bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

黄金色に輝く東大本郷の銀杏並木を通り抜けてダイヤモンド教授の講演を聞く

ジャレド・ダイアモンド教授の講演が東大の安田講堂で開催されたので、12日(木曜日)聴講に行った。正門から入構すると安田講堂の正面入口に向かう道の両脇の銀杏並木が、見事な黄金色に輝いていた。こんなに綺麗だったかと目を見張ってしまった。学生運動が激しい頃には、道の両側には大きな看板が立ち並んでいて、別の意味で訪れる人を驚かした場所である。時代の流れとともに、学生たちの意識の変化も感じられた。

正門を入ってすぐの左側にある小ぶりの建物が工学部列品館、学生時代にはここで実験をしたこともある懐かしい建物で1920年の完成、右側が法学部3号館で1927年、それに続いて古めかしい荘厳な建物が左右にあるが、法文1号館・2号館で、1935年と38年の完成で、いずれも東大総長を務め、文化勲章を受章した内田祥三(よしかず)教授の設計で、ゴシック様式の建物である。

安田講堂は匿名者からの寄付で建設されたが、財閥の安田善次郎さんからであることが彼の死後に知られ、安田講堂と呼ばれるようになった。建物は1921年の起工だが、1922年の関東大地震による工事の中断を経て、1925年に竣工した。内田祥三教授と弟子の岸田日出刀教授が設計した。

これらの建物は、歴史的な価値が認められ、すべて東京都の登録有形文化財に指定され、大正・昭和初期の荘厳で重厚な建築様式を伝えてくれる。学生の頃は、法文1号館と法文2号館のそれぞれにあるアーケードを抜けて通学するのが大好きだった。世間とは一線を画した薄暗いアーケードを通り抜けるとき、ここが学問の殿堂だと感じたものだった。

安田講堂へと通じる道は、学問の殿堂とは程遠く、観光スポットになっていた。黄金色に輝く銀杏並木が見ごろということもあるのだろう、インスタグラムにでも載せるのであろうか、たくさんの観光客が撮影に興じていた。キャンバスに絵を描いている人々も少なからず見かけた。
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足元も落ち葉で埋め尽くされ、空間全体を黄金色にしていた。
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法文1号館と法文2号館の間も黄金色に染まっていた。
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重厚なレンガ造りの建物が悠久の時間へと誘ってくれるが、不思議な樹木の銀杏もこれに負けることはない。銀杏は広葉樹ではなく、針葉樹に近い。2億7000年という長い年月を生き抜いてきたとされている。日本には、中国から室町時代後期に伝来したとされる。ヨーロッパには、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルが1692年に長崎から銀杏の種を持ち帰り、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、広まったとされている。またこのとき、銀杏(ギンコウ)の音訳を誤ってGinkgoとしたため、今日まで修正されずにこのスペルが使われている。

これから講演を聞く安田講堂の前も、同じように観光スポットになっていた。
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今回の講演は、今年度のブループラネット賞を受賞したジャレド・ダイアモンド教授とエリック・ランバン教授を招いてのものである。ブループラネット賞は、地球の環境問題の解決のために優れた研究をした人や、熱心に活動をしてきた人をたたえるために設けられた賞で、旭硝子財団が主催している。今年度が28回目で、旭硝子が早い時期から地球の環境問題に取り組んできたことは称賛に値する。

講演は、第一部がランバン教授、第二部がダイアモンド教授と分かれて行われた。それぞれが1時間半で、受賞者が30分ほど講演をしたあと、1時間ほど質疑応答が行われた。高校生や大学生、あるいは留学生からも、活発な質問がたくさん出され、最近の若い人たちが積極的であることに、驚かされるとともに、力強さを感じた。

ダイアモンド教授は、幅広い研究分野で活躍されている方で、「知の巨人」とも言われ、現在82歳。ピュリッツァー賞に輝いた『銃・病原菌・鉄』の著者でもある。彼が若いころにパプア・ニューギニアを学術調査しているとき、手伝いをしてくれた現地の人から「あなたの国は文明が発達したのに、私のところはどうしてそうならなかったのか?」という質問を受けたが、その時は応えられなかった。解答を見出すために長い年月を有したが、現地人の質問に対する答えがこの本である。

彼は、その他にもたくさんの本を出版していて、最近では『危機と人類』という本を出版した。英語のタイトルは刺激的で、”Upheaval(大激変)”である。講演の中で、「どの言葉を一番大切に考えていますか」という質問を受けたときに、「リスク」と答えた。パプア・ニューギニアのような原始社会では、誤って足の骨を折ってしまうと、一生歩行困難になってしまうので、リスクには細心の注意を払う必要があるとのことだった。この講演に、彼は奥さんを伴ってきていたが、仕事のために急ぎ帰国しなければならないということで、彼が話している最中に奥さんは抜け出した。彼はこれを引き合いに出して、「私はぎりぎりで空港に向かうようなことはしない。何が起こるかわからないので、何時間も前から空港で待つので、いつも家族に笑われている」と説明してくれた。

『危機と人類』の中で、彼は国家の危機について論じている。国家という複雑な組織は捉えにくいので、個人が危機をどのように乗り越えるかという視点を通して観察したらどうだろう、と提案している。彼の考え方に対して、Amazonのレビューの中に、個人の危機から国家の危機を捉えるのはどうかという意見があった。この意見は正しいのだろうかと感じたので、数学的な視点から考察を行ってみた。

国家は激変ともいえる大きな転換点を迎えるときがある。日本を例にとるならば、663年の白村江の戦で敗れたときや、1853年の黒船の来航だろう。白村江での敗戦の結果、律令制を導入することとなったし、黒船の来航により明治維新という大きな改革を行った。このような激変をどのように乗り越えたかを理解することは簡単な作業ではない。

一方、個人の危機の乗り越え方についてはどうだろう。東日本大震災があったとき、心に大きなダメージを受けた人に対して、心のケアの必要性が叫ばれた。専門の精神科医などの協力を得ながら、多くの人が危機を乗り越えたことだろう。米国では、個人が大きな心のダメージを受けたときに、その危機を乗り越えられるかどうかについての決め手は分かっているそうだ。そこで国家が危機を乗り越えられるかどうかを、個人の決め手を通して観察してはというのが、ダイアモンド教授の提案だ。

ダイアモンド教授によれば、個人的危機を乗り越えられるかどうかの決め手となる要因は12ほど知られている。それらは、「危機に陥っていることを認める」や「行動を起こすのは自分であるという責任の受容」などである。これらを国家のレベルに移して考えようというのが彼の提案である。例えば、先の二つを個人のレベルから、国家のレベルに移したとき、「国家が危機に陥っていることを認める」や「行動を起こすことへの国家としての責任の受容」などとなる。

12の要因に対して、個人のレベルから国家のレベルに移したときの対応関係を示したのが下図である。ここで青は個人、草色は国家である。この対応関係には、人を国に変えるだけで得られる類似的なものが7要因、一般化すると得られるものが2要因、類推によって得られるメタフォ的なものが3要因ある。もちろん個人にはなくて国家だけに存在する要因も7ほどある。
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ダイアモンド教授の手法は、よく知られている世界(空間)の構造から、解明されていない世界(空間)の構造を観察しようというもので、自然科学の分野ではよく利用される方法である。数学の分野で、これを担っているのは圏論なので、早速ダイアモンド教授の提案に応用してみよう。

数学の中で一番重要な概念は、「同じである」ことを数学的に表すことである。中学校に入ってすぐに三角形の合同や相似について学習するが、これがそうである。三角形の合同は、二つの三角形が重なり合えば同じということなので、とても分かりやすい。

数学ではこのような具体的な考え方を、だんだんに抽象化していく。例えば、二つの二次元物体があったとき、一つの光源からそれらに光を当て、それが作り出す影が同じになるならば、「同じもの」と見なすこともできる。これは射影幾何学よばれ、この世界では全ての三角形は同じものとなる。

さらに、近いものは近いところに移すという制限の下で、二つの物体の間で、それぞれの全ての点に対して、1対1の関係を得られれば「同じもの」と見なすこともできる。これはトポロジー(位相幾何学)とよばれ、この世界ではすべての多角形は同じものになる。

抽象化をだんだんに進めていくと、圏論という世界にたどり着く。ここでの「同じもの」は、少し難しい言葉だが、「随伴」と呼ばれる。圏論では、対象、射、結合、恒等射から成り立つ、圏という世界を扱う。

対象はメンバー(あるいは集合)と考えるとよい。例えば、学校のあるクラスを考えることにしよう。クラスを構成する生徒たち全員は対象となる。また女子生徒の集合も対象となり、男子生徒の集合も対象となる。さらにテニス部に属している生徒の集まりを対象にしてもよい。対象の決め方は自由で、圏にどのような性格を持たせるかによって決まる。

射は対象と対象の関係と考えればよい。射には方向性があって、ある対象からある対象へと写像される。写像する側をドメイン写像される側をコドメインと呼ぶが、射はすべてのドメインに対して定義されていなければならない。例えば、バレンタインチョコを送るという関係を考えたとき、全ての女子がある一人の男子にチョコを送らなければならないが、チョコをもらえない男子がいても構わないというのが射である。ドメインとコドメインは対象で、ドメインは対象全体であり、コドメインは対象の一部でも構わない。

