらいにして、国分寺跡を見学した。温故館には国分寺の模型がある。
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相模国分寺の伽藍配置は法隆寺のそれと同じである。多くの国分寺東大寺の伽藍配置(大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、両翼に塔)とは異なり、金堂と塔が左右に並んでいる。この配置を取るのは他に上総国分寺だけだ。温故館を出ると目の前は、国分寺跡である。ここは台地の上にあるので、河原口坊中遺跡のように水に悩まされることはない。塔の跡では幼稚園児たちが遊んでいた。
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広々とした公園になっていて、子供たちを遊ばせるのにちょうどいい。
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当日はお客さんも我々だけで、説明員の方から丁寧な説明を受けて、楽しむことができた。子供の頃には、温故館のような大正時代の洋風な建物を、小学校や図書館など公立の建造物で多く見かけた。老朽化に伴ってこれらは建て替えられてしまったのであろう。今ではあまり見かけることができなくなってしまった。温故館のように保存されていると、子供の頃の懐かしい思い出がよみがえってくるので、是非、これからも長く保存して欲しいと願いつつ、帰路についた。

日の名残り―The remains of the day

今日、紹介する映画は、『日の名残り』(The Remains of the day)だ。今年度のノーベル文学賞に輝いたカズオ・イシグロの同名の小説を映画化したものだ。1993年の作品で、アカデミー賞の8部門にノミネートされたが、残念ながら、受賞には至らなかった。ちなみに、この年の作品賞には『シンドラーのリスト』が選ばれた。小説としての『日の名残り』は、1989年に発表され、同年にブッカー賞を受賞している。

ストイックともいえるほどに職務に忠実な執事の日常生活を淡々と描いた作品で、アンソニー・ホプキンズがその役を演ずる。

古いタイプの人間を描いたと言えばそれまでなのだろうが、新しく雇った女中頭のケントン(エマ・トンプソンが演じる)に淡い恋心を抱きながらも、ケントンが誘い掛けてくる言葉にも、執事としての対応しかできない、不器用な初老の執事スティーブンスの物語である。

日本には「道」というのがある。武士道、茶道、華道などだ。一つのことを究めようとする精進がそれぞれで問われる。ホプキンズが演じる執事も、執事としての道に精進しているのであろう。昨年、一流大学を卒業し、有名な航空会社で実績を上げていたにもかかわらず、禅僧となった方に、鎌倉の円覚寺を案内してもらう機会があった。境内を案内してくれる道すがら、なぜお坊さんになったのか、僧になるための修業はどのようなものだったのかを語ってくれた。禅の道を究めようとする姿が、執事の姿と重なった瞬間、この映画がさらに好きになった。

作品の内容については映画の方を見て欲しいが、好意に感謝しながらも、それを素直に表現できない無骨さが表れている部分を紹介しよう。

ティーブンスが執事をしている貴族の館でキツネ狩りをする場面がある。
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このとき、女中頭として働くことになるケントンは、面接試験を受けに来る。
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無事面接に合格したケントンは仕事を始める。スティーブンスの殺風景な個室を明るくしようと考えて、庭先の綺麗な花を摘む。
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そして、執務室を訪れ、花を飾りながら、次のように言う。
"I thought these might brighten your parlour."
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現在のことを言っているのに、過去形が使われている。高校時代に習った「仮定法過去」という文法の用語を思い出す人もいるだろう。

日本でも、ファーストフード店などに行くと過去形で応対されることがある。慣れていないと面食らってしまう。先日も、オーダーが済んだ後の確認で、「ご注文は以上でよろしかったですか」と言われた。

丁寧さを表すために過去形を用いている。日本語には丁寧語、謙譲語、尊敬語が備わっているので、お客さんとの対応にはこれらの言葉を使えばよい。しかし、ファーストフード店のように仕事を定型化したいところでは、状況に合わせての対応を嫌う。そこで、マニュアル化するために、何とも不思議な言い回しが生まれたのだろう。

英語では、可能性が含まれるような状況を述べるときは、ファーストフード店のような言い回しが普通だ。ケントンがスティーブンスに向かって、「この花が部屋を明るくしてくれますよ。」というのは、あまりにもフランクすぎる。時代は戦前のイギリスで、場面は貴族の館であれば、かつての日本語ではないが、状況に応じた適切な表現が要求される。

mightにはいくつかの使い方があるので、Collinsの"English Grammar"で確認した。4章の「ありそうなことを示唆する」という項目の中の4.137に、可能性として使われる'could','might','may'というのがある。これらの単語は「あることが生じる可能性があるときに」用いると説明がある。例文には、
They might be able to remember what he said.
というのがある。

これらを踏まえると、上の訳は
「お花が執務室を明るくしてくれたらと思ってお持ちしました。」
でどうだろうか。

ケントンの思いがけない行為に面食らって、スティーブンスは次のように言う。
"Beg your pardon?"
この言い回しも、思い出の深い言い回しだ。留学して初めてホームステイをした時、アメリカ人の夫婦の会話の中でしょっちゅう"I beg your pardon."というのを聞いた。日本だと相手の言っていることを聞き直すのは失礼だと考えて、少し前にはやった「忖度をして」、行動しがちだが、彼らは、意味を取り違えないように頻繁に確認を取っていたのがとても印象的だった。

ここは、
「何て言われましたか?」
だろうか。

ケントンは少し表現を変えて、温かみを持たせて次のように言う。
"They might cheer things up for you."
「お花が、周りのものを生き生きとさせてくれ、あなたも明るく仕事ができるのではと思いまして。」

ティーブンスはありきたりな表現で、
"That's very kind of you."
「ご親切に、どうもありがとう。」

ケントンは、スティーブンスの意図を解さないのか、提案を示す"If you like"と"could"(Collins 4.187)を用いて
"If you like, I could bring in some more for you."
「よろしければ、もっとお持ちします。」

ティーブンスは自分のプライベートな生活に入り込まれることを嫌って、
"Thank you, but I regard this room as my private place of work and I prefer to keep distractions to a minimum."
「そのように気を使って下さってありがとう。しかし、この執務室は仕事をするための私の個人的な場所なので、気を紛らわすようなことは最小限にしたいと心がけていますので。」

ケントンは思いがけないことを言われたので、少し攻撃的になって、丁寧を表す"would"を使うが内容は強い表現で、
"Would you call flowers a distraction, then?"
「この花が気晴らしだというの。」

ティーブンスは、いなして、
"I appreciate your kindness. I prefer to keep things as they are."
「あなたのご親切には感謝しています。でも、このままの方がいいのです。」

この後、スティーブンスは父親の呼び方について注意する。ケントンは再びカチンとくる。その場面の表現も面白いので、映画で確認してください。

プログラマーのための圏論(下)

