bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

小田原北条家ゆかりの地を訪ねる

よく晴れた一昨日(5日)、歴博主催の見学会「早雲寺」に参加し、箱根湯本に行ってきた。ここは小田急線利用なので、ちょっと贅沢をしてロマンスカーを使った。かつては「走る喫茶店」と称せられたが、今年3月に車内販売が終了し、ひところの高級レジャー感は薄れたようである。それでも今回は久しぶりの箱根ということで、旅行気分を味わってみたいと願ってのことであった。

金曜日のお昼時ということもあって、1/3ほど席が埋まっているだけで、車内は静寂とは言えないまでも、子供の声が時々聞こえる程度で快適だった。しかし本を読もうとしたら、横揺れが気になり目も疲れるので、車窓からの景色をぼんやりと見ながら過ごした。そして通勤電車では横揺れを気にせず読めるのにどうしてなのかと考えた。大きく違うのは座席の方向である。左右の揺れに伴って本を持っている手が体と同期しないで動き、目の方がそれに追いつかないのだろうと判断した。このようにふだん経験しない現象にあったとき、その物理的モデルを考えるのも、旅をしているときの思わぬ楽しみである。

今回の目的地は、地蔵信仰の正眼寺(しょうげんじ)と小田原北条家五代を弔う早雲寺であった。この両寺は、箱根湯本に位置している。
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学芸員の方から見学のスタートに先立って箱根湯本の由来を伺った。律令制が設けられた奈良時代東海道(足柄路)は、今日のように箱根湯本経由でなく、今よりはずっと北側の国道246号線・JR御殿場線の南側を通っていた。平安時代初めの延暦19~21年(80~802)の富士山の大噴火で足柄路が閉鎖され、新しい官道として延暦21年に湯本経由の湯坂路が開通したが、足柄路がすぐに復旧したため、湯坂路は平安時代にはあまり使われず、やっと末期になって旅人の通過が多くなった。

鎌倉時代になると湯坂路は、源頼朝を始めとして、将軍や北条氏が二所詣(箱根神社伊豆山神社)の際に利用し、官道としても使われた。そして湯本は芦之湯などとともに、湯治場として誕生し整備された。室町時代には鎌倉公方によって、重要な軍事地点とみなされた。江戸時代になると湯本から須雲川に沿った南側に東海道(箱根旧街道)が開通し、湯本は湯治場としてさらに栄えた。湯坂路は、現在はハイキングコース(地図の中ほどに点線で記されている)として整備されている。

説明のあと観光客との接触を避けるために、人通りの少ない早川沿いを歩いた。戦国時代の武将の小早川氏の祖先は、この辺りの相模国早川荘を所領していたことから、小早川という苗字を名のったと学芸員の方から道々教わった。早川と須雲川が合流する地点で、弥栄橋を渡り、少し勾配が急な弥坂を上った。途中に湯本小学校跡という案内板があった。明治政府による「学制」の発布(明治5年)により設立された学校で、当時は広大な敷地を有していた早雲寺の境内につくられた。

弥坂を上り詰めると箱根旧街道にぶつかった。右に行くと正眼寺、左に行くと早雲寺である。先ずは正眼寺を目指した。この辺りは地蔵信仰の盛んな土地として鎌倉時代から著名で、寺は江戸時代に早雲寺の末寺となった。正眼寺は、中先代の乱の合戦場に「湯本地蔵堂」として表れてくるのが初見である。ちなみに中先代の乱とは、鎌倉北条氏が滅び、建武の新政のときに、北条家の遺児の北条時行鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱である。

正眼寺は初見に現れているよりはもっと古く創建された寺のようで、鎌倉時代地蔵菩薩立像を所蔵し、その像内からは鎌倉時代の年紀を記す納入品が多数見つかっている。また境内の石灯篭には、「勝源寺」と刻印され、応永2年(1395)の年紀がある。このため勝源寺から正眼寺になったとされている。

境内には、仇討ちで有名な曽我兄弟を弔うための曽我堂があり、二体の地蔵菩薩立像がある。それぞれ曽我五郎時致(ときむね)と十郎祐成(すけなり)をかたどったとされている。仇討ちの概略は次の通り。兄弟に討たれた工藤祐経(すけつね)は、所領分割相続の争いから叔父の伊藤祐親を恨んでいた。祐経はその郎党とともに祐親を狙って矢を放ったが、一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は亡くなった。曽我五郎・十郎は祐泰の実子で、母は祐泰の死後に曽我に嫁ぎ、彼ら兄弟の苗字も曽我となった。そして父の仇を返すために、工藤祐経を討った。

正眼寺の起雲閣と大地蔵。
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勝源寺の名前が刻印されている灯篭。
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本堂。逆光を受けてかすんでしまった。
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曽我兄弟を弔うための曽我堂で、地蔵菩薩立像二体がふだんは安置されているが、このときは県立歴史博物館で展示中のために不在。
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中世のものだろうか、古い墓が曽我堂の近くにあった。
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正眼寺に別れを告げて旧東海道を湯本の方に下り、次の早雲寺を目指した。早雲寺は、北条早雲こと伊勢宗瑞の遺言によりその子北条氏綱によって、京都大徳寺から以天宗清(いてんそうせい:大徳寺で宗瑞と同門)を招き創建された。創建年についてはいくつかの説があるようだが、今回は、宗瑞が没した2年後の大永元年(1521)と説明を受けた。早雲寺は臨済宗で、関東に多い建長寺派ではなく、大徳寺派である。

北条早雲には、一介の素浪人から成りあがった下克上の典型であるという通説があったが、現在ではこの説は否定されている。父は伊勢盛定、母は伊勢貞国の娘で、父は8代将軍足利義政の申次衆(天皇や院に奏聞を取り次ぐ役目)であった。生まれたのは備中荏原壮で、宗瑞はここに居住していた。姉は駿河守護今川義忠に嫁した。宗瑞は京都に出て、建仁寺大徳寺で禅を学び、また9代将軍足利義尚の申次衆に任命された。そのあと駿河に下向し、伊豆に討ち入り、小田原城を奪取し、小田原北条氏となった。京の時の縁で、早雲寺は大徳寺派になったと見られている。

戦国時代の終わりには、早雲寺は北条家と運命を共にした。豊臣秀吉は、天正18年(1590)の小田原攻めのとき、早雲寺を本陣とし、そして石垣山に一夜城を造ったあと、早雲寺を焼き払った。小田原北条家ゆかりの玉縄北条氏(相模国)・狭山藩北条氏(河内国)などの助けを借りて、寛永4年(1648)に菊径宗存により再建、慶安元年(1648)に徳川家光より朱印状を得た。

山門。山号の左側に「朝鮮国雪峰」とある。これは江戸時代初めの朝鮮通信使の写字官として来日した金義信の揮毫である。今回説明してくれた方が、この事実を見つけたそうである。
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中門越しに見た早雲寺の全景。それほど大きなお寺ではない。
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客殿(方丈)。中に入って襖絵を拝見させてもらった。狩野雪村による「龍虎図」、立派な絵画であった。
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小田原北条家五代の墓。
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庭園、中ほどの庵は開山堂。
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鐘楼。
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箱根にはたびたび来ているが、いつも湯本は通り過ぎてしまう。温泉宿が立ち並んでいるだけだろうと思っていたが、この地に由来する歴史的な遺産を知ることができて親しみがわいた。機会があれば湯坂路を歩き、昔の旅を追ってみたいと思っている。