ある射を施したあと、その結果に対して、別の射を施すことがある。例えば、バレンタインチョコをもらった男子のそれぞれに対して、所属するクラブを求めるなどがそれである。このようにコドメインの対象とドメインの対象が同じであるとき、二つの対象は結合できるというのが、圏に要求されている機能である。さらに、特殊な射として自分自身に移す恒等射がある。

圏と圏の間でも射が定義されるが、これは関手と呼ばれる。この関手を用いて、二つの圏が同じであるかどうかが定義されている。その定義は次のようになる。二つの圏\(\mathcal{C}\),\(\mathcal{D}\)があるとし(図で描くとき\(\mathcal{C}\)を左側に\(\mathcal{D}\)を右側にする)、\(\mathcal{C}\)から\(\mathcal{D}\)への関手を\(R\)(右に向かう矢ということで)、逆方向の関手を\(L\)とする。

\(\mathcal{C}\)の任意の対象\(A\)と\(\mathcal{D}\)の任意の対象\(B\)に対して、\(L(B)\)から\(A\)への射の集合(\(L(B)\)から\(A\)への射は通常は一つではなく、複数個存在する。このため射の集合と言う言葉を使う)と\(B\)から\(R(A)\)への射の集合とが1対1の関係にある時、\(\mathcal{C}\)と\(\mathcal{D}\)は随伴であるという。二つの圏が随伴であるとき、\(\mathcal{C}\)は\(\mathcal{D}\)よりも複雑な構造を有するが、\(\mathcal{D}\)の構造が全て\(\mathcal{C}\)では保持されているという意味で、同じであると見なしている。
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ダイアモンド教授の提案では、危機の対処法に対して、複雑な構造を有する方が国家で、簡単な方が個人である。そして、個人での構造が国家の中でそのまま保持されていると言っている。これを圏論で描いてみよう。

国家を圏\(\mathcal{C}\)とし、個人との対応関係がある要因の集まりを対象\( A=\{N1,N2,N3,N7,N4,N5,N8,N9,N12,N6,N10,N11\} \)とし、対応関係がない要因の集まりを対象\( A’=\{N21,N22,N23,N24,N25,N26,N27\} \)とする。

個人を圏\(\mathcal{D}\)とし、国家との対応関係がある要因の集まりを対象\( B=\{I1,I2,I3,I7,I4,I5,I8,I9,I12,I6,I10,I11\} \)としよう。また、国家との対応関係がない要因の集まりを\( A’=\{N21,N22,N23,N24,N25,N26,N27\} \)とする。また圏\(\mathcal{C}\)の対象\(A’\)の任意の要素\(n’\)は、圏\(\mathcal{C}\)の一つの要素\(Nothing\)から成り立っている対象に写像されるものとしよう。すなわち、\(R(A’)=\{Nothing\}\)である。

圏\(\mathcal{C}\)と圏\(\mathcal{D}\)の関係を表すと図のようになる。
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この図から対応関係を詳細に検討してみると、二つの圏が随伴となっていることが分かる。詳しい説明は省くが、\(\mathcal{C}\)には、対象として\(A\)と\(A'\)と\(L(B)\)がある。また\(\mathcal{D}\)には、対象として\(B\)と\(R(A)\)と\(R(A')\)とがある。\(\mathcal{C}\)と\(\mathcal{D}\)からそれぞれ任意に一つの対象を取り出し、これを\(X\)と\(Y\)とする。このとき、\(L(Y)\)から\(X\)への射の集合と\(Y\)から\(R(X)\)への射の集合とが1対1の関係にあることを示せばよい。あるいは、\(L \circ R (X) \rightarrow I_\mathcal{C} (X)\)と \(I_\mathcal{D} (Y) \rightarrow R \circ L (Y) \)が成り立つことを示せばよい。証明は省くが成り立つので、ダイアモンド教授の提案は正しいことが分かり、Amazonでのレビューでの懸念は必要ないこととなる。

ダイアモンド教授は、明治維新をもたらした具体的な対応がどの要因に相当するかを示しているが、それをまとめたのが次である。
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ダイアモンド教授が提案されている方法を用いて、白村江での戦いという危機を迎えたときの、天智・天武・持統朝での対応を分析すると面白いと思うが、それについては次の機会ということにしたい。

圏論をデータベースに応用する(2)

5.4 セッターとゲッターの関手を一般化する

前回の記事の中で、説明の中心となっていた\(Store \ a \)という関手は、代数的データ型を用いて、

data Store a s = (a, a -> s)

で定義した。しかしこれはデータベースでのセッターとゲッターを分かりやすくするための便宜的な方法である。すなわち、これらの操作でデータ型が変化しないように、

get :: s -> a
set :: s -> a -> s

としたためである。

しかし、セッターでは、フィールドに書き込むデータが、今までに書き込まれていたデータ型とは異なる可能性もある。その結果、レコードのデータ型も影響を受けるので、セッターとゲッターの型シグネチャは、一般的には

get :: s -> a
set :: s -> b -> t

となる。これに対応させて、代数的データ型を定義すると、

data IStore a b t = (a, b -> t)

となる。データ型の変化を許す\(IStore\)はインデックス付き\(Store\)と呼ばれる。このため、\(Store\)の前に\(I\)がついている。しかし、タプルのかたちでは使いにくいので、\(IStore\)を次のように定義しなおして、以下ではこれを利用することにしよう(とはいっても、証明に入ると元の形で用いるので、ご容赦ください)。

data IStore a b t = IStore a (b -> t)


\(Store\)は関手にして用いたが、同じように\(IStore\)も関手として用いる。そのためには関手の概念を拡張したインデックス付き関手\(IxFunctor\)が必要である。

class IxFunctor w where
  imap :: (s -> t) -> w a b s -> w a b t

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図10:インデックス付き関手での\(i map \) (射\(f\)を関手\(W\)で写像\(W(f)\))-図はHaskellでの表現

\(IStore\)は、このインスタンスとなる。

instance IxFunctor IStore where
  imap f (IStore x h) = IStore x (f . x)

インデックス付きのコモナドは、

class IxComonad w where
  iextract :: w a a t -> t
  iduplicate :: w a b t -> w a j (w j b t)

となり、このインスタンスなので、

instance IxComonad IStore where
  iextract (IStore a h) = h a
  iduplicate (IStore a h) = IStore a (\c -> IStore c h) 

となる。

さらに、F-余代数は、圏\(\mathcal{C}\)とその上の自己関手\(F\)に対して、\(\mathcal{C}\)の対象\(A\)と、\(\mathcal{C}\)の射\(β: A \rightarrow F(A) \)との組\( (A,β) \)である。これを考慮すると、F-余代数は

type ICoalg w s t a b = s -> w a b t

となる。

5.5 コモナドとF-余代数

前回の記事で説明したコモナド余代数について復習しておこう。

Haskellではコモナドを次のように定義した。

class Functor w => Comonad w where
  extract :: w a -> a
  duplicate :: w a -> w (w a)

そして満たさなければならない条件は、

extract . duplicate      = id
fmap extract . duplicate = id
duplicate . duplicate    = fmap duplicate . duplicate

である。
また、F-余代数は

type Coalgebra w a = a -> w a

とし、評価射を

coalge :: Coalgebra w a

で定義した。このとき、

extract . coalg = id
fmap (coalg) . colag = duplicate . coalg

を満足するとき、F-余代数を特別にコモナド余代数と呼んだ。可換図式では次のようになった。

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図11:コモナド余代数になるための条件

これと同じことを、インデックス付き関手に対して、考えてみよう。

1番目の条件は\(iextract\)に関連し、

icoalg_aa :: ICoalg w s t a a
iextract . icoalg__aa  = id

となる。

2番目の条件は\(iduplicate\)に関連する。F-余代数では下図が成り立つ。

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図12:F-余代数の空間-図はHaskellでの表現

図に示すように、

icoalg_ab = s -> w a b t
u = w a b t
v = w a b t'
icoalg_bc = u -> w b c v

とすると、

icoalg_bc . icoalg_ab = s -> w a b t -> w b c (w a b t')

となる。

即ち、2番目の条件は以下のようになる。

icoalg_ab :: ICoalg w s t a b = s -> w a b t
icoalg_bc :: ICoalg w s t b c = s -> w b c t
icoalg_ac :: ICoalg w s t a c = s -> w a c t
icoalg_bc . icoalg_ab = iduplicate . icoalg_ac

可換図式で示すと下図の通りである。コモナド余代数の場合には、コモナドに与えられた射で計算しても、余代数での評価射を用いて計算してもよいこととなる。

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図13:コモナド余代数となるための条件-図はHaskellでの表現

5.6 評価射と代数的データ型\(Lens\)

関手\(Istore\)はコモナドであるので、これをコモナド余代数とするような評価射\(β : s \rightarrow IStore \ a \ b \ t \)を見つけることができれば、これを用いても計算できるようになる。