プログラマのための圏論』は(上・中)の後の部分をまとめ(下)にしてPDFファイルにしました。参考にしてください。なお、(上)のホームページはこちら
(中)のホームページはこちら

モナドの応用

最後に

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン教授が一般読者向けに著述した『ファスト&スロー』を読んだ。本のタイトルからは内容はつかみにくい。副題は「あなたの意志はどのように決まるか?」となっているので、脳科学の本かなと思い違いしてしまいそうだ。英語でのタイトルは、”Thinking, Fast and Slow”となっているので、彼の研究内容をある程度知っている人でない限り、タイトルから内容を読み取ることはやはり難しい。
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先週はノーベル賞が発表される時期であったため、カーネマン教授の名前を思い出した人も多いことと思う。特に、今年(2017年)のノーベル経済学者はリチャード・セイラー教授だったので、その関連でカーネマン教授を思い出した人は多いだろう。二人とも行動経済学に大きな貢献をしたことでノーベル賞を受賞している。伝統的な経済学は、経済活動をする人たちが経済合理性を備えているということを前提に、理論を構築していた。これに対し、カーネマン、セイラー両教授とも、人間は合理的にふるまうことはまれで、様々なバイアスがかかって行動することを前提に、新しい経済学の理論を構築した。

経済学賞のため、カーネマン教授は生粋の経済学者だと思いがちだがそうではない。カリフォルニア大学バークレー校で1961年に心理学の博士号を取得し、その後、同大学やプリンストン大学で心理学の教授となっている。心理学と経済学を融合し、独自のプロスペクト理論を確立して、人間の経済的行動を説明し、ノーベル賞を受賞するに至っている。

『ファスト&スロー』では、二つの架空のキャラクター、二つの人種、二つの自己を用いて、一人の人間がどのように意思を決定するかを説明している。一つのものが二つの性格を持つということは、圏論の「モナドだ」に相当するものだと思って、この本を読んでいくととても面白い。

『ファスト&スロー』の結論の部分に、それぞれの性格が記述されているので引用してみよう。「二つのキャラクターとは、早い思考をする直感的なシステム1と遅い思考をする熟考型のシステム2であるシステム2はシステム1の監視を引き受け、限られたリソースの中でできる限りの制御を行う。二つの人種とは、理論の世界に住む架空の人種エコンと、現実の世界で行動するヒューマンである。二つの自己とは、現実を生きる「経験する自己」と、記憶を取り選択する「記憶する自己」である」と言っている。

システム1と2は、「XXが自動的に起きた」ということを「システム1がXXした」と、「興奮度が高まり、同行が開き、注意力が集中してXXが行われた」ということを「システム2が呼び出してXXが行われた」と言うように、分かりやすく説明するために使われた架空のものである。将棋の藤井4段が、複数人のアマを相手に将棋を指しているときは、システム1を用いてヒューリスティックに駒を置いている。それに対して、トップ棋士と対戦しているときは、システム2を用いて、アルゴリズムをフルに機能させて、勝利へ導く手順を探している。

二つの人種では、エコンは経済合理性に従って行動する自分である。それに対して、現在置かれている環境に影響されて、経済合理性には適わない行動をとるのがヒューマンである。例えば、大きな負債を抱えているときに、それを取り返すために起死回生を狙って大博打をし、結局、損をするのがヒューマンである。

ロマンスの破局は、振る側と振られる側に分かれる。どちらもわかれという面では変わらないのに、精神的なダメージは振られる側が大きい。「逃がした魚は大きい」という喩えもあるがこれも同じようなものだ。もし、ロマンスの期間を細分して、それぞれの時点での幸福度を記憶していたとすれば、振った側も振られた側もそれほど変わらないだろう。しかし、このようなことは忘れてしまい、破局の瞬間だけが記憶に残るようだとすると、振った側と振られた側の衝撃には大きな差がある。「終わりよければ全てよし」という諺があるが、これも同じようなことを伝えている。

モナドとこれらの関係を図で示すと図のようになる。
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モナドの世界では、\(A\)の世界を純粋な世界と解釈し、\(M(A\)の世界を現実の世界と見なした。これをカーネマン教授のモデルと対応させると、純粋な世界\(A\)はシステム2、エコン、記憶する自己に相当し、現実の世界\(M(A)\)はシステム1、ヒューマン、経験する自己に相当する。とても理にかなった対応で面白いと思う。このように、全く関係なかったと思われる世界がつながるとき、とても嬉しくなる。

圏論Haskellも奥の深い学問分野である。圏論だけで理解することも難しいし、Haskellだけで理解することも難しい。しかし、両方を一緒に勉強することで、理論と実践の両面を同時に見ることができるようになる。これによって、両方の分野をより正確に知ることができる。このブログでは、図やプログラムをたくさん掲載し、可視的に、具体的に理解できるように試みた。

今回の記事で、「プログラマのための圏論」はひとまず終了である。お付き合いいただきありがとうございました。

モノイドーモノイド圏での記述

13.4 モノイド圏での記述

前回の記事で、二項演算を表すための小さい圏の圏(category of small categories)を次のように表した。
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この図において、\(f,g\)や\(M(f),M(g)\)などは小さい圏の圏の構成要素には含まれていないので、これを省略することにしよう。
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顔がない間延びした図で、少し恐ろしさを感じるが、ここまで来ると、それぞれを構成していた具体的な要素が消失し、抽象化がかなり進んだと認識できるだろう。アセンブラ言語での記述から高級言語への記述へと変化した瞬間を感じ取ることができる。

それではこの図を用いて二項演算、即ち、モノイドを定義してみよう。

二項演算は、同じ対象から二つの値を得て、その間で演算を施し、やはり同一の対象に属す値を結果として返す。これは、圏論では双関手によって表すことができる。このクラスはHaskellでは次のように定義されている。

class Bifunctor p where
  bimap :: (a -> b) -> (c -> d) -> p a c -> p b d

上の定義で、二項演算子を\(\otimes\)と表すならば、\(p\)は\((\otimes)\)と書き直してもよい(二項演算子の中で最も汎用的な演算子テンソル積であり、テンソル積は( \( \otimes \) )と表される。ここでは、最も汎用性のある演算子を表しているという意味で( \( \otimes \) )を用いた)。

