bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

岡本裕一朗著『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』を読む

コロナウイルスに感染する人の数は、予想をはるかに超えて急激に減少し、多くの人は、この状態が維持されることを願っていることだろう。ところでコロナウイルスが終息したあとに訪れる世界は、起きるまえの継続なのだろうか、それともカタストロフィックに変わってしまうのだろうか。

最新医学によるワクチンの成果を誇りと考え、人間の能力を超えるような人工物の獲得へと邁進するようにも思えるし、そうではなくて人々の協力の賜物であったと認識して平和な協調関係を推進するようにも思える。

どこへ時代が進もうとしているのかを知りたくて、岡本裕一朗さんの『ポスト・ヒューマニズム』を読んだ。本の結論を先に言ってしまうと、「現代哲学は、ヒューマニズム(近代的人間主義)とポスト・ヒューマニズムという異なる方向を目指して、対峙している」とのことである。

歴史を振り返ると、17~18世紀の啓蒙主義によって神を中心とする時代は終わりを迎えた。ニーチェの言葉を借りれば、「神は死んだ」。そして近年は、テクノロジーの進歩によってコンピュータの能力は人間を越えようとしているし、遺伝子工学の発展によって人間の脳の改造も可能になっている。このような状況を捉えて、 ユヴァル・ノア・ハラリは、「ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードすることになるだろう」と言っている。「人間」から「超人」へと変わる新しい時代の到来である。

「人間」を中心とした哲学を、「超人」のそれに変える必要があるのではというのが、現代哲学が負っている課題である。この本には三つの潮流が描かれている。「思弁的実在論(speculative realism)」と「加速主義(accelerationism)」と「新実在論(new realism)・新実存主義(new existentialism)」である。とても感覚的にとらえるならば、前の二つは人間の能力を超えた超人に支配される時代の(ポスト・ヒューマニズムの)哲学、最後のものは技術革新を受け入れてそれでも主体であり続ける人間を中心とした時代の(ヒューマニズムの)哲学といっていいだろう。神を死に追いやった啓蒙時代の人々が来るべき時代に対しての哲学を模索したように、人間を超えたものが存在するような時代になったときにどのように生きていけばよいのかを問うているのが現代の哲学である。産業革命によって機械が人間の労働を奪ってしまうのではないかという恐怖心にかられたように、AIによってロボットが人間を管理するようになるのではと危惧を覚えている人も多い。
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機械は人間が作り出したものでそこにとどまったが、ロボットは「ロボットがロボットを、しかも改良されたロボットを、作り出す」ように進化するとさえ想定される。人間が全くコントロールできない世界が「実在する」ようになるのではと杞憂されることさえある。ここで実在という用語を使ったが、哲学では「人間の心とは独立した世界がある」を意味する。実在に対立する用語は観念である。観念は「世界は心とは独立ではない」である。岡本さんは「人間がモノを認識するとき、心の中で観念(idea)を抱くのだが、その観念とは別にモノ(reality, world)の存在を肯定するのが「実在論」(realism)、観念とは独立したモノは存在しないとするのが「観念論」(idealism)である」と説明している。

それでは、思弁的実在論から説明を始めよう。実在論は、先ほど説明したように、心とは独立した世界があるということである。ところで、世界を観察するのは人間であるため、心から全く独立してモノを認識できるのかという疑問が湧いてくる。思弁的実在論に立脚する哲学者は、独立して存在するモノを考察できるようにしようという立場に立っている。そしてそれまでの哲学者がこのような見方をしてこなかったと批判する。すなわち、従来の見方は人とモノとが関わり合いながら思索する相関主義であると批判する。