ここでは、前回の記事で説明した\(Lens\)をとりあげよう。\(Lens\)を最初に定義し、そのあと\(Lens\)が評価射であることを示そう。

\(Lens\)がどのように見出されたのかは不明であるが、これを発見した人はすごいと思う。さらに、\(Lens\)が評価射であることを証明した人も素晴らしいと思う。証明は、Russel O’Connorさんの論文に示されているが、次のような逸話が残っている。実は、Bartosz Milewskiさんも同じころに気がついたそうで、証明が正しいかどうかを確認するために、そのドラフトをRussellさんに送った。そうしたら、Russellさんから同じ趣旨の論文を書いている最中だと言われたそうだ。今回の記事はBartoszさんの説明をベースにまとめたものだ。余談だが、世界は広いので、独創的な研究だと思っているときでも、複数の研究者が取り組んでいることが多い。このため、成果の公表には、戦略が必要だ。

Haskellでは、\(Lens\)は次のように定義している。

type Lens s t a b = forall (f :: * -> *). Functor f => (a -> f b) -> (s -> f t)

\(type\)で定義されているが、これは紛れもなく代数的データ型である。

\(Lens\)の使い方については、前回の記事で説明したが、そのとき用いた関数や変数の型シグネチャを確認しておこう。

車のデータベースに対して次のように定義した。車のレコードは、\(Car\)というデータ型を有し、フィールドには、製造社を示す\(maker\)と仕様を表す\(spec\)がある。仕様はデータ型\(Spec\)で定義し、そのサブフィールドには、車の名前の\(name\)と製造年の\(year\)がある。そして\(makeLenses\)を用いて、これらを\(Lens\)というデータ型にした。

{-# LANGUAGE TemplateHaskell #-}

import Control.Lens

data Car = Car {_maker :: String , _spec :: Spec} deriving Show
data Spec = Spec {_name :: String, _year :: Int} deriving Show 

makeLenses ''Car
makeLenses ''Spec

それでは型シグネチャを調べてみよう。\(Getter\)と\(Setter\)の関数である\( (^.) \) と\( (.~) \)、およびフィールドの名前について求めると次のようになる。

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図14:データ型\(Car\)で用いられているフィールド名の型シグネチャ
これから、ゲッターの\( (^.) \) とセッターの\( (.~) \)は、それぞれ引数\(Getting\)と\(ISetter\)を有し、そのデータ型はいずれも\(Lens\)である。従って、この引数によりアクセスすべき場所を得ていることが分かる。この場所を与えているのが、それぞれのフィールドを表している\(maker, spec, name, year\)だ。いずれもデータ型は\(Lens\)となっていることに気がつく。

これからの話は\(Lens\)が評価射であることを示すものだが、\(maker, spec, name, year\)がそのインスタンスであることを念頭に置いて進めよう。まずは\(Lens\)と\(IStore\)の関係をついて考えてみよう。

\(Lens\)のデータ型の定義で、\(a \rightarrow f \ b \)はフィールドの変更、\(s \rightarrow f \ s \)はレコードの変更と見なせばよい。上記の定義は、前回の説明で見慣れた\( Store \)とはだいぶ異なるように見えると思うが、式を変形すると、

forall (f :: * -> *). (a -> f b) -> (s -> f t)

は、

s -> forall (f :: * -> *). (a -> f b) ->f t

となる。

このように書き換えると

forall (f :: * -> *). (a -> f b) ->f t

data IStore a b t = IStore a (b -> t)

すなわち

data IStore a b t = (a, b -> t)

が等しければ、\(Lens \ s \ t \ a \ b = λ s \rightarrow IStore \ a \ b \ t \)となり、\(Lens\)が評価射であることが示される。以下ではこれを示そう。

5.7 米田の補題とグロタンディーク関手

それでは米田の補題を復習しよう。
[米田の補題]
局所的に小さな圏を\(\mathcal{C}\)とする。即ち、任意の対象\(A,B\)に対して、\(A\)から\(B\)への写像の集まりが集合となる圏について考える。このとき、全ての対象\(A\)に対して、\( {\rm Hom}_\mathcal{C} \)関手と呼ばれるものを用意することができ、これは集合の圏\( \mathbf{Set}\)への自然変換を与えるというのが米田の補題である。具体的に表してみよう。

\( {\rm Hom}_\mathcal{C} \)関手は
\begin{eqnarray}
h^A = {\rm Hom}_\mathcal{C} (A,-)
\end{eqnarray}
と表され、これは、任意の対象\(X\)に対して、射\( {\rm Hom}_\mathcal{C}(A,X) \)を与え、任意の写像\(f : X \rightarrow Y\)に対して、射\(f \circ - \)を与える。なお、任意の射\(g \in {\rm Hom}_\mathcal{C}(A,X) \)に対して、\(f \circ g \in {\rm Hom}_\mathcal{C}(A,Y) \)となる。式で表すと、
\begin{eqnarray}
h^A (f) &=& {\rm Hom}_\mathcal{C}(A,f) \\
h^A (f)(g) &=& f \circ g
\end{eqnarray}

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図15:\( {\rm Hom}_\mathcal{C} \)関手

\(F\)を\(\mathcal{C}\)から集合の圏\( \mathbf{Set}\)への関手としよう。このとき米田の補題は「\( h^A\)から\(F\)への自然変換は\(F(A)\)と1対1対応(全単射)である」となる。即ち、
\begin{eqnarray}
Nat_{[\mathcal{C},\mathbf{Set}]} (h^A,F) \cong F(A)
\end{eqnarray}
となる。ただし、\( [\mathcal{C},\mathbf{Set}] \)は、圏\(\mathcal{C}\)から、圏\(\mathbf{Set}\)への関手を射とした圏である。

ここで自然変換が出てきたので、若干の説明を加えておこう。圏\(\mathcal{C}\)からは、関手\( {\rm Hom}_\mathcal{C} (A,-) \)と、(集合の圏へと移す)任意の関手\( F \)が存在し、それぞれは集合の圏\( \mathbf{Set}\)に写像する。このとき、\( {\rm Hom}_\mathcal{C}(A,-) \)から\( F \)へ自然変換が存在し、\(A\)について自然であるというのは、図10での\(X,Y\)を\(A,B\)に変え、任意の\(B\)に対して、\(A\)から\(B\)への任意の射\(f : A \rightarrow B \)を考えたとき、\(θ_B \circ h^A(f) = F(f) \circ θ_A \)が成り立つことと同じである。図11にこれを示す。

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図16:米田の補題における自然変換

ところで、米田の補題は\( {\rm Hom}_\mathcal{C} (A,f) (id_A) = f \)を利用することで証明できる。証明はここでは省く。

米田の補題で、\(F\)は、集合の圏\(\mathbf{Set}\)への関手であれば、なんでもよかった。\( {\rm Hom}_\mathcal{C} (B,-) \)は、集合の圏\(\mathbf{Set}\)への関手なので、米田の補題での\(F\)を\( {\rm Hom}_\mathcal{C} (B,-) \)で置き換えると、
\begin{eqnarray}
Nat_{[\mathcal{C},\mathbf{Set}]}({\rm Hom}_\mathcal{C}(A,-),{\rm Hom}_\mathcal{C}(B,-)) \cong {\rm Hom}_\mathcal{C}(B,A)
\end{eqnarray}
を得る。そしてここでの自然変換は、グロタンディーク関手(Grothendieck functor)と呼ばれる。図で示すと次のようになる。

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図17:グロタンディーク関手

圏\(\mathbf{Set} \)の代わりに圏\( [\mathcal{C},\mathbf{Set}] \)を使って表すと下図のようになる。

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図18:グロタンディーク関手(別表現)

これをHasekllで表すと

forall c. (a -> c) -> (b -> c) ≃ (b -> a)

となる。

ここでは、\(A,B\)は局所的に小さな圏\( \mathcal{C} \)の対象であった。それでは、この圏の射を対象とした圏\( [\mathcal{C} , \mathcal{C}]\)を考えてみよう。米田の補題を適用すると
\begin{eqnarray}
Nat_{[ [\mathcal{C} , \mathcal{C}],\mathbf{Set}]} ({\rm Hom}_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g,-), {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,-)) \cong {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,g)
\end{eqnarray}
となる。

これはHaskellでは

forall f. (forall c. g c ->  f c) -> (forall c’. h c’ -> f c’) ≃ (forall c. h c -> g c)

となる。

5.8 随伴

随伴の定義は、圏 \( \mathcal{C} \)と\( \mathcal{D} \)、その間の関手\(L:\mathcal{D} \rightarrow \mathcal{C}\)と\(R:\mathcal{C} \rightarrow \mathcal{D}\)において、任意の対象\(A \in \mathcal{C},B \in \mathcal{D} \)に対して\( {\rm Hom}_{\mathcal{C}} (L(B),A) \)と \( {\rm Hom}_{\mathcal{D} } (B,R(A) ) \)とが一対一対応(全単射)であること、すなわち
\begin{eqnarray}
{\rm Hom}_{\mathcal{C}} (L(B),A) \cong {\rm Hom}_{\mathcal{D} } (B,R(A) )
\end{eqnarray}
が成り立つことである。

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図19:随伴

Bartoszさんは、圏 \( \mathcal{C} \)と\( \mathcal{D} \)の代わりに、圏 \( \mathcal{C} \)から圏\( \mathcal{C} \)への関手を対象とした圏\( [\mathcal{C} , \mathcal{C}]\)を用いた場合には、随伴が成り立つことを発見した。すなわち下記の式が成り立つことを示した。
\begin{eqnarray}
{\rm Hom}_{ [\mathcal{C},\mathcal{C}]} (L(g),f) \cong {\rm Hom}_{ [\mathcal{C},\mathcal{C}]} (g,R(f) )
\end{eqnarray}
図で表すと、