そこで、\(bimap\)の対象を自己関手で置き換えと、次のように表すことができる。
\(bimap :: (F \rightarrow F') \rightarrow (G \rightarrow G') \rightarrow (G \circ F \rightarrow F' \circ G') \)
上の定義で、\((F \rightarrow F'),(G \rightarrow G'),(G \circ F \rightarrow F' \circ G') \)は自然変換で、\(\circ\)は関手の合成で、\(\otimes\)と見なせるものである。上の式を可換図式で表すと、以下のようになる。
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ところで、モノイドの定義はHaskellでは次のようになっていた。

class Monoid m where
  mu :: m -> m ->  m
  eta :: () -> m

これを、\(m\)と\( () \)を小さい圏の圏で用いた自己関手\(M\)と恒等な自己関手\(I\)とし、二項演算子\(\otimes\)を用いて、図で表すと下記のようになる。
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これをまとめて一つの可換図式で示すと下記のようになる。
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モノイド圏を説明するための準備が整ったが、ここでは、Haskellのプログラムで具体的な例を見て、モノイド圏を定義するための準備をしよう。

13.5 Haskellで記述する

はじめに、前回の記事で説明した小さい圏の圏をHaskellで用意しよう。

ここで作るプログラムは、乗算を演算子として持つモノイドである。

\(\mathcal{A}\)を\(n\)とし、\(M(\mathcal{A})\)を\(Product \ n\)とした時に、\(new type\)を用いて\(Product \ n\)を用意しよう。

newtype Product n = Product n deriving (Eq, Ord, Read, Show)

\(Product\)は\(n\)から\(Product \ n\)を導き出す関手である(小さい圏の圏を説明したときの\(M\)に相当)。そこで、これを\(Functor\)のインスタンスとして定義する。さらに\(Product (Product \ n)=Product \ n\)を満たすので、これを\(join\)という関数で定義しておこう。

instance Functor Product where
  fmap f (Product x) = Product (f x)
  
join (Product (Product x)) = Product x

さて、次に小さい圏の圏を作る作業に移ろう。この圏では射を関手としていたので、これを表すようなデータ型を用意しよう。その名前を\(Pfunctor \ x \ y\)とする。ここで、\(Pfunctor\)は、\(x\)を入力、\(y\)を出力とする関数である。また、この関数からの出力を得られるように\(run Pfunctor\)を用意しておこう。

newtype Pfunctor x y = Pfunctor {runPfunctor :: x -> Product y}

また、小さい圏の圏のクラスは次のように定義する。ここでは、恒等射と合成の関数を定義することにする。

class Category cat where
  id :: cat a a
  (.) :: cat b c -> cat a b -> cat a c

\(Pfunctor\)を小さい圏の圏のインスタンスにしよう。

instance Category Pfunctor where
  id = Pfunctor (\x -> Product x)
  (Pfunctor f) . (Pfunctor g) = Pfunctor $ join Prelude.. fmap f Prelude.. g

それでは、\(Pfunctor\)をクラス\(Monoid\)のインスタンスとして定義しよう。
HaskellのPreludeでは、\(Monoid\)は\(mempty,mappend\)を用いて定義されているが、ここでは前々回の記事で紹介したように、 \eta,\(\mu\)を用いることにしよう。

class Monoid' m where
  mu :: m -> m ->  m
  eta :: () -> m

instance Monoid' (Pfunctor x x) where
  eta () = Pfunctor (\x -> Product x)
  mu f g = Pfunctor (\x -> runPfunctor (f Pfunctor.. g) x) 

上のインスタンスの定義の中で、関手\(f,g\)は、\(f=g\)であり、\(f \circ f=f\) を満たさなければならない。

そこで、\(mu\)を直接使うのではなく、同一の関手を使うようにするため、次の\(mu'\)を用意する。

mu' f =  mu f f

また、\(f \circ f=f\)であることを確認するために、\(f \circ f\)と\(f\)で同じ値が得られるかをチェックし、同じであれば出力し、違っていれば出力しないようにしよう。そのために次の関数\(getResult\)を用意する。

getResult f (x,y)
  | a == b = Just a
  | otherwise = Nothing
  where
    a = runPfunctor (mu' f) (x*y)
    b = runPfunctor f (x*y)

\(n\)で割った時の剰余と、絶対値を出力する関手\(modular,abosolute\)を次のように用意しよう。これは、\(f \circ f = f\)の条件を満たしている。

modular :: (Integral y) => y -> Pfunctor y y
modular n = Pfunctor (\x -> Product (mod x n))

absolute :: Pfunctor Integer Integer
absolute = Pfunctor (\x -> Product (abs x))

それではこれを用いて、二つの数\(x,y\)を入力し、\(F x \otimes F y\)を求めてみよう。

*Pfunctor> getResult (modular 5) (34, 67)
Just (Product 3)
*Pfunctor> getResult absolute (12, (-9))
Just (Product 108)

最初の実行例は、入力34,67の5の剰余を求め、その乗算を行うものだ。34の剰余は4であり、67の剰余は2である。従って、4と2の乗算結果は8であるが、これも5の剰余での乗算を行うので、結果は\(Product \ 3\)である。正しい答えであることが分かる。

13.6 モノイドを圏にする

それでは、これまで説明してきたモノイドを圏の形でまとめてみよう。この圏は自己関手を対象とし、自然変換を射としているので、次のように定義できる。
1) 対象:関手の集まり\(\{M,I\}\)
2) 射:自然変換\(\mu\)
3) ドメイン・コドメイン
4) 恒等射:自然変換 \eta
5) 合成:\(\circ\)

この圏が結合律、単位律を満たしていることを可換図式で確認してみよう。ここでは、\(M \circ M\)を\(M^2\)で表す。
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ここまでの説明はモノイドの基本的な骨格を元に圏を定義したが、一般にモノイド圏はテンソル積を用いて次のように定義されている。

モノイド圏(\( \mathcal{C}, \otimes, I, α, λ, ρ \))とは、圏 \(\mathcal{C} \)が次の条件を備えているときである。
1) テンソル積と呼ばれる双関手\(\otimes : \mathcal{C} \times \mathcal{C} \rightarrow \mathcal{C} \)
2) モノイド単位(あるいは単位対象)\(I\)
3) 結合律:\(α_{A,B,C}: (A \otimes B) \otimes C \cong A \otimes (B \otimes C)\) (ただし、\(α\)は自然同型)
4) 右単位律:\(λ_A : I \otimes A \cong A \), 左単位律:\(ρ_A : A \otimes I \cong A \) (ただし、\(λ, ρ\)は自然同型)

そして、モノイド対象( \( M,μ,η\))とはモノイド圏(\( \mathcal{C}, \otimes, I, α, λ, ρ \))が与えられたときのその対象である。そしてそれぞれの対象は、\(\mathcal{C}\)の対象\(M\)および二つの射(\(μ : M \otimes M \rightarrow M, η: I \rightarrow M \))を有し、上記の可換図式を満たすものとする。

従って、ここで説明してきたものは、合成\(\circ\) をテンソル積\(\otimes\) で置き換えれば、モノイド対象となる。

13.7 モナドはモノイド?

