bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

鎌倉に足利氏ゆかりの寺を訪ねる

鎌倉の春はきれいだ。特に桜の咲くころは素晴らしいのだが、観光客の多いのにはうんざりさせられる。鎌倉時代室町時代に関する歴史の書物を読み漁ったので、久しぶりに訪ねてみたいと思っていた。桜がすでに散ってしまった昨日(9日)、ゆっくりと見学できるだろうと思い、足利氏にかかわりのある寺院を訪ねた。

鎌倉の北東部、六浦に抜ける滑川沿いの街道に沿って、これらの寺が点在している。この街道は六浦道と呼ばれるが、鎌倉時代においては港町の六浦に物資を運ぶための重要な街道であった。六浦は現在では「むつうら」だが、当時は「むつら」と呼ばれていた。

滑川に沿って狭い平野部が開けているが、街道の両側は山が迫っていて、山に分け入るように所々が谷になっている。谷戸(やと)と呼ばれている。御家人の一族が住んでいたと思われる谷戸には、その氏族名がついているところもある。

六浦道は鎌倉駅からはほぼ東の方に向かって山の中へと入っていく道だ。今回訪れた寺院を下図に示す。
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地図で、左下が鎌倉駅、左の緑の部分が鶴岡八幡宮だ。若宮大路の東側に平行している小町大路を北東の方に上がってゆく。東勝寺跡という案内が出てくるので、滑川の方に向かって歩く。ほどなくすると東勝寺橋に着く。橋から滑川を見て、鎌倉時代も同じような風景であったのだろうかと思いをめぐらした。小さな渓谷の趣がある。鎌倉末期の14代執権、北条高時(ほうじょうたかとき)が新田義貞(にったよしさだ)に追われて、最後の地に向かうべくこの橋を渡ったことだろう。
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しばらく進むと北条家の菩提寺であった東勝寺跡が見えてくる。寺跡には、タンポポが咲きそろい、奥には鎌倉の一つの特徴である「やぐら」が見える。やぐらは横穴式の供養堂であり、三方を山に囲まれた鎌倉の地勢を活かしの特異な墓様式だ。

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東勝寺跡の隣には、高時の腹切りやぐらがある。写真の真ん中に穴が見えるが、ここで、1333年に一族や家臣870名とともに自刃したと伝えられている。鎌倉時代が終わった瞬間だ。『太平記』には、「相模守高時禅門、元弘年5月22日、葛西谷におひて自害しける」と記されている。
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東勝寺跡の周辺は葛西谷(かさいがやつ)と呼ばれている。『鎌倉攬勝考(らんしょうこう)』によれば、「治承以来、葛西三郎清重に給ひし地ゆへ葛西ヶ谷とは号せりとぞ」と土地の由来を伝えている。清重(きよしげ)は、武蔵国豊島郡を領有した秩父平氏豊島清元(としまきよもと)の子で、下総国葛西御厨を相続して葛西三郎(かさいさぶろう)と称した。東国の御家人である。

なお、この谷の一つ南に位置する谷、妙本寺の周辺は、比企谷(ひきがやつ)と呼ばれている。これは鎌倉初期の有力な御家人であった比企能員(ひきよしかず)の旧跡に因んだとされている。

小町大路に戻り、宝戒寺に立ち寄る。北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立したと伝えられているが、実際は、天皇没後に足利尊氏(あしかがたかうじ)の寄進によって造営されたと推定されている。
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小町大路をさらに進むと岐れ路(わかれみち)につく。滑川に沿った六浦道を選ぶ。しばらく進むと大御堂橋という案内が出てくる。釈迦堂谷へと進む道だ。ここで右折して、川を越えたところで左折し川沿いの狭い道へと歩を進める。