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図20:圏\([\mathcal{C},\mathcal{C} ] \)での随伴

この随伴をHaskellで表すと、

forall f. (forall c. (L g) c ->  f c) ≃ (forall c. g c -> (R f) c

となる。

5.9 証明

ここまでは準備だ。ここからが証明で、グロタンディーク関手から\(Lens\)が評価射であることが導き出される。小さな圏\( \mathcal{C} \)から\( \mathcal{C} \)への関手を対象とした圏\( [\mathcal{C} , \mathcal{C}]\)に対してグロタンディーク関手を求めると次のようになる。

\begin{eqnarray}
Nat_{[ [\mathcal{C} , \mathcal{C}],\mathbf{Set}]} ({\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g,-), {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,-)) \cong {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,g)
\end{eqnarray}
グロタンディーク関手を圏\( [\mathcal{C} , \mathcal{C}]\)に適応したのがミソで、左辺から\(Lens\)の代数的データ型が、右辺からコモナドの機能を有する\(IStore\)のデータ型が導き出され、\(Lens\)が評価射であることが示される。それでは式を変形してみよう。

上の式で、\(g\)を\(L(g)\)で、\(h\)を\(L'(h)\)で置き換えると、
\begin{eqnarray}
\forall f. Nat_{[ [\mathcal{C} , \mathcal{C}],\mathbf{Set}]} ( {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (L(g),f), {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (L'(h),f))) \cong {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (L'(h),L(g) )
\end{eqnarray}
となる。

随伴を用いて書き換えると、
\begin{eqnarray}
\forall f. Nat_{[ [\mathcal{C} , \mathcal{C}],\mathbf{Set}]} ({\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g,R(f)), {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,R'(f))) \cong {\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,R'(L(g)) )
\end{eqnarray}

Haskellで表すと

forall f. (forall c. g c ->R f c) -> (forall c'. h c' -> R' f c') ≃ (forall c. (h c -> R' (L g) c)

だ。

ここで、\(g\)と\(h\)は\( {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } \)関手なので、
\begin{eqnarray}
g &=& g^B &=& {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (B,-) \\
h &=& h^T &=& {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (T,-)
\end{eqnarray}
である。\(R(f)\)と\(R’(f)\)も\( {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } \)関手なので、
\begin{eqnarray}
{\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g,R(f)) & \rightarrow & Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g^B, R(f)) \\
{\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,R'(f)) & \rightarrow & Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h^T, R’(f)) \\
{\rm Hom}_{ [\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h,R'(L(g)) & \rightarrow & Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (h^T,R'(L(g))
\end{eqnarray}
となり、これらに米田の補題を適応すると、
\begin{eqnarray}
\forall f. {\rm Hom}_{[ [\mathcal{C} , \mathcal{C}],\mathbf{Set}]} ( R(f(B)), R'(f(T)) ) \cong R'(L(g(T)))
\end{eqnarray}
となる。

ここで、圏論Haskellの対応関係を示しておこう。ここまでの議論で、左側は、 \( \mathcal{C} \)から \( \mathcal{C} \)への関手を射とした圏\( [\mathcal{C}, \mathcal{C}] \)であり、右側は集合の圏\(\mathbf{Set}\)である。従って、\( (R \ f) \ B \)は出力を\( f(B) \)とする射であることが分かる。いま入力を\(A\)とすると、\( (R^A \ f) \ B \)は\(A\)から\( f(B) \)への射となる。

圏論Haskell
\(g^B \ C = {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (B,C) \)\( g \ c = (b \rightarrow c) \)
\(h^T \ C' = {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (T,C') \)\( h \ c' = (t \rightarrow c') \)
\( (R^A \ f) \ B = {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (A, f(B)) \)\( (Ra \ f) b = (a \rightarrow f \ b) \)
\( (R'^S \ f) \ T = {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (S, f(T)) \)\( (R's \ f) t = (s \rightarrow f \ t) \)

これより、上記の左辺をHaskellで表すと、

forall f. (a -> f b) -> (s -> f t) 

となる。これは\(Lens\)の定義そのものである。

右辺を変換してみよう。\(R'\)の中を変形しよう。
\begin{eqnarray}
&& Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} ( L (g), f) \ where f : {\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (A,-) \\
&=& Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g, R (f))
\end{eqnarray}

\(g \ T={\rm Hom}_{ \mathcal{C} } (B,T)\)であること、任意の\(T\)に対して\(Nat_{[\mathcal{C} , \mathcal{C}]} (g \ T, R (f) \ T) \)であることに注意を払って、上記をHaskellで表すと、

forall t. g t -> a -> f t
= (a, g t) -> f t
= (a, b -> t) -> f t

となる。これより、\( L (g) \ T\)はHaskellでは\( (a, b \rightarrow t) \)となる。

圏論Haskell
\( L (g(T))=(A,{\rm Hom}_{ \mathcal{C}} (B,T)) \)\( L (g) t =(a, b \rightarrow t) \)

これより、右辺は
\begin{eqnarray}
&& R'(L(g))
&=& R' (A,{\rm Hom}_{ \mathcal{C}} (B,-) )
\end{eqnarray}
となる。従ってHaskellで表すと

R (L (g)) t = s -> (a,b->t)

となる。これの右側\( (a, b \rightarrow t) \)は、コモナドとしての機能を有するセッターとゲッターのための代数的データ型として定義したものである。

data IStore a b t = (a, b -> t)

また、左辺の方は、\(Lens\)のための代数的データ型である。

type Lens s t a b = forall (f :: * -> *). Functor f => (a -> f b) -> (s -> f t)


従って、

Lens s t a b  ≃ s -> IStore a b t

となる。

これにより、\(Lens\)が評価射であることが証明され、めでたしめでたしだ。

情報処理の中で、データベースはとても重要な応用分野である。データベースが、計算についての理論的な根拠を与える圏論と、そして理論的な枠組みの中でプログラミングを可能にしてくれるHaskellとつながった意義はとても大きい。\(Lens\)の発見者は素晴らしい方だと思うし、また\(Lens\)が評価射であることを証明した方もすごいと思う。データベースと圏論の関係については、David I. Spivakがその著書"Category Theory for the Sciences"のなかでも、別の観点から説明している。圏論そしてHaskellが、このように重要な応用分野で利用されることはとても良いことだと思う。

追伸:
最後に、得られた結果を図で示そう。ここには、比較しやすくするために、圏論での表記とHaskellでの記述を合わせて載せた。

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図21:\(Lens\)が評価射であることを証明したときの結論を示したもの。

縄文時代から弥生時代への移行期での神奈川県の土偶と植物考古学

日曜日(1日)に神奈川県立歴史博物館で、佐々木由香さんの「植物考古学から見た縄文・弥生移行期」の講演があり、植物考古学というあまり聞きなれない表題に惹かれて参加した。科学技術が進展したおかげで、遺跡から発見された土器に含まれている植物の種の圧痕から、そのレプリカを得て植物の種類を1990年代に同定できるようになった。これはレプリカ法と呼ばれ、さらに走査型電子顕微鏡を用いての新しい方法は、レプリカ・セル法といわれる。

レプリカ・セル法を用いることで、遺跡で生育していた植物の種類が分かるが、その遺跡が長く使われていた場合には、生育していた植物の移り変わりをも知ることができる。さらにそれぞれの時代での気候や集落規模が分かれば、環境が人々の生活にどのような影響を及ぼしたか、また環境の変化に対して人々がどのように適応しようとしたかも知ることができる。

今日の温暖化が地球規模での問題であることは広く認識され、これへの対応が急がれている。この問題を克服するための示唆を与えてくれるのが、縄文時代から弥生時代の移行期に生じた環境変化を克服した人々の英知だろう。植物考古学は、地味な研究ではあるが、今日われわれが抱えている問題に解を与えてくれるとても貴重な学問分野と言える。

佐々木さんが、未発表の内容を含めながら、東日本特に関東での食物の生態系がどのように変わったかをとても分かりやすく説明してくれた。話題が進んでいくうちに、クリ林で囲まれた集落のスライドがあらわれた。直感的にどこかで似たような絵を見たと思っていたところ、「私の恩師は辻誠一郎先生です」と説明されたので、東北北部縄文の旅の記事の中で紹介した辻さんのお弟子さんだと分かった。このために似たような表現法をしているのだろうと納得し、また世の中は狭いとも思った。

佐々木さんの話をとても短くまとめると次のようになる。
1) 生活しやすかった縄文中期は、クリの林を半栽培で育成して大集落を営んだ。
2) 後期・晩期を迎えると、寒冷化によりそれまでの体制を維持できなくなったため、クリに加えてトチノキの半栽培も始め、環境変化に対応しながら生き抜いた。
3) 弥生時代に入ると、クリ・トチノキに加えてイネの栽培を始めるようになった。
このため、一般的に言われているように、クリそして、クリをやめてトチノキ、そしてトチノキをやめてイネへと言うように非連続的に作物栽培が進んだのではなく、重層的に進んだというのが佐々木さんの説だった。そこには縄文・弥生の人びとが、厳しい環境変化に上手に対応してたくましく生き抜いた姿が見えるとも話していた。また植物利用がこのように変化したのは、寒冷化も一つの大きな要因だが、関東では縄文時代後期・晩期に生じた海水準の下降・上昇がもっと大きな要因だったのではないかと説明された。