この圏の定義も、結合律、単位律の可換図式もどこかで見たことはないだろうか。そう、\(M\)を\(T\)で置き換えれば、モナドを説明した記事と同じものだ。このことから次のことがいえる。

モナドは、自己関手の小さい圏の圏で記述されたモノイドと同じ」と言える。

これは重要な定理である。

最後に用いたプログラムのリストをつけておこう。

instance Functor Product where
  fmap f (Product x) = Product (f x)
  
join (Product (Product x)) = Product x

newtype Pfunctor x y = Pfunctor {runPfunctor :: x -> Product y}

class Category cat where
  id :: cat a a
  (.) :: cat b c -> cat a b -> cat a c

instance Category Pfunctor where
  id = Pfunctor (\x -> Product x)
  (Pfunctor f) . (Pfunctor g) = Pfunctor $ join Prelude.. fmap f Prelude.. g

otimes :: (Num n) => (Pfunctor a n, Pfunctor a n) -> (a, a) -> Product n
otimes (Pfunctor f, Pfunctor g) (x, y) = Product c 
  where 
    Product a = runPfunctor (Pfunctor f) x
    Product b = runPfunctor (Pfunctor g) y
    c = a * b

class Bifunctor p where
  bimap :: (a -> b) -> (c -> d) -> (p a c -> p b d)

class Monoid m where
  mu :: m -> m ->  m
  eta :: () -> m

instance Pfunctor.Monoid (Pfunctor x x) where
  eta () = Pfunctor (\x -> Product x)
  mu f g = Pfunctor (\x -> runPfunctor (f Pfunctor.. g) x) 
  
mu' :: Pfunctor n n -> Pfunctor n n
mu' f = mu f f

getResult f (x,y)
  | a == b = Just a
  | otherwise = Nothing
  where
    a = runPfunctor (mu' f) (x*y)
    b = runPfunctor f (x*y)

modular :: (Integral y) => y -> Pfunctor y y
modular n = Pfunctor (\x -> Product (mod x n))

absolute :: Pfunctor Integer Integer
absolute = Pfunctor (\x -> Product (abs x))

モノイドー小さい圏の圏での記述

13.3 小さい圏の圏での記述

これまで、算数で最初に学んだ加算・乗算に代表されるモノイドと呼ばれる二項演算を、圏論でどのように記述したらよいのかについて話を進めてきた。即ち、アセンブラ言語でのように処理を具体的に記述するのではなく、高級言語でのように物事がどのように成り立っているかを構成的に記述しようと試みてきた。これは、モノイドのそれぞれについて具体的に個別に記述を進めるのではなく、モノイドと呼ばれるものが有している性格を抽象的に汎用的に進めようとするアプローチである。前者が技法的なアプローチであるのに対して、後者は科学的なアプローチでもある。

構成を記述する圏論では、構成図を利用することで可視的に計算の概念を示すことができる。モノイドがどのように構成されているのかについて説明するときも、式を展開していくよりは、構成図がどのように変化していくかを示すことで、書き手にとっても、読み手にとても、理解しやすくなる。そこで、ここでは、構成図をうまく利用して、分かりやすい形で求めてみよう。

集合から射へ

前回の記事で、モノイドの例を一つ紹介した。下図での左側がそれである。

f:id:bitterharvest:20171005093645p:plain

ここでは、代数学での記述法に従って、集合\(S=\{0,1,2-\sqrt{3},2+\sqrt{3}\}\)、単位元1、二項演算子\(*\)と表されているものを、圏論での記述に従って、左側の構成図で表した。この図は圏の構成を満たしている。即ち、
1)対象が星
2)射が\(\{0,1,2-\sqrt{3},2+\sqrt{3}\}\)
3)ドメインとコドメインが星
4)恒等射が1
5)合成が\(\times\)
である。また、単位律、結合律は満たされている。

上図の右側は、対象がモノイドであることを、明確にしたものである。数としての\(0,1,2-\sqrt{3},2+\sqrt{3}\)は加減乗除を始めとする様々な二項演算に使われる。そこで、これらが、乗算で用いられることを明確にするために、\(Product\)と呼ばれるコンテナを付与した。右側も、左側と同様に圏であることに注意しよう。このため、圏\(\mathcal{A}\)と圏\(\mathcal{B}\)は関手\(Product:\mathcal{A} \rightarrow \mathcal{B}\)によって結ばれていると見ることができる。

集合の構成要素を一般化して、上図を少しだけ抽象化すると下図を得る。何となく圏論らしくなってきたのが分かるだろう。
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右側の圏は、
1)対象が星
2)射が\(\{M(f),M(g),...\}\)
3)ドメインとコドメインが星
4)恒等射が\(id_B=M(id_A)\)
5)合成が\(\circ\)
である。また、単位律、結合律は満たしている。

ここまでの変換で、代数学で集合として表されていたものが、圏では射の集合として表されていることが分かる。でも、集合であることには変わりはない。

小さい圏の圏へ

一般に、小さい圏を対象とし、圏と圏を結ぶ関手を射とする圏を小さい圏の圏(category of small categories)という。もちろん、恒等射と合成を有し、単位律、結合律は満たさなければならない。なお、小さい圏とは、対象と射の集まりがそれぞれ集合となるときを言う。

下図は、
1) 対象:圏の集まり\(\{\mathcal{A},\mathcal{B},\mathcal{C}\}\)
2) 射:関手の集まり\(\{F,G,H\}\)
3) ドメイン・コドメイン:\(\{F :: A \rightarrow B, G :: B \rightarrow C, H :: A \rightarrow C \}\)
4) 恒等射:\(I_A,I_B,I_C\)
5) 合成:\(\circ \)
である。
f:id:bitterharvest:20190527112518p:plain

それでは、二つ前の図を小さい圏の圏\(\mathcal{Cal}\)にしてみよう。恒等射の部分を除くと下図のようになる。
f:id:bitterharvest:20190527112553p:plain
さらに、この小さい圏の圏\(\mathcal{Cal}\)において、\(\mathcal{B}\)から同じように関手\(M\)で\(M(\mathcal{B})\)に接続しよう。
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これをさらに行うと、小さい圏の圏は無限に関手\(M\)で結合された圏となる。ところで、元に立ち戻って、\(Product\)で考えると、これは\(x\)を乗算ができる世界へと持ち込んだ。これが、\(Product(x)\)である。これをもう一度乗算ができる世界へ持ち込むと\(Product (Product (x))\)となるが、元々、乗算ができる世界に存在しているので、\(Product (Product (x))=Product(x)\)となる。