思弁的実在論の一人であるメイヤスーは、相関主義での関わり合いの度合いをスペクトラム化して次のように説明している。両極に素朴実在論と思弁的観念論を置く。素朴実在論は「この世界というものは、自分の見たままに存在している」という非常に単純な見方である。これは人間の観察とモノの存在とは独立で、観察が存在に影響を及ぼすことはないので相関はないという考え方である。思弁的観念論は「思考の外でモノを考えることはできないので、このモノは存在できないと推量する」という非常に極端な見方をし、人間の観察がモノの存在に完璧な形で関わっているので、完全に相関しているという見方である。メイヤスーはこの二つの見方の間に、「弱い相関主義」と「強い相関主義」に立つ哲学者を例示した。強い相関主義が、「単に私たちが思考できないからと言って、モノが存在できないと結論するいかなる理由もない」という立ち位置にあることを利用して、思考できないが存在しているモノを論理学(思弁的)で導き出そうというのが、思弁的観念論の哲学者たちである。アインシュタインに代表される理論物理学者の人々が理論だけから物理法則を導き出す方法と、思弁的実在論の哲学者たちの方法は似ている。
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ブラシエ、ハーマン、グラント、メイヤスーは、思弁的実在論の哲学者とみられているが、その手法はそれぞれ別々である。科学的・数学的な手法をとるのはブラシエとメイヤスーであり、形而上学的な手法をとるのが、ハーマンとグラントである(形而上学について説明を加えると、これは、感覚・経験を超えた世界を真の実在とみなし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする哲学である)。

加速主義は、根本的な社会変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大せよという考え方である。古くはカール・マルクスによって、資本主義が有している効率的な生産力を抑制するのではなく加速することによって、次の時代(社会主義共産主義)に進めようという主張がなされた。またドゥルーズ=ガタリは「脱コード化(規制の撤去)」によって資本主義を突き抜けていこうというスタンスをとり、ネグリ=ハートは「脱領土化(グローバリゼーション)」のプロセスを加速することを勧めた。さらにニック・ランドは『暗黒の啓蒙』を発表した。近代が啓蒙の時代と言われたのに対し、近代を越えた次の時代の超近代(ポストモダン)は、啓蒙をひっくり返した時代であるとランドは述べた。近代の思想を支えたのは民主主義であり、これは啓蒙や進歩主義と結びついて語られた。しかし彼は、自由と民主主義とは親和的なものではなく、対立的なものであると見なした。民主主義を否定して自由を推し進めることで、近代の出口すなわち超近代に向かえると考えた。そして超近代は啓蒙ではなく暗黒の啓蒙に、民主主義ではなく自由に、進歩主義ではなく反動主義になるとした。国家は、民主主義で運営されるのではなく、一つの国を所有するビジネスとなるとみた。これは新官房学主義(neocameralism)と呼ばれる。

一方で、ソ連の崩壊により共産主義が敗北をし、フランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり(人間同士の社会的対立が終わる)」の時代になったあと、より大きな自由を求め、思想的にはリバタリアニズム(自由至上主義)、経済的にはネオリベラリズム(新自由主義)が台頭した。この流れがランドの暗黒の啓蒙の影響を受けて、トランプ政権での新反動主義(neoreactionary)として姿を現し、米国には新しい対立が生まれた。
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ランドの立ち位置が右翼的な加速主義であるとすると、暴走への歯止めとしてベーシックインカムを取り入れたスルニチェクとウィリアムズの考え方は左翼的な加速主義という立ち位置になる。

最後は新実在論である。この主張に立っているのはマルクス・ガブリエルとマウリツィオ・フェラーリスで、この二人以外で新実在論を標榜する人はあまり知られていない。思弁的実在論の哲学者が相関主義をやり玉にあげているのに対し、新実在論の彼らは構築主義を批判している。二者の間に近代哲学の主流を相関主義と見なすべきか構築主義とすべきかを巡って意見の対立がある。構築主義は「およそ事実それ自体など存在しない。むしろ私たちが、私たち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、一切の事実を構築している」という立ち位置にあるとガブリエルは説明している。またフェラーリスは「近代哲学の基軸をなしているのは、メイヤスーによって問いに付されている相関主義ではなく、むしろ構築主義にほかならない」と言っている。彼はさらにティラノサウルスの例を用いて、これまでの哲学を相関主義よりは構築主義であると考えたほうがより正しいと説明したあとで、ティラノサウルスという名称を付けたのは人間だが、そうだからと言って、人間が存在しなかった過去にこの動物が存在しなかったわけではない。従って、ティラノサウルスは人間によって構築されたものではないと、これまでの主流である構築主義を批判している。

実在論を含めて実在論と称せられるものがいくつかあるが、ガブリエルは分かりやすい例を用いてそれらを説明している。例は次の通りである。

アスリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話をしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山を見ているとする。

すると、このシナリオに存在しているのは、ヴェズーヴィオ山、アスリートさんから(ソレントから)見られているヴェズーヴィオ山、わたしたちから(ナポリから)見られているヴェズーヴィオ山ということになる。