東北北部縄文の記事の中でも説明したが、中期には集落数も多くそして大規模でもあった。ところが寒冷化が進む後期・晩期には、大集落に住んでいた人々は分散化し、点在して小集落に住むようになる。しかし大集落を営んでいたころの集団の絆を保つために、子孫たちは、彼らの祖先を祀るためのストーンサークルを作り、行事ごとに集まって、一族としての結束を固めたと考えられている。

関東地方では、形態は異なるが、ストーンサークルではなく再葬墓によって、かつての集団の絆の維持を図ったと思われる。再葬墓は、亡くなったあと一時的に埋葬し、骨化したあと再び甕や壺に入れて、集団墓地ともいえるところに埋め直す葬儀で、再葬のとき、離れて生活している一族の人々が集まり、かつて大集団で一緒に暮らしていた一族としての絆を固めたと考えられている。再葬墓は、中部地方と東北地方南部で、縄文から弥生に移行する時期にみられる。

中期での大集落化、後期・晩期での分散化した人々の間での絆を保ちながらの小集落化という現象は、個人的には次のように考えている。中期の頃に人々は、大集落を形成して多くの人々が共同で生活することのメリットを知識として獲得した。後期・晩期になると、寒冷化という気候変動により、大集落で生活することができなくなったが、共同で生活していたころのメリットを生かすために、小集落に分散したあとも、ストーンサークルや再葬墓を利用して、大きな集団としてのメリットを生かせるようにした。このメリットは、厳しい環境に耐え抜くために、離れて住んでいる人々の間で情報を交換することで、環境への適応方法を学習したことだと考えている。縄文後期・晩期の凄まじい人口減少を見ると生き残りは決して生易しいものではなかった。それぞれの地域の事情に合わせて、良い解決策を見出した人々が生き残ったということだろう。戦略が失敗に終わった人々も少なくなかっただろう。たまたま偶然かもしれないが、クリ林とともにトチノキの半栽培を行うという戦略をとった人々の中の運のよかった人々が生き残り、そして遺跡として残ったのだろうというのが、個人的な意見だ。

佐々木さんの講演は、神奈川県立博物館での特別展「縄文と弥生」に合わせて開催された。講演のあと時間があったので、特別展を見学した。縄文時代から弥生時代にかけての土器変遷を視覚化するために、この時代の沢山の土器が展示されていた。特に晩期後葉の浮線文土器が多く展示されていた。この形式は、関東地方、中部地方、東北南部で見られた。

ほとんどが土器という展示の片隅に、なんと土偶が展示されていた。神奈川県の有名な土偶のお出ましである。
縄文時代土偶は、豊穣や多産を祈る祭祀の道具とみられているが、弥生時代になると役割が変わり、蔵骨器として使われるようになる。このため弥生時代土偶は、姿はほとんど変わっていないのに、土偶型容器と呼ばれる。
縄文時代の狩猟採取から弥生時代水稲稲作へと生業の形態が変化する中で、土偶の使われ方も変化したものと思われる。

展示されていた土偶は、縄文時代後期のものである。
鎌倉市の東正院出土の筒型土偶、ハート型土器の成員でもある。トーハクと横浜市歴史博物館のハート型土器は残念ながら展示されていなかった。
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綾瀬市上土棚南遺跡出土の中空土偶である。頭部を想像して、縄文の人々の仲間になるのもまた楽しい。
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平塚市王子ノ台遺跡出土の中空土偶。お面のような顔立ちから「仮面土偶」とも呼ばれる。古墳時代の埴輪を連想させてくれるが、この土偶は本当は美しい女性である。
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昨年発見された秦野市菩提横手遺跡出土の中空土偶。あちらこちらの展示会に引っ張り出されて忙しい1年を過ごした。
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大井町中屋敷遺跡出土の弥生時代土偶形容器。前の方にちょこんと見えているのが骨片。
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中屋敷遺跡は、神奈川県では最も初期の弥生集落で、イネ・キビ・アワの炭化穀類が出土したことから、稲作が始まったと考えられている。
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今回は、縄文から弥生への移行期に関しての講演と特別展であった。旧石器時代から縄文への移行期、弥生時代から古墳時代への移行期など、歴史の中での移行期は激変のときなので、その原因と結果を考察することは面白い。縄文から弥生への移行期については、まだまだ分かっていないことの方が多いので、植物考古学のような地道な研究がなぞ解きをしてくれることを期待している。さらにその成果が今日の問題への解決策を与えてくれればなおさらよいとも思う。このようなことを考えながら夕闇が迫る神奈川県立博物館を後にした。

東北北部縄文の旅:御所野遺跡

最後の訪問地の御所野遺跡は、岩手県二戸郡一戸町に位置する、縄文中期(4,500~4,000年前)の遺跡である。下図のように、東ムラ、中央ムラ、西ムラと3か所の集落があり、また、中央には配石遺構(ストーンサークル)がある。500年間使われ、800軒の住居跡がある。
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縄文時代は、定住型の狩猟(漁撈)採取生活と位置付けられているが、実はその中身については、あまり理解していなかった。今回の旅を終えて整理している中で、この記事を書く直前になって、東大名誉教授の辻誠一郎さんが、JOMONFANに書かれた連載企画「北の縄文、海と火山と草木と人と」を読んで、初めて納得した。一言で言うと、「北の縄文人の人々は里山を作っていた」と辻さんは述べていて、説得力のある説明だった。

三内丸山遺跡年報20に、辻誠一郎さん他の「三内丸山遺跡の集落景観の復元と図像化」の研究論文が掲載されている。その43ページには三内丸山集落生態系の景観モデルが載っている。そこには、集落と半栽培化されたクリ林からなる里地、里地をとりまく台地ではクリ・なら類などの落葉広葉樹林からなる里山、里地をとりまく低地ではヤチダモ・ハンノキ湿地林となり、川や海へとつながって里川、里海が描かれ、三内丸山地域の景観が見事に復元されている。また里山の外側の奥山はブナ林となっている。人々は里地、里山でのクリの育成・維持・管理に努め、そして里山でのたきぎの切り出しなどをしながら林の生育に努めたのだろう。

また縄文時代後期の中居遺跡についても、八戸市埋蔵文化センター是川縄文館研究紀要5号の中の、吉川昌伸さんと吉川純子さんの論文「是川遺跡の縄文時代晩期の景観復元」の11ページに示されている。三内丸山遺跡と比較すると、かなり小規模にはなっているものの、住宅の周りの里地にクリ林が、それを取り巻く里山にクリ・トチノキ林がある。さらにその外側にゴボウ・ヒエ・ダイズ族やアサの畑が展開されている。食物の栽培がそろそろ始まったことを教えてくれる。

御所野縄文公園のホームページを改めてみると、「里山づくり」という項目がある。旅行に出かける前には気にも留めなかったが、縄文時代のキーワードは「里山」と認識したので、里山作りは、縄文時代を経験し検証するためのとても重要な活動だ、と今では理解している。

御所野遺跡に踏み入るためには、令和の時代から4000年前の縄文の時代をつなぐ懸け橋、全長86.5mの「きききのつり橋」を渡らなければならない。ここは谷が深いので、ロープを渡しただけの吊り橋だとすると、恐ろしさのあまり身がすくんでしまうだろう。しかしきききのつり橋は、右の方にカーブしながらゆっくりと古代へと誘導してくれる木製の通路で、時代をさかのぼっていく楽しさを与えてくれる。我々は暖かい木のぬくもりを感じながら、そして下には深い谷を見ながら、縄文時代へと時計を逆戻しした。
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つり橋を抜けると、晩秋真っ只中の、縄文時代の見事な紅葉が我々を出迎えてくれた。
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東ムラの集落へと入っていった。掘立柱建物の左側に小高い山と間違えてしまうような建物がある。
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近づいてみると、なんと竪穴住居だ。案内してくれた学芸員さんの話によると、竪穴住居を発掘しているときに、土の屋根だったことが判明したそうである。竪穴の床面に、柱を立て、柱と柱を梁でつないで家の構造を作り、屋根の構造となる木を縦方向と横方向に組み、土で覆って造ったとのことだった。日本の家屋もかつては土壁だったので、これと同じ原理なのだろう。夏涼しく冬暖かいということだったが、屋根にぺんぺん草などが生えてきたとき、手入れはどうするのだろうかと他人事ながら心配になった。
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掘立柱建物にも近づいてみた。
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東ムラより中央ムラへと向かった。途中の広葉樹がきれいに色づいていた。
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中央ムラの集落にたどり着いた。隣ムラはさほど離れていない。住居のつくりもさほど変化はないが、小さな小屋は粗末な作りだった。
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中央ムラには配石遺構がある。その周りには祭祀に使われたのだろうか、掘立柱建物があった。
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配列遺構は、二つの大きな環(ストーンサークル)になっていると説明があったが、判然としなかった。環を構成している石の塊がそれぞれ離れすぎているためだろう。石の塊の一つだ。
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中には一つの大きな平たい石で構成されているものもあった。
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ここでの配列遺構の考え方は進化を遂げて、次の時代になると、前の記事で説明した大湯ストーンサークルのような大規模なものへと変化していく。