そこで、\(Product\)を一般化し、二項演算を行えるようにする関手を\(M\)としたとき、\(M(M(\mathcal{A})) = M(\mathcal{A})\)となる。このため、下図のように表すことができる。
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視点を変えるために、\(M\)を外に出るように書いた。このように記述すると、\(M\)は圏\(\mathbf{Cat}\)から\(\mathbf{Cat}\)への関手に見えないだろうか。\(M::A \rightarrow B, B \rightarrow B \)であるので、このような見方は可能である。これは、ある圏から同一の圏への関手であるため、自己関手と呼ばれる。

それでは、この図に、恒等関手\(I\)を追加しよう。
f:id:bitterharvest:20190527112642p:plain
ここで、\(\forall x \in A \cup B, I:: x \rightarrow x\)である。

それでは、二項演算\(M\)のために用意した小さい圏の圏をまとめておこう。
1) 対象:圏の集まり\(\{\mathcal{A},\mathcal{B}\}\)
2) 射:関手の集まり\(\{M\}\)
3) ドメイン・コドメイン:\(M :: A \rightarrow B, B \rightarrow B\)。
4) 恒等射:\(I\)
5) 合成:\(\circ \)
もちろん、単位律、結合律は満足しなければならないが、この他に、二項演算が成り立つようにしなければならない。これについては次の記事で述べる。

モノイドー代数学から圏論へ

13.2 代数学から圏論

モノイドになれたところで、モノイドを代数学での定義から始めて圏論での定義へと段々に抽象化してみよう。丁度、プログラミングで、アセンブリ言語での記述から高級言語での記述に変えていくことに相当する。

1) 代数学での定義

代数学では、モノイドは単位元のある半群と定義される。半群が分からないとこの定義は何だかわからないが、次のように定義しなおすことができる。

[代数学でのモノイドの定義]

モノイドは次の二つの条件を満たすものである。なお、最初の条件を満たすものを半群という。

1) 集合を\(S\)とし、そのうえで定義されている二項演算子を\(\times\)とする。このとき、集合\(S\)の任意の元を\(x,y\)とした時、\(z=x \times y\)となる元\(z \in S\)が存在し、また、任意の元\(x',y',z' \in S\)に対して、結合律\((x'\times y') \times z'=x' \times (y' \times z')\)が成り立つ。

2) 単位元\(e \in S\)を有し、任意の元\(x \in S\)に対して単位律\(e \times x = x = x \times e\)が成り立つ。

[モノイドの例]

それでは、モノイドの例を挙げてみよう。

集合を\(S = \{1, 0, 2+\sqrt{3}, 2-\sqrt{3}\}\)とし、二項演算子を乗算とすると、この集合は1を単位元とするモノイドである。

数学で集合を用いることは、プログラミングでアセンブリ言語を用いることに相当する。ここから逃げ出したい。

2) 構成図での定義

圏論を学び始めると、モノイドの構成図が出てくる。最初は戸惑うのだが、集合の要素を射とし、二項演算子を射の合成としたものである。上の例は次のように表される。
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これも、射の集合(Hom-Set)なので、やはり、集合から抜け出たい気分だ。

3) デカルト積での定義

デカルト積は二つの集合\(A,B\)のそれぞれから任意の元\(a \in A,b \in B\)を取り出す。\(a, b\)を元とする新たな集合\(A \times B\)を作り出す。即ち、

\begin{eqnarray}
A \times B = \{(a,b) | a \in A \land b \in B\}
\end{eqnarray}
である。

デカルト積を用いて、モノイドを定義しよう。ここでは、新たに、\(\mu\)と \etaという関数を用いて定義し、少し抽象度を上げる。

[デカルト積を用いての定義]

1) 二項演算:任意の\( (x, y) \in S \times S\)に対して\(\mu (x,y) = z\)となるような\(z \in S\)が存在する。
2) 単位元:シングルトン集合(要素のない集合)\(\ () \)に対して \eta()=eとなる。なお、\(e\)は\(S\)での単位元である。

結合律:任意の元\( (x, y, z) \in S \times S\)に対して、\(\mu(\mu(x,y),z)=\mu(x, \mu(y,z))\)が成り立つ。
単位律:任意の元\(x \in S\)に対して\(e \times x = x = x \times e\)が成り立つ。

結合律に対して、可換図式を示すと以下のようになる。
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上の図で、\((S \times S) \times S\)と\(S \times (S \times S)\)とが同値である時を強い結合律を満たすと言い、同型である時を弱い結合律を満たすという。従って、少なくとも、弱い結合律を満足するためには
\begin{eqnarray}
\alpha :: (S \times S) \times S \rightarrow S \times (S, S) \\
\alpha ( (x,y), z) = (x, (y,z) )
\end{eqnarray}
を満たさなければならない。

また、単位律に対しては、次のことを満たさなければならない。
\begin{eqnarray}
\lambda :: () \times S \rightarrow S \\
\lambda (\_, x) = x
\end{eqnarray}

\begin{eqnarray}
\rho :: S \times () \rightarrow S \\
\rho (x, \_) = x
\end{eqnarray}

それでは、この定義を実際にHaskellで実装してみよう。上記の定義を満たすようなクラスを\(Cartesian\)と名付け、次のように定義する。

class Cartesian m where
  mu :: (m, m) -> m
  eta :: () -> m

文字列

次に、文字列の集合を上記での\(S\)と考えて、クラス\(Cartesian\)のインスタンスを作ろう。文字列はHaskellでは\([a]\)と表すことができ、また、二項演算子は\(++\)で、単位元は\([]\)であるので、次のようになる。

instance Cartesian [a] where
  mu (x,y) = x ++ y
  eta () = []

実行してみよう。

*Main> mu ("A ", "dog")
"A dog"
*Main> mu (eta () , "a cat")
"a cat"
*Main> mu(" a pig", eta())
" a pig"
*Main> mu ("A ", "dog")
"A dog"
*Main> mu (eta () , "a cat")
"a cat"
*Main> mu("a pig", eta())
"a pig"

乗算

それでは、乗算を利用できる数の集まりを\(Product'\)とし、次のように定義する。

newtype Product' n = Product' n deriving (Eq, Ord, Read, Show)

これに対して\(Cartesian\)のインスタンスを作ろう。二項演算子は乗算\( *\)で、単位元は1である。

instance Num n => Cartesian (Product' n) where
  mu (Product' x, Product' y) = Product' (x * y)
  eta () = Product' 1

実行してみよう。

*Main> mu (Product' 3.5, Product' 4.8)
Product' 16.8
*Main> mu (Product' 4, eta ())
Product' 4
*Main> mu (eta (), Product' 7.5)
Product' 7.5
*Main> mu (Product' 3, Product' 4)
Product' 12

加算

次は、加算を利用できる数の集まりを\(Product'\)とし、次のように定義する。

newtype Sum' n = Sum' n deriving (Eq, Ord, Read, Show)