このとき、形而上学(古い実在論)では、①ヴェズーヴィオ山だけが存在する。

構築主義では、①アスリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、②私にとってのヴェズーヴィオ山、③あなたにとってのヴェズーヴィオ山の三つが存在する。ただし、そうした現象とは別に、ヴェズーヴィオ山があるわけではない。

実在論では、①ヴェズーヴィオ山、②ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アスリートさんの視点)、③ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)、④ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)の少なくとも四つの対象が存在している。

このように新実在論では、あらゆるものを包括する立場をとる。このような立場をとらせているのが「意味(Sinn)」の概念である。ガブリエルは、「わたしたちの住む惑星、わたしの見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、そして月面に棲む一角獣さえもが存在する」という。この文章を理解するとき、意味の概念が必要となる。先の説明の惑星や夢などのそれぞれは、同じ意味で存在するわけではない。ガブリエルは「2+2=3+1」という例で次のように説明している。「2+2」と「3+1」を現象と呼び、意味は対象が現象する仕方のこととしている。

ガブリエルは、対象であれ事実であれ、必ず「意味」に基づいて理解するとし、意味の場を次のように定義している。意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域である。このため、同じ対象でも、意味の場が異なれば異なって現象すると説明している。

図で表す次のようになる。また数学的な表現を用いるならば、現象によって、対象が意味の場に写像されるとなる(もう少し厳密にするとファイバー束)。
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フェラーリスは、もの(対象)を三つに分類できるとしている。
➀主観から独立して、時間と空間の中に存在する自然的なもの
②主観に依存して、時間と空間の中に存在する社会的なもの
③主観から独立して、時間と空間の外に存在する理念的なもの

主観に依存する 主観に依存しない
時空の中 人工的なもの、社会的なもの 自然的なもの
時空の外 理念的なもの

デリダを起源とするテクスト性という概念は、「解釈されたもの以外はなにも存在しない」というポストモダン的な構築主義の典型的な標語になったのに対し、フェラーリスはドキュメント性という概念を対置させた。ドキュメント性は、ものの分類の中の②の社会的なものに対応する。このため、実在論といっても、社会的なものについては、「主観に依存的」と考え、ドキュメント性という概念が弱いテクスト主義あるいは弱い構築主義を前提とするようにした。
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ガブリエルは、『「私」は脳ではない』の中で、自身を「新実存主義」と呼ぶようになるとともに、科学的自然主義やポスト・ヒューマニズムを激しく批判した。新実在論では、多様な意味の場を認めていた。そこでこれを「心」という観点から見てみよう。自然主義は、「心」を自然科学というただ一つの現象、ないしは一つの意味の場で理解しようとしている。これと異なり、ガブリエルが進める新実存主義は「心」を多様な現象、つまり多様な意味の場でとらえることにある。このため、新実存主義とは「心」に関する新実在論といえる。従って、新実在主義は人間の「心」を重視する人間主義と言える。すなわち「新実存主義ヒューマニズムである」となる。

ガブリエルは、自然主義を批判すると同時に道徳的な信念を主張する。それは人間の尊厳という概念である。これからパンデミック後の世界に対しても、新たな社会モデルが必要であると説き、それがグローバルな啓蒙であると言っている。私たちが必要としているのは、共産主義(ドイツ語ではKommunismus)ではなく、共免疫主義(Ko-Immunismus)ー世界で激化している対立・差別・暴力などに対する集団的な精神の免疫ーが必要だと述べている。またネオリベラルな資本主義の矛盾を克服するための方策として、「経済の道徳的な形態、人間的な市場経済は可能である」とも述べている。

以上が岡本さんの本から読み取った内容である。カーツワイルが『シンギュラリティ』のなかで、2045年にはコンピュータが人間を知的能力の面で上回ると予言して以来、全く異次元の世界が出現する可能性がゼロではないとは思っている。コンピュータ将棋がプロ棋士を破るようになってから人間が勝つことはないのかと思っていた矢先、あどけない顔の藤井聡太さんがコンピュータの予想を越えるような手を披露してくれて、AIにも大きな課題が残されていると感じた。共免疫主義は偉大な挑戦のように思えるけれども、人類の知恵を働かせて実現させたいものである。