さらに奥の方には西ムラが見えたが、ここで引き返した。
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紅葉が見事だった。
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御所野縄文博物館内に入って御所野遺跡から出土した土器などを見学した。この時期、東北地方での土器型式は、北部は直線的な円筒式で、南部は丸みを帯びた大木式だが、御所野遺跡では両方の形式が発掘されている。丁度二つの文化の接点だったのだろう。

まずは深鉢型土器だ。
すっとした感じの円筒式土器が3点、
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丸みを帯びて、模様も曲線が多い大木式土器が2点、
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そして大木式の浅鉢型土器。
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さらに棚にはたくさんの土器が並んでいた。円筒式と大木式が混じりあっているので、区別できるようになったか、試してみるのがよさそうだ。
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石鏃。これだけ集まると壮観で、すごみもある。
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ここからは一戸町内の別の遺跡から出土したもので、いずれも晩期に属し、「縄文の美」ともいえる亀ヶ岡式土器である。

蒔前遺跡出土の土器類である。
繊細な模様が素晴らしい鉢型土器、
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黄金色の光を放つ皿型土器、
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洗練された感じの壺型土器、
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完成された美の壺型土器、
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お気に入りの注口土器、
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いたずら心が働いたのだろう、鼻曲がり土面、
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次は山井遺跡出土の土器類である。
伝統を感じさせる模様の浅鉢型土器、
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割れていなければ、模様の美しさをもっと感じさせてくれる浅鉢型土器、
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ちょっと凝りすぎたかなと思える注口土器、
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最後を飾るのは、バスガイドさんが是非見るようにと勧めてくれた椛の木遺跡出土の「縄文ぼいん」。ピカソもびっくりだろう。
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かくして東北北部縄文の旅は終了だ。最後に御所野遺跡訪問にしたのは、素晴らしい組合せだと感じた。東北北部の縄文の特徴は、中期の大集落、後期のストーンサークル、晩期の「縄文の美」を伝える亀ヶ岡式土器だが、御所野遺跡ではこれらをまとめてみることで、得られた知識を整理することができた。

ところで東北北部は、かつては太平洋側は南部藩日本海側は津軽藩だった。この二つの藩が仲が悪かったことは有名な話だが、バスガイドさんの話では今でもわだかまりがあるとのことだった。縄文時代には、北部の円筒式土器と大木式土器がお互いに影響しあって、最後は素晴らしい亀ヶ岡式土器を生み出したように、協力しあったほうが良いものが生み出されると訪問者の私は考えるが、利害が絡む当事者たちの間では、なかなかそうはいかないようだ。現実は厳しいと憂鬱な気分になりもしたが、そうこうしているうちに、帰路につくための盛岡駅に着き、バスガイドさんにお別れを言って、車中の人となった。

東北北部縄文の旅:大湯ストーンサークル

東北北部縄文の旅も3日目、いよいよ最終日だ。最後の日ぐらいは顔を見せないとまずいと思ったのだろうか、岩木山がその雄姿を見せてくれた。
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大鰐スキー場の方はもう少しの辛抱だ。たくさんのスキー客をリフトで釣り上げるための準備も整っていた。
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この日は縄文時代後期前半の大湯ストーンサークル(秋田県鹿角市)と、中期後半の御所野遺跡(岩手県一戸町)を見学した。
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昨日見学した三内丸山遺跡は、大集落を形成し、最盛期には500人もの人々が住んでいたと考えられている。そしてこれから訪れる御所野遺跡も似ている。これらの遺跡は中期のもので、条件が整えば大きな集落で生活していたようだ。しかし4,200年前になると気温は2℃も低下し、人々は大集落を放棄した。これは大集落を支えていたクリなどの生産性が低下したためだろう。そして分散して小集落に住むようになった。しかし大集落を営んでいたころの部族の絆を維持するために、共同の墓地を造ったと考えられている。大湯ストーンサークルはその顕在化だろう。

大湯ストーンサークルは、空から見たほうが分かりやすい。次の航空写真に、二つの丸い円があるが、これが大湯ストーンサークルだ。左側が万座環状列石、右側が野中堂環状列石だ。それぞれ2重の環になっていて、最大径は52mと44mである。万座環状列石の周りには、建物が建っているのも分かる。写真にはないが、上部の方に大湯ストーンサークル館がある。
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では見学を始めよう。はじめに大湯ストーンサークル館に入り、ここの遺跡から出土した土器などを見学した。棚にはたくさんの土器が陳列されていて、左側は深鉢型土器で、右側は壺型土器である。
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中央の展示には特徴がある。水をさす時に使ったのだろうか、右側の土器は有孔土器である。
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形状に特徴がある深鉢型土器。上部が尖がっていて、おしゃれだ。果物入れにして食卓に置くのによさそうだ。f:id:bitterharvest:20191127105227j:plain
次は切断土器。上部は蓋として用いたのだろう。
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棚から特徴的な土器をピックアップしよう。模様がユニークな壺型土器だ。
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またまた模様の美しい土器。
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外の国から来たのかと思うほど、デザインがあか抜けている壺型土器。
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多様な用途に向けて、土器の種類が増えたのであろう。注口土器。
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中央の展示に戻って、数を表していると言われている土版。
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その他にも土製品があった。
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これも土製品だ。土偶の一種のようにも思えるが、いまいち用途が分からない。
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あの世で生活できるように、道具を用意したのだろうか。ミニチュア土器もあった。
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同じ用途なのだろうか。鐸型土製品である。
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縄文時代の道具で、石斧と弓矢。
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いよいよ野外の見学だ。縄文時代の林が再現されていた。クリ、ブナ、トチノキ、コナラ、ミズナラ、オニグルミ、ガマズミ、ウグイスカズラなどが植えられているようだ。
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万座環状列石の遠景だ。列石を囲んだ掘立柱建物がこの場所を際立たせてくれる。
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万座環状列石の内部だ。石が塊を作りながら置かれているのが分かる。環状列石は、この写真からは分かりにくいのだが、二重の環になっている。真ん中にある石が内側の環を構成し、手前にある石が外側の環を構成している。
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別の角度から見ると、
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外側の環をよく見ると、いくつかにグループ化され、それぞれのグループは小さな石の環を形成していることが分かる。
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万座環状列石から外れて、奥の方に目を凝らすと5本柱建物が見える。写真ではわかりにくいが、中央左に棒が建っているように見えるのがそれである。用途は分かっていないようだ。
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掘立柱建物に近づいてみる。
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日時計だろうか。真ん中に石の柱が立っている。
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次は、野中堂環状列石だ。遠景は
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万座環状列石と比較すると石の数が少ない。近づいてみると、二重の環になっていることがはっきりと分かる。また、環と環との間に日時計があることも分かる。
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さらに大写しにしてみよう。
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大湯ストーンサークルは、地上から見るよりも、高台からあるいは空から見たほうが、全容がはっきりしてよさそうだ。館内に上空からの動画を見せてくれる設備があればと思った。
さて、次は今回の最終訪問地である御所野遺跡だ。

東北北部縄文の旅:亀ヶ岡遺跡

三内丸山遺跡を出るころに降り始めた雨は、亀ヶ岡遺跡がある「つがる市」に入ったころには、横殴りの本格的な雨になった。冬場のために設けられた防雪棚もなんのその、雨は激しくバスの側面をたたいていた。ここでの訪問場所は3か所で、つがる市縄文住居展示資料館カルコ、亀ヶ岡遺跡、縄文館(木造亀ヶ岡考古資料室)だ。

亀ヶ岡式土器は、縄文時代晩期の東北地方と南北海道の土器の総称だ。教科書にも出てくる名称なので、さぞかし立派な遺物がみられるのではと期待を込めて、バスガイドさんの説明を聞いていると、どうもそうではないらしいということが分かってきた。

彼女は申し訳なさそうに教えてくれた。江戸時代初期の元和8年(1622)に、弘前藩津軽信牧が、西津軽藩亀ヶ岡に城を建てようとして、土木工事を始めたところ、土偶、甕、壺などがザクザク出土した。城の建設は一国一城令により中止されたが、出土した遺物は好事家によって集められた。『元禄日記』元和9年条には「奇代の瀬戸物を掘り出した」と書かれているので、その当時でも「お宝もの」だった。歴代の藩主がこの地を訪れる際には鑑賞したが、江戸への土産にも使った。そのうち全国的にも有名になり、文人や骨董愛好家の手に渡り、中には堺から外国へも流れてしまったものもあった。多量の逸品が江戸時代に散逸してしまい残念だとのことだった。

亀ヶ岡遺跡と言えば、遮光器土偶で有名だが、これもつがる市にはなく、トーハク(東京国立博物館)にある。「貴重な遺産がこの地域から奪われた」と言ってしまうと、言葉がきついかもしれない。しかしエジプトやメソポタミアの古代の貴重な遺産が海外に持ち出されたのに似ている。国外と国内という事情はあるが、取り戻すことはできないのだろうか。せめて散逸してしまった遺産のデジタル情報を集めて、亀ヶ岡から出土したものを一堂に会して、デジタルミュージアムでも用意できたら素晴らしいのではとも考えた。