これに対して\(Cartesian\)のインスタンスを作ろう。二項演算子は加算\( +\)で、単位元は0である。

instance Num n => Cartesian (Sum' n) where
  mu (Sum' x, Sum' y) = Sum' (x + y)
  eta () = Sum' 0

実行してみよう。

*Main> mu (Product' 3, Product' 4)
Product' 12
*Main> mu (Sum' 7.9, Sum' 4.3)
Sum' 12.2
*Main> mu (Sum' 6, eta ())
Sum' 6
*Main> mu (eta(), Sum' 5.6)
Sum' 5.6

余積

最後に、余積に対してもインスタンスを作ってみよう。余積も二項演算子には変わりはないが、インスタンスを作るには少し工夫がいる。余積はHaskellでは\(Either\)である。

instance (Cartesian a, Cartesian b) => Cartesian (Either a b) where
  mu (Right x, Right y) =  Right $ mu (x, y)
  mu (Left x, Left y) =  Left $ mu (x, y)
  mu (x@(Left _), _) = x
  mu (_, x@(Left _)) = x
  eta () = Right $ eta ()

実行してみよう。なお、実行に当たっては、出力のデータ型を指定しないと結果が得られないものがある。最初と最後の方の実行例にみられるが、これは\(Right\)あるいは\(Left\)のデータ型が確定しない場合に起こる。

*Main> mu (Right (Product' 3), Right (Product' 7)) :: Either String (Product' Int)
Right (Product' 21)
*Main> mu (Right (Product' 3.5), Right (Product' 7)) :: Either String (Product' Float)
Right (Product' 24.5)
*Main> mu (Left "Error1", Right (Product' 7))
Left "Error1"
*Main> mu (Right (Product' 3.5), Left "Error2")
Left "Error2"
*Main> mu (Left "Error1", Left "Error2") :: Either String (Product' Int)
Left "Error1Error2"
*Main> mu (Right (Product' 11), eta ()) :: Either String (Product' Int)
Right (Product' 11)
*Main> mu (eta (), Right (Product' 13)) :: Either String (Product' Int)
Right (Product' 13)

4) Haskellでの定義

前回の記事で、Haskellではモノイドは次のように定義した(但し、\(mconcat\)は省いても構わないので省略した)。

class Monoid m where
  mappend :: m -> m -> m
  mempty :: m

デカルト積を用いての定義は次のようになっていた。

class Cartesian m where
  mu :: (m, m) -> m
  eta :: () -> m

\(mu\)の型シグネチャ\((m, m) \rightarrow m\)は、カリー化を行えば、\(m \rightarrow m \rightarrow m\)となる。従って、\(mappend\)と\(mu\)は同じことを表していることが分かる。
さらに、 \eta単位元を導き出す式であるので、\(mempty\)と同じである。これを用いると、前回の記事で示したHaskellでの定義は次のように置き換えることができる。

class Monoid m where
  mu :: m -> m ->  m
  eta :: () -> m

但し、結合律と単位律は満足しなければならない。

書き換えたモノイドのインスタンスを示してみよう。

instance Monoid [a] where
  mu x y = x ++ y
  eta () = []

newtype Product n = Product n deriving (Eq, Ord, Read, Show)
instance Num n => Monoid (Product n) where
  mu (Product x) (Product y) = Product (x * y)
  eta () = Product 1

newtype Sum n = Sum n deriving (Eq, Ord, Read, Show)
instance Num n => Monoid (Sum n) where
  mu (Sum x) (Sum y) = Sum (x + y)
  eta () = Sum 0

instance Monoid a => Monoid (Maybe a) where
  mu Nothing x = x
  mu x Nothing = x
  mu (Just x) (Just y) = Just $ mu x y
  eta () = Nothing

instance Monoid b => Monoid (Either a b) where
  mu (Right x) (Right y) =  Right $ mu x y
  mu x@(Left _) _ = x
  mu _ x@(Left _) = x
  eta () = Right $ ita ()

上のプログラムで、()は、二項演算子が積である時は終対象であり、余積である時は始対象であることが分かる。これはたまたまそうなったのではなく、積と余積が双対関係にあることから、一般的にこのようになる。

モノイドを代数学のレベルから圏論でのレベルまで持ち上げてきたので、次回はさらなる抽象化を試みる。

三河国分寺・尼寺と豊川稲荷を訪ねる

秋分の日(23日)は、三河国分寺・尼寺を訪ねた。741年に聖武天皇が全国の国々に国分寺国分尼寺を建立するようにとの詔を発した。三河の国は、この当時の中心的な地域であったのだろう、豊川の地に二つの寺が建立された。

三河国分寺・尼寺は、豊川市国府にある。国府は、地元の人でないと分からないのだが、「こう」と発音する。
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名鉄線の国府で降り、徒歩で20分程度のところに三河国分寺・尼寺がある。この日は幸い秋晴れで、散策しながら、訪れるのに最適であった。

名鉄豊川線豊川稲荷駅から国府駅行の2両電車で向かった。
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最初に訪れたのは三河国分寺である。ここは、野草が生い茂る広場だ。お彼岸のこの日、曼殊沙華がきれいに咲いていた。
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このお寺には、銅鐘以外に残されているものはない。
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しばらく、国分寺跡の周りを散策した後で、国分尼寺へ向かう。ここは、南大門が復元されている。
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金堂や講堂の跡も復元されている。
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国分尼寺を発掘する前には、これらの遺跡の上にお寺が立っていたそうだ。このお寺を敷地の横に立て直して、発掘作業をし、復元したと自称ボランティアのおじさんが説明してくれた。下の写真は立て直しされたお寺である。しかし、現在では、ご住職もなくなり、その奥さんもなくなってしまって、お坊さんのいないお寺になっているとのことであった。
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近くに資料館があったが、ボランティアのおじさんが、「見てもつまんない」と言うので、国府の駅に向かい、豊川稲荷駅に戻った。

豊川稲荷駅前には、お稲荷さんの狐の像がある。
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参道に沿っては、狐さんの好物の稲荷寿司のお店が多い。
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豊川稲荷は、神社かと思っていた。しかし、境内に入るとお経が聞こえる。「あれ」と思って、調べると曹洞宗のお寺だ。
曹洞宗法王派の東海義易によって1441年に創建され、室町時代の末期、今川義元によって伽藍が整備されたそうだ。

お寺にもかかわらず鳥居がある。ただし、見慣れた朱色ではない。
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本殿は立派だ。
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奥の院に向かう参道にはのぼりが立ち並んでいる。
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奥の院の先には霊狐塚がある。狐さんが沢山いる。
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本殿の近くには、小さな庭園もあった。
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産まれたばかりの赤ちゃんの健康をお祈りして、病院へと向かった。

