bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜:吉田新田を訪ねる

今回(19日)は、江戸時代の初めに開発された吉田新田の跡を訪ねた。この場所は、明治になると伊勢佐木町を中心に日本でも有数の商業地として栄えることとなる。しかし、戦国時代が終わり、江戸幕府が開かれたころは、大きな入り海だった。

横浜には、関内と関外と呼ばれる二つの地域がある。吉田新田は関外の大部分を占める。現在のこの地域は、かつてほどの勢いはないが、前述したように、伊勢佐木町よこはまばしなどの商店街を有する繁華街だ。また、関内は山下公園や横浜球場や中華街を有するデート・スポットだ。地図で示そう。
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地図で、左下隅から上中央に向かって水色の線がある。これは大岡川である。また、同じ左下隅から右中央に向かって薄茶色の線がある。これは高速道路だ。高速道路と大岡川に挟まれた区域が関内と関外である。高速道路は途中の石川町で分かれて大岡川の方に向かう線がある。これに沿って、関内と関外とに分けられ、右上の海側の方が関内で、左下の陸側の方が関外である。高速道路の下は中村川が流れている。この川はまっすぐに海に流れるわけではなく、高速道路が別れるところで直角に折れて、大岡川の方に向かって流れる。この部分は派大岡川と呼ばれ、関内と関外を分ける。

江戸時代初めの関外は海よりの半分程度のところまでしか小舟が入れないような浅瀬の入り海だった。また、関内は、高速道路の側から砂州が伸びていて、入り海を閉じ込める役割をしていた。この砂州とその近隣は、浜が横に伸びている形をしていたのでそのように呼ばれたものと思うが、室町時代から横浜村と呼ばれるようになった。江戸時代の終わりごろまでは現在とは全く異なり寒村であった。

関内・関外と呼ばれるようになったのは、江戸時代の終わりである。黒船が来航し、その結果、1859年に日米通商条約によって横浜は開港され、山下公園や中華街を含む地域が外国人居留地となる。このとき、横浜村の砂州の根元に堀が構築され(高速道路の分岐点から海に向かっている箇所)、堀川と呼ばれた。外国人居留地大岡川、派大岡川、堀川で囲まれ、出入りするためには関所(吉田橋)を通らなければならなかった。そのため、この三つの川で囲まれた地域を「関の内」ということで、関内と呼ばれるようになる。なお、関内は、海に向かって右半分が外国人が住む町で、左半分が日本人の居住地となった。地図を見ると、道と道の間隔が異なるので、その差は歴然としている。

関外は関内と対比的に「関の外」ということで関外と呼ばれるようになった。吉田新田は大阪生まれの江戸の材木商である吉田勘兵衛(1611-1686)により、1656年に開発が始められる。翌年、大岡川の決壊で堤防が壊れ、1659年に改めて工事をやり直し、1667年に完成する。最初の工事を始めてから11年の歳月を要した。開発前の入り海とその時の計画図と思われるもの示したのが下図である。
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上の図は、最初に示した横浜市の図を右回りにおよそ90度以上回転してある。入り海は釣鐘のような形をしている。また、開港前の関内・関外は次のようになっていた。
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吉田新田の大きさは115万平米、丁度、東京ディズニーランドとディズニーシーを合わせたぐらいの大きさだ。石高は1000石だ。1石はおよそ150Kgなので(1石は大人が1年間に食べる量)、約150トンとれたことになる。20トン積の大型トラックで7~8台となる。

鬼頭宏さんによれば、江戸時代が始まった1600年の日本の人口は1227万人、1700年には2829万人、1721年には3128万人、1873年(明治6年)には3330万人である。江戸幕府が開かれて最初の120年間で人口は2.5倍に膨れ上がり、その後の150年は横ばいとなる。このため、江戸時代前半には、人口急増に対応するため、各地で新田開発が行われた。吉田新田もその一例である。

吉田新田の開発は、堤を築いて川を両脇に押しのけ、内部を干上がらせるという工法で行われた。内部の水を抜くために、潮の干満に応じて堰の上げ下げもなされた。また、付近の山からの土砂で埋めることも同時に行われた。この当時の土木技術は戦国時代に築城が盛んにおこなわれたこともあり、高度に発達していたようだ。

前置きが長くなったが、吉田新田巡りは桜木町の駅から大岡川を分離する地点まで、地下鉄5駅(桜木町、関内、伊勢佐木長者町、坂東橋、吉野町)の周囲をあちこち巡りながら3時間歩いた。最初にめざした地点は、野毛山公園である。一段と高くなっているところで、展望台からは、吉田新田の跡を一望に見渡すことができる。

公園までの道のりにいくつかの名所があるので、それも併せて見学した。最初の訪問場所は、一昨年改修工事が完了し、新装なった成田山横浜別院である。ここは、易断で知られる高島嘉右衛門の協力により明治3年(1870)に建立された。
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さらに、伊勢山皇大神宮を訪れる。この神宮も明治3年に創建された。
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野毛山公園に入ると、横浜市の水道事業に貢献した英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像がある。彼は、明治18年(1985)に相模川の支流の道志川を水源にして、野毛山配水池までの48Kmにわたる水道建設を開始し、同20年に日本で最初となる近代水道を完成させた。
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昭和38年(1963)には東京オリンピックが開催されたが、蹴球・バレーボール・バスケットボールの予選が横浜で行われた。それを記念する碑が公園にある。
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公園にある展望台に上って、吉田新田のあった地域を一望する。ビルが隙間なく立ち並んでいる。
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公園を離れて、大岡川にかかる長者橋へと歩みを進める。この辺りは、吉田勘兵衛の屋敷跡である。今でも、子孫が経営する吉田興産や吉田パーキングの建物がある。
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また、吉田家の庭先にあった大井戸を見る。この井戸は、200年にわたって付近の住民の飲料水になったとのことである。
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吉田新田は今は商業地となっているが、その中でも一番賑やかである伊勢佐木町を歩く。ここには、明治時代に創業したお店が何軒かある。
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また、青江三奈伊勢佐木町ブルースの碑もある。
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吉田新田の真ん中あたりには、よこはまばし商店街がある(写真は大通公園から商店街を撮った)。
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よこはまばし商店街は平日にも関わらす、多くの人でにぎわっていた。
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黄金町まで進むと珍しい旗屋さんがある。
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吉田新田開発後に最初にかけられた橋が道慶橋だ。写真は道慶橋の上から大岡川を撮ったものだ。
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大岡川の分離地点の近くには、吉田新田の守護神として1673年に創建された「お三の宮日枝神社」がある。数日前にお三の宮の祭が行われたため、まだ、飾りが残っていた。
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また、境内には創建当時の手水鉢がある。
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さらに、近くには用水堰の守り神社としての堰神社がある。
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さて、最後の目的地、大岡川中村川大岡川に分かれる地点に到着した。真ん中の奥が分流前の大岡川。左側が中村川、右側が分流後の大岡川である。

台風一過が続く暑い中、3時間余りの行程は無事終了した。
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