そうこうしているうちに、最初の訪問場所のカルコに着いた。雨が激しく降り続いていたので、運転手さんが気を利かせてバスを玄関に横づけにしてくれた。見学者の我々は、バスのステップから、館内へと飛び込んで、濡れずに済んだ。

カルコの1階の正面には、大きな遮光器土器が飾ってあった。もちろん模造品だ。このあとも模造品をいくつも見ることになるが、地元の人たちの帰ってきて欲しいという思いは強いのだろう。
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別のところには、遮光器土器の復元がある。本物からかたどりして造ったので、精巧にできているそうだ。
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2階に上がると、田小屋野貝塚から出土した人骨があった。田小屋野貝塚縄文時代前期中葉~中期中葉(5,500~4,500年前)の円筒式土器文化を中心とする遺跡で、この遺跡の南側約400mに亀ヶ岡遺跡がある。亀ヶ岡遺跡が晩期の遺跡なので、それよりも2,500~1,500年も前の遺跡だ。7,000年前に起きたとされる縄文海進によって、周囲に展開する津軽平野には、淡水と海水が混在した古十三湖の水域が広がり、人々はヤマトシジミを食料にした。集落が形成され、貝殻の捨場が貝塚となった。日本海側にはほとんど貝塚はないので、田小屋野貝塚は貴重な遺跡だ。
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この地方の土器の変遷が分かるように、時代順に土器が並べられていた。まずは、前期の円筒下層式土器。
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中期の円筒上層式土器。
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ここからは後期の十腰内式土器。
縄文の人の心のように素朴だ。
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そして晩期の亀ヶ岡式土器だ。
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様々な形の土器が、自己主張しながら張り合っている。
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食器棚に並べたいようなかわいらしい土器だ。
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上段は浅鉢だろうか。曲線を駆使した模様がユニークだ。
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次は亀ヶ岡遺跡へと向かう。明治20年に遮光器土偶が発見された場所だ。現在は広場になっていて、入り口には大きな遮光器土偶(もちろん模造品)が待ち構えていた。
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木造駅には、竹下内閣のふるさと創生事業で作られた「しゃこちゃん」と呼ばれる巨大な遮光器土偶があるが、今回はリフォーム中ということで見学できなかった。

そして、今日の最後の訪問場所の縄文館に向かった。
ここは亀ヶ岡遺跡から出土した遺物の展示館だ。個人から寄贈された土器類がたくさんあった。散逸した土器がこうして再開している場面を見るのは嬉しいことだ。

注口土器は何に用いたのだろう。お酒を入れる容器を想像させてくれるが、現代的すぎるかもしれない。
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この時代の特徴の一つである漆塗りだ。
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のんびりとした素朴さを感じさせてくれる壺型土器の勢ぞろい。
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何のための道具なのだろう。右にあるのは蓋に見える。
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歪みがひょうきんさを与えてくれる。
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とても簡素。
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茶器に使えそうな素朴さが良い。
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右側に進む模様と、左側に進む模様が並行し、少しゆがんだ形状とのアンバランスが面白い。
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浅鉢だろうか、落ち着いた感じだで、簡素な模様が良い。
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墨のように暗い壺。
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亀ヶ岡の3施設については、つがる市学芸員の方が親切に説明してくれた。このため楽しく見学することができた。しかし展示物に対する説明書きが整備されているとは言えない状態だったので、学芸員の方の説明なしでは、理解しにくかったことと思う。3万人程度の小規模な市が、これだけの文化遺産を維持することは大変だろうが、デジタル化などの新しい技術を取り入れて、来るべき世界遺産登録に向けて、遜色のない施設になるように努力して欲しいと感じた。学芸員の方の話では、3年後に新しい施設ができるということなので、素晴らしい博物館が誕生することを期待したい。

外に出ると、雨も上がり、紅葉がとてもきれいだった。そして、今夜の宿泊地の大鰐スキーの上にあるホテルへと向かった。
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東北北部縄文の旅:三内丸山遺跡

昨日の横殴りの雪から予想して、さぞかしたくさんの雪が積もっているものと思って、宿泊しているビジネスホテルの部屋の窓から恐る恐る外を覗いた。悪い予想が裏切られることほど、うれしいことはない。車の屋根には雪は積もっているものの、道路は濡れているだけだ。顔を上げて空を見ると、なんと晴れ間ものぞいていた。

多くの人が吹雪になることを予想していたようだ。口の悪いバスガイドさんは、革靴で、難渋しながら、深い雪の中に入っていく我々の姿を観たかったと言っていたし、案内をしてくれたボランティアガイドさんは、前の夜には深い長靴を用意したそうだ。

2日目は青森駅からそれほど遠くない三内丸山遺跡と、津軽半島西端の亀ヶ岡遺跡。そして宿泊は、なんと大鰐スキー場のてっぺんだ。
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三内丸山遺跡の入り口付近だ。紅葉は終わりかけてはいるが、まだまだきれいだ。
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それではここの遺跡の紹介をまずしよう。三内丸山遺跡は、前期後半(5,900年前)から中期末葉(4,200年前)の1,700年間という長い時期存在した(概要で説明した山田さんの時代区分では4,200年前は後期になるが、三内丸山遺跡の紹介には中期末葉と書かれているので、ここでは三内丸山遺跡のパンフレットを尊重する)。この遺跡は、概要のところで説明したように、偏西風の北偏と強くなった夏の季節風(南西モンスーン)によって温暖化した前期後半から中期にかけて栄え、最後に弱くなった季節風によって冷涼化したときに滅びた。

それではなぜ温暖化したこの時期に三内丸山地域に大集落ができたのだろう。この遺跡が発見されるまでは、縄文時代の集落は多くても10軒程度の小集落だと理解されていた。温暖化したからと言って、これまでと同じように小さな集落を密度高くして点在させてもよいように思う。このため、三内丸山では多くの人が集まって集落を形成するようになったという話を初めて聞いたときは、とても不思議に感じた。

「大きいことは良いことだ」と言われることが多いが、大きくすると何がいいのだろう。米国のサンタフェ研究所は、たくさんの要素が複雑に絡み合った生態系、すなわち複雑系の研究をしているユニークな研究所だ。この研究所のBettencourt教授が、都市の規模と生産性の関係を調べて、一つの方向を示してくれた。様々な動物の生態系を比較すると、動物のサイズと代謝量の間に、ある一定の相関関係があることが分かる。例えば、大きな動物は、小さな動物と比べたときに、心臓の鼓動がゆっくりしているし、寿命も長い。これは、標準の代謝量が体重の3/4に比例するためだ、と説明されている。生態系でのサイズと代謝量のこのような相関関係をアロメトリ(allometry)という。

都市を動物と同じような生態系と見なすことで、近年では、多くの研究者が都市でのアロメトリの研究に取り組んでいる。その中で大きな成果を上げているのがBettencourt教授だ。彼は2013年の論文”The Origins of Scaling in Cities”で、都市の人口とそこでの総生産高の間には、アロメトリが成り立ち、同じ生産高を上げるには大きな都市の方が少ない労力で済むことを示した。また都市には寿命があるとも言っている。

Bettencourt教授の議論は現代の都市に対してだが、古代の集落の規模についても、示唆を与えてくれる。証明するためには、裏付けデータの獲得が必要だが、古代の都市についても、生産性について同じことが言えるのであれば、集落を大きくしようとする人々の営為が見えてくる。

三内丸山遺跡と他の同時代の遺跡との大きな違いは、クリの半栽培だろう。森を切り拓いて居住空間を広げ、生活空間の周りにクリの木を栽培することで、良質な堅果類の実を得ることに成功し、大きな集団で生活するようになった。その結果、相互補助の効果があらわれて、より低価格での食料の確保が可能になったのだろうと推察される。もちろんまだ推察の域は出ないが、今後の研究の進展が待たれる。