縄文時代後期、最も多数の人骨が発見された吉胡貝塚を訪ねる

先週、息子のところに孫が生まれたので、赤ちゃんを見がてら愛知県の三河地方を訪れた。以前から訪問したいと思っていた吉胡(よしご)貝塚には、9月22日に足を運んだ。

この貝塚は、大正11,12年に京都大学の清野謙次教授により、300体を超える人骨が発見されたところとして知られている(その後の発見も加えると340体)。
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日本で最も多くの人骨が発見された遺跡だ。吉胡貝塚渥美半島の中ほどにある。
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豊橋からは、豊橋鉄道渥美線を利用する。出発駅は新豊橋だ、電車は2両連結。かつて、東急電鉄で使われた懐かしい電車だ。それぞれの電車には、花の名前がつけられていて、我々の乗った電車は「椿」であった。
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終点の三河田原駅で降りる。運が悪いことに、この駅に近付いたころから小雨になった。
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街の景色を楽しみながら、田原城にも寄って、目的地に向かおうと思っていたが、雨に濡れるのが嫌なので、タクシーで直接、吉胡貝塚に向かった。タクシーが止まった先には、こじんまりとしているが、立派な資料館がある。
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資料館の中には、貝塚を発掘している様子も示されている。吉胡貝塚は、渥美半島の内部にあるように見えるが、近くまで田原湾が入り込んでおり、そばにはこの湾に流れこむ汐川がある。この貝塚縄文時代後期から晩期にかけての遺跡だ。この時期は暖かかった中期が終わり、寒冷期となる。多くの地域で人口が激減したが、この地域は住みやすかったのだろう。近くには、191体の人骨が発見された伊川津(いかわづ)貝塚や90体の稲荷山(いなにやま)貝塚がある。これらの貝塚も縄文後期から晩期の遺跡である。
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貝塚から採取された貝なども展示されていた。
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この時代には犬も飼われていたようで、人間の人骨と一緒に犬の骨も見つかっている。
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この地域の貝塚の特徴は、歯を抜いたり(抜歯)、削ったり(叉状研歯)する習慣があったことだ。ふじのくに地球環境史ミュージアムの日下宗一郎さんが、論文「縄文時代人の食性と集団間移動−安定同位体分析による試論」で、食性によって抜歯の仕方が異なっていたのではないかと報告している。また、刺青をする習慣もあった。
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このころは装飾も進み、貝殻を利用した指輪も発見されている。
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資料館の外は史跡公園になっている。
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昭和26年に発掘調査した現場も復元されている。5体の縄文人と2対の縄文犬だ(もちろん、骨は模型)。
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また、貝塚の平面もある。
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昭和26年の発掘で、右腕に4個、左腕に7個の指輪をした50歳前後の女性が発掘された。その場所も記されていた。
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なお、資料館にはこの女性の骨の模型がある。
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骨は入りいろな姿で埋葬されたようで、資料館には、盤上集骨墓も展示されていた。
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公園の風景をいくつか載せよう。
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公園の見学を終えたころ、雨が強くなってきたので、タクシーを呼んで、帰ることとした。

雨のため、予定より短い旅になってしまったが、渥美半島の訪問は初めてであったし、また、息子が勤務する会社の近くまで行け、それなりに楽しい旅行であった。

モノイドーHaskellでの表現

13.モノイド

モノイド圏は、集合の要素を射に、二項演算子を射の合成に、そして、単位元を恒等射にし、結合律、単位律が成り立っているものをいう。

例えば、整数の乗算の場合には、
1) 対象:シングルトン(通常星印で表される)
2) 射:整数
3) ドメイン、コドメイン:シングルトン
4) 恒等射:1
5) 合成: \(\times\)
① 結合律:満足
② 単位律:満足

しかし、上記の例でみたように射は集合の要素となるので、圏としては、余りにも細かいものが見えて気持ちよくない。そこで、構成要素を隠すように抽象化したい。しかし、いきなり、抽象化の議論を進めるのは気が引けるので、モノイドとは何かをHaskellを利用して慣れておこう。

13.1 Haskellでのモノイド

HaskellではモノイドはData.Monoidでクラスとして次のように定義されている。

class Monoid m where
  mempty :: m
  mappend :: m -> m -> m
  mconcat :: [m] -> m
  -- defining mconcat is optional, since it has the following default:
  mconcat = foldr mappend mempty

これに従えば、モノイドを使うときは\(mempty\)と\(mappend\)を定義する必要がある。なお、\(mappend\)は、中置関数\(<>\)でしばしば置き換えられる。

x <> y = mappend x y

また、結合律と単位律を満たさなけらばならないので、次の式を満たさなければならない。

-- Identity laws
x <> mempty = x
mempty <> x = x
-- Associativity
(x <> y) <> z = x <> (y <> z)

それでは、文字列の結合をモノイドとして定義しよう。次のようになる。

instance Monoid [a] where
  mempty = []
  mappend x y = x ++ y
  mconcat = concat

積は次のようになる。積は数(\(Num\))に対する二項演算子であるが、モノイドとして定義するときは、\(Product\)と呼ばれる新しいデータ型(コンテナ)を用意する。

newtype Product n = Product n
 
instance Num n => Monoid (Product n) where
  mempty = Product 1
  mappend (Product x) (Product y) = Product (x * y)

和(余積)は次のようになる。ここでも、\(Sum\)と呼ばれる新しいデータ型(コンテナ)を用意する。

newtype Sum n = Sum n
 
instance Num n => Monoid (Sum n) where
  mempty = Sum 0
  mappend (Sum x) (Sum y) = Sum (x + y)

それでは利用してみよう。なお、Data.Monoidでは\(getProduct,getSum\)により、演算結果を数(\(Num\))のデータ型で表す関数を用意している。

Prelude> import Data.Monoid
Prelude Data.Monoid> [1,2,3] <> [5,6]
[1,2,3,5,6]
Prelude Data.Monoid> [1,2,3] <> []
[1,2,3]
Prelude Data.Monoid> [] <> [2,3,4]
[2,3,4]
Prelude Data.Monoid> Product 3 <> Product 5
Product {getProduct = 15}
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Product {getProduct = 2.34}
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9
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4
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5.5
Prelude Data.Monoid> getSum $ Sum ( 2.3 * 5) <> Sum (5.5 + 3.2)
20.2

横浜:吉田新田を訪ねる

今回(19日)は、江戸時代の初めに開発された吉田新田の跡を訪ねた。この場所は、明治になると伊勢佐木町を中心に日本でも有数の商業地として栄えることとなる。しかし、戦国時代が終わり、江戸幕府が開かれたころは、大きな入り海だった。