少し進むと犬懸谷(いぬかけがやつ)へと向かう道に出会う。この谷戸には、室町幕府関東管領であった上杉朝宗(うえすぎともむね)・氏憲(うじのり)の屋敷があったとされている。室町時代は、鎌倉に鎌倉公方が置かれ、それを補佐する役として関東管領が置かれていた。上杉朝宗・氏憲の頃、関東管領山内上杉家犬懸上杉家が独占していたが、氏憲が反乱(1416年の上杉弾秀の乱)をおこし敗れてしまい、犬懸上杉家は滅亡する。
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さらに、川沿いに進むと報国寺に至る。この寺は、足利尊氏の祖父の足利家時(あしかがいえとき)あるいは上杉重兼(うえすぎしげかね)の創建とされている。享永の乱(1438年に鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)と関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)の対立で勃発)で敗れた持氏の子義久(よしひさ)がこの寺で自刃した。
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竹林で有名なこの寺には、外国人観光客が多数見受けられ、他の寺の静けさとは異質であった。
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また、報国寺にもやぐらがあった。また、報国寺周辺は宅間谷(たくまがやつ)と呼ばれている。
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この後、今回の主目的である浄妙寺へと向かう。この寺は鎌倉時代の初めの1188年に足利義兼(よしかね)により創建された。かつて、鎌倉時代征夷大将軍に就任した1192年に始まると教えられていたが、最近では、関東支配権の承認を得た1183年、あるいは、守護・地頭設置権が認められた1185年が有力になっている。もちろん、足利義兼は鎌倉幕府の有力御家人で、北条政子の妹を妻に迎えるなど、源頼朝に厚遇された。

この寺は当初極楽寺と呼ばれ密教(真言宗)であった。その後、建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子の月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職になった時に、禅刹に改められた。また、寺の名前は、足利貞氏(あしかがさだうじ)の法名をとって浄妙寺とされた。鎌倉五山第五位の格式を誇る寺でもある。
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足利貞氏の墓もある。また、『新編鎌倉志』に掲載されている浄妙寺境内絵図によれば、総門に向かって右隣に東公方屋敷の記載がある。これは、室町時代の東国支配機関であった鎌倉公方(関東公方ともいわれる)の屋敷跡と見られている。鎌倉公方足利尊氏の子孫によって世襲される。
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この隣には杉本寺がある。鎌倉最古の寺である。奈良時代の734年に行基が十一面観音を安置して創建したのが始まりと伝えられている。行基は、聖武天皇の時代に奈良の大仏造立の実質上の責任者として招かれた僧だ。

杉本寺の近くの高台から、滑川沿いの街並みを見ることができた。
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この後、瑞泉寺へと向かうのだが、腹ごしらえをするために、民家を改造したレストランで昼食を取った。

瑞泉寺へ向かう途中で出会ったのが、永福寺(ようふくじ)跡。かつてテニスをしたコートの横にある。何もなかったように記憶しているのだが、立派な遺跡になっていることにびっくりした。源頼朝が、源義経藤原泰衡(ふじわらやすひら)を始めとする奥州合戦での戦没者を慰霊するために、中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立したそうである。かつての寺院の模型写真もあった。
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池が印象に残った。荘厳で静寂な寺院だったのだろう。この周辺は永福寺谷(ゆうふくじがやつ)と呼ばれる。
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ここからだいぶ歩いて瑞泉寺に到着した。庭園がきれいな寺で、周辺は紅葉谷(もみじがやつ)と呼ばれている。1327年に夢窓疎石(むそうそせき)が創建した。夢窓疎石は京都の西芳寺竜安寺などの庭園を設計している。
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最後に訪れたのが、鎌倉宮である。この宮には、護良(もりなが)親王が幽閉された土牢がある。護良親王は父の後醍醐天皇とともに建武の新政(1333年)を成し遂げたが、その後、足利尊氏と対立し、北条高時の遺児の時行(ときゆき)が起こした中先代の乱の混乱の中で、尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)の命で1335年に殺害された。
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16,000歩をかけての足利氏にゆかりのある寺院の旅は、10時半ごろに始め、15時ごろに終了した。武家同士の権力闘争が激しかった時代の寺院であるが、現在は、どの寺も谷戸の中で鎮魂のための静寂を保っている。