横浜には、関内と関外と呼ばれる二つの地域がある。吉田新田は関外の大部分を占める。現在のこの地域は、かつてほどの勢いはないが、前述したように、伊勢佐木町よこはまばしなどの商店街を有する繁華街だ。また、関内は山下公園や横浜球場や中華街を有するデート・スポットだ。地図で示そう。
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地図で、左下隅から上中央に向かって水色の線がある。これは大岡川である。また、同じ左下隅から右中央に向かって薄茶色の線がある。これは高速道路だ。高速道路と大岡川に挟まれた区域が関内と関外である。高速道路は途中の石川町で分かれて大岡川の方に向かう線がある。これに沿って、関内と関外とに分けられ、右上の海側の方が関内で、左下の陸側の方が関外である。高速道路の下は中村川が流れている。この川はまっすぐに海に流れるわけではなく、高速道路が別れるところで直角に折れて、大岡川の方に向かって流れる。この部分は派大岡川と呼ばれ、関内と関外を分ける。

江戸時代初めの関外は海よりの半分程度のところまでしか小舟が入れないような浅瀬の入り海だった。また、関内は、高速道路の側から砂州が伸びていて、入り海を閉じ込める役割をしていた。この砂州とその近隣は、浜が横に伸びている形をしていたのでそのように呼ばれたものと思うが、室町時代から横浜村と呼ばれるようになった。江戸時代の終わりごろまでは現在とは全く異なり寒村であった。

関内・関外と呼ばれるようになったのは、江戸時代の終わりである。黒船が来航し、その結果、1859年に日米通商条約によって横浜は開港され、山下公園や中華街を含む地域が外国人居留地となる。このとき、横浜村の砂州の根元に堀が構築され(高速道路の分岐点から海に向かっている箇所)、堀川と呼ばれた。外国人居留地大岡川、派大岡川、堀川で囲まれ、出入りするためには関所(吉田橋)を通らなければならなかった。そのため、この三つの川で囲まれた地域を「関の内」ということで、関内と呼ばれるようになる。なお、関内は、海に向かって右半分が外国人が住む町で、左半分が日本人の居住地となった。地図を見ると、道と道の間隔が異なるので、その差は歴然としている。

関外は関内と対比的に「関の外」ということで関外と呼ばれるようになった。吉田新田は大阪生まれの江戸の材木商である吉田勘兵衛(1611-1686)により、1656年に開発が始められる。翌年、大岡川の決壊で堤防が壊れ、1659年に改めて工事をやり直し、1667年に完成する。最初の工事を始めてから11年の歳月を要した。開発前の入り海とその時の計画図と思われるもの示したのが下図である。
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上の図は、最初に示した横浜市の図を右回りにおよそ90度以上回転してある。入り海は釣鐘のような形をしている。また、開港前の関内・関外は次のようになっていた。
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吉田新田の大きさは115万平米、丁度、東京ディズニーランドとディズニーシーを合わせたぐらいの大きさだ。石高は1000石だ。1石はおよそ150Kgなので(1石は大人が1年間に食べる量)、約150トンとれたことになる。20トン積の大型トラックで7~8台となる。

鬼頭宏さんによれば、江戸時代が始まった1600年の日本の人口は1227万人、1700年には2829万人、1721年には3128万人、1873年(明治6年)には3330万人である。江戸幕府が開かれて最初の120年間で人口は2.5倍に膨れ上がり、その後の150年は横ばいとなる。このため、江戸時代前半には、人口急増に対応するため、各地で新田開発が行われた。吉田新田もその一例である。

吉田新田の開発は、堤を築いて川を両脇に押しのけ、内部を干上がらせるという工法で行われた。内部の水を抜くために、潮の干満に応じて堰の上げ下げもなされた。また、付近の山からの土砂で埋めることも同時に行われた。この当時の土木技術は戦国時代に築城が盛んにおこなわれたこともあり、高度に発達していたようだ。

前置きが長くなったが、吉田新田巡りは桜木町の駅から大岡川を分離する地点まで、地下鉄5駅(桜木町、関内、伊勢佐木長者町、坂東橋、吉野町)の周囲をあちこち巡りながら3時間歩いた。最初にめざした地点は、野毛山公園である。一段と高くなっているところで、展望台からは、吉田新田の跡を一望に見渡すことができる。

公園までの道のりにいくつかの名所があるので、それも併せて見学した。最初の訪問場所は、一昨年改修工事が完了し、新装なった成田山横浜別院である。ここは、易断で知られる高島嘉右衛門の協力により明治3年(1870)に建立された。
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さらに、伊勢山皇大神宮を訪れる。この神宮も明治3年に創建された。
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野毛山公園に入ると、横浜市の水道事業に貢献した英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像がある。彼は、明治18年(1985)に相模川の支流の道志川を水源にして、野毛山配水池までの48Kmにわたる水道建設を開始し、同20年に日本で最初となる近代水道を完成させた。
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昭和38年(1963)には東京オリンピックが開催されたが、蹴球・バレーボール・バスケットボールの予選が横浜で行われた。それを記念する碑が公園にある。
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公園にある展望台に上って、吉田新田のあった地域を一望する。ビルが隙間なく立ち並んでいる。
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公園を離れて、大岡川にかかる長者橋へと歩みを進める。この辺りは、吉田勘兵衛の屋敷跡である。今でも、子孫が経営する吉田興産や吉田パーキングの建物がある。
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また、吉田家の庭先にあった大井戸を見る。この井戸は、200年にわたって付近の住民の飲料水になったとのことである。
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吉田新田は今は商業地となっているが、その中でも一番賑やかである伊勢佐木町を歩く。ここには、明治時代に創業したお店が何軒かある。
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また、青江三奈伊勢佐木町ブルースの碑もある。
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吉田新田の真ん中あたりには、よこはまばし商店街がある(写真は大通公園から商店街を撮った)。
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よこはまばし商店街は平日にも関わらす、多くの人でにぎわっていた。
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黄金町まで進むと珍しい旗屋さんがある。
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吉田新田開発後に最初にかけられた橋が道慶橋だ。写真は道慶橋の上から大岡川を撮ったものだ。
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大岡川の分離地点の近くには、吉田新田の守護神として1673年に創建された「お三の宮日枝神社」がある。数日前にお三の宮の祭が行われたため、まだ、飾りが残っていた。
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また、境内には創建当時の手水鉢がある。
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さらに、近くには用水堰の守り神社としての堰神社がある。
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さて、最後の目的地、大岡川中村川大岡川に分かれる地点に到着した。真ん中の奥が分流前の大岡川。左側が中村川、右側が分流後の大岡川である。

台風一過が続く暑い中、3時間余りの行程は無事終了した。
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