それでは三内丸山遺跡を紹介しよう。ここには1958点もの重要文化財がある。受付で入手したパンフレットには下図のような案内図がある。これに沿ってみていこう。
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上図で左上の建物が、縄文時游館だ。この建物の中から遺跡へとつながる通路がある。遺跡への扉の近くにはジオラマがあった。左の上の方に見えるのが、復元した縄文集落だ。ジオラマのある現在地は丁度中央付近で、これから左のほうへと歩いた。
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縄文時游館から縄文集落へとつながる道だ。
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道の左側の斜面には、環状配列墓が並列に造られていて、道のほうは、道幅約7~12mで、しかも削られて低くなっていたとのこと。縄文時代の人は墓を見上げるように歩いたとボランティアガイドの方が説明してくれた。道の周りは初冬の訪れを感じさせてくれ、紅葉がきれいだった。
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集落に近づくと、大型竪穴住居と大型掘立柱が見えてきた。もちろん、いずれも復元だ。縄文時代の重要な遺跡にいよいよ近づいてきたと思うと、胸が高まってきた。
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さらに歩を進めると、そのさきは竪穴住居の集落だった。
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奥の方にも集落がある。昨日の雪が少しだけ残っていた。
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集落の中に入り、最初に見たのは南盛土だ。大量の土器・石器・土偶・ヒスイ製の玉などが捨てられ、丘のようになっている場所だ。中がみられるようになっているので、入口へと向かう。
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中に入ると、土の中の断面がみられるようになっている。
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外に出て、竪穴建物を見学した。
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長さ15mの大型竪穴建物跡。
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大人の墓(土抗墓)だが、あいにく雪が解けたのだろうか水滴で濡れていて、中は見えない。代わりに反射した見学者の顔がこちらを伺っていた。大人の墓は地面に楕円形の穴を掘って、膝を屈伸にして仰向けに埋められたとのことだった。土抗墓は集落の外へと向かっている道の両側に並んで造られているとのことだった。
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掘立柱建物。弥生時代の掘っ立て柱建物は貯蔵用に使われたことが分かっているが、ここには何の目的のために作られたのだろう。
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たくさんの土器や石器が土と一緒に捨てられた北盛土、
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土器に入れられて埋葬された子供の墓。大人の墓が集落の外に造られているのに対し、子供の墓が集落の中に造られているのはなぜだろう。ボランティアガイドの人は再生を願っていたのではないかと説明してくれた。
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三内丸山遺跡を特徴づける大型掘立柱建物跡。3個の柱穴が二列発見され、柱の跡も見つかり、クリの木でその太さは直径1mだった。柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔4.2mだった。
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復元された大型掘立柱建物。物見やぐらに見立ててあるそうだが、本当のところはわからないそうだ。
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さらに大型竪穴建物。集会場や共同作業所として利用したのだろうか。
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内部はこのようになっている。
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縄文時游館には、三内丸山遺跡からの遺物が展示されている。時代区分では前期から中期、土器の形式は円筒式土器だ。それでは、遺物を見ていこう。

中期の台付浅鉢型土器、
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中期の黒曜石の石槍。このころは黒曜石は貴重品だ。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰などから、日本海を中心とした交易によってもたらされたと考えられている。
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前期から中期の石器土器で、狩猟道具の槍として用いた石槍と弓矢の先端として使われた石鏃。
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動物の皮をはぐために使われたとされる石匙
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ドリルとして使われた石錐
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現在の包丁やカッターに相当する削器
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ヘラとして使われた石箆
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その他に磨石、敲石、凹石、石皿・台石類、砥石が展示されていた。

次は縄文時代の特徴である板上土偶
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縄文ポシェット。高度な技術を駆使してかごを作ったことだろう。ヒノキ科の針葉樹の皮を利用している。
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三内丸山遺跡での土器の変化を表現している。左側から右へと時代が新しくなり、左側が前期、中央と右側が中期だ。左側の二つは東北北部に広まっていた円筒式土器で、右側は東北南部の大木式土器の影響を受けたものだ。
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縄文時代前期から中期にかけての岩偶、
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中期の土偶
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中期のヒスイ
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前期のツル製の腕輪
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前期の耳飾りとヘアピン
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動物の骨を利用して作った前期の突刺具
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同じく針。縄文の人々が、精巧な道具を作れる技術力を有していたことに驚いた。
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土器の勢ぞろい。土器の移り変わりを示している。下段より上段へと移っていった。下段より円筒下層式前半、円筒下層式後半、円筒上層式前半、円筒上層式後半、円筒上層式以降(大木式系土器群)。円筒式土器は東北地方北部に見られた土器型式で、丸い筒形の土器で、縄を押し付けたり、転がしたりして、模様がつけられた。このうち円筒下層式は前期、円筒上層式は中期に造られた。このあと、東北地方南部に広まっていた大木式土器の影響を受け、曲線的な模様が沈線で描かれるようになり、これまでの円筒式土器とは、模様や形が大きく異なるようになった。
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前期石匙の勢ぞろい。
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中期の土偶の勢ぞろい。
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真ん中の土偶を拡大してみよう。友人の中にこのような顔立ちの人がいたように思えた。

館内の食堂で昼食をとった後、次の目的地の亀ヶ岡遺跡へと向かった。
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東北北部縄文の旅:概要・是川遺跡

1.概要

東北地方の北部にはたくさんの有名な縄文遺跡があり、北海道の遺跡と一緒に、世界遺産登録に向けて取り組んでいる。日本史の勉強を始めたころから、大規模遺跡やストーンサークルを見学したいと思って、機会をうかがっていた。そうこうしていると、秋の一通りの行事が終了した11月中旬に、丁度良い隙間ができたので出かけることにした。紅葉もまだ楽しめるかなと思って、あらかじめ2泊3日のツアーを申し込んでおいた。そうしたら、運の悪いことに、吹雪になると予報され、不安な気持ちを抱きながら、代表的な遺跡の訪問に出発した。訪問した遺跡は、古い方から年代順に、三内丸山遺跡(前期から中期)、御所野遺跡(中期後半)、大湯ストーンサークル(後期前半)、亀ヶ岡遺跡(晩期)、是川遺跡(主に晩期の中居遺跡)だ。

これらの遺跡は、縄文時代の社会的・文化的な変化を的確に伝えてくれる。三内丸山遺跡と御所野遺跡は、縄文集落の概念を塗り替えた大規模集落だ。また御所野遺跡には配石遺構があり、大規模な環状列石の大湯ストーンサークルへとつながる。これに続くのが、芸術性溢れる土偶・土器・漆の木製品で知られる亀ヶ岡遺跡と是川遺跡だ。亀ヶ岡文化と称せられているが、縄文の美が華やかに輝いたときだ。

縄文時代の時代区分は、研究者によって差がみられるが、山田康弘さんの『縄文時代の歴史』に従えば、早期(11,500~7,000年前)、前期(7,000~5,470年前)、中期(5,470~4,420年前)、後期(4,420~3,220年前)、晩期(3,220~2,350年前)である(但し、あとで説明するように更新世から完新世に移行したのが11,700前とされているので、早期は11,700前に始まったとする意見もある。また九州地方では3,000年前から弥生時代となるので、九州での晩期は短いものとなる)。これに加えて草創期があるがこれは後で説明する。

地質時代の区分によれば、氷期と関氷期を繰り返した更新世の時代が11,700年前に終了し、そのあとは、地球全体が温暖化した完新世の時代が続き、現在に至っている。なお、更新世完新世の両方とも、意外と思われるかもしれないが、氷河時代に含まれている。氷河時代は、北半球と南半球の両方において広大な氷床を有する時代と定義されている。現在の我々は暖かい時代に住んでいるように思っているが、時代区分では氷河時代だ。

世界史では、更新世の時代は狩猟(漁撈)採集生活であったが、完新世の時代に入ると、4大文明の地域では農耕牧畜生活に移行したと学んでいる。縄文時代は狩猟採取生活であり、更新世の時代の生活を続けていることになるが、更新世の時代は遊動生活であったのに対し、完新世になってからの縄文時代は定住生活になる点で、生活のありようが大きく変化する。定住生活をすることによって、土器などの道具を身の回りにたくさん置けるようになり、煮炊きなどが始まることにより食生活にも大きな変化が現れる。

縄文時代の区分の中で議論となるのが、草創期(16,500~11,500年前)と呼ばれる時代だ。青森県の大平山本(おおだいやまもと)I遺跡から16,500~16, 000年前の土器の破片が発見された。縄文時代の特徴の一つとされる土器が発見されたために、縄文時代に含めるかどうかで研究者の意見が現在でも分かれている。この時期は地質学的には更新世末の晩氷期と呼ばれ、2回の小温暖期と3回の小寒冷期があり、小温暖期には、(夏・秋の温かい季節には川岸に住んで漁撈をし、冬・春の寒い時期には森に住んで狩猟をするというような)半定住生活を始めた、いわゆる縄文時代へのスタートアップ(移行)のときだ。草創期は、地質時代区分も異なり、縄文文化が定着していないので、縄文時代に含めるのはどうかと思っている研究者も多いようだ。私も個人的には、縄文時代に含めない方が良いと思っている。

さらに世界史の区分と合わせて、早期を森林性新石器文化とよび、早期後半に縄文文化が確立したと見なしている研究者も見受けられる(春成秀爾「旧石器時代から縄文時代へ」2001年、『第四紀研究』)。この観点からとらえると、今回の旅行はまさに縄文時代真っ只中の旅で、期待が大きく膨らんでも不思議ではない。

縄文時代には、海が内陸まで進入してきた縄文海進、そして現在の位置近くまで後退する縄文後退があった。これは地球の気温の変化によって生じたと説明されることも多いが、間違いとは言えないまでも、主因ではない。日本第四紀学会は次のように説明している。

19,000年前には、北アメリカ大陸ヨーロッパ大陸の北部には、現在の南極氷床にも匹敵する高さ数千メートルの氷床が存在した。このころ、太陽と地球の天文学的な位置関係に変化が起こり、北半球高緯度地域での夏の日照量が次第に増加した。これにより、氷床は融解を始め、氷床から遠く離れた地域では、海面が年に1~2cmという早い速度で上昇し、最終的には100m以上も上昇したところがある(氷床の近くでは、氷床がなくなったため、その重みがなくなり、陸が上昇した。このため、海面の変動は少なかった)。氷床は7,000年前ごろには完全になくなった(但し日照量のピークは9,000年前。タイムラグによりこれ以降も氷床の融解が続いたのだろう)。

そのあと、海面は後退していくが、これは寒冷化により、失われた氷床が復活したというわけではない。大量の融解によって海水量が増大し、その重みで海洋底がゆっくりと沈下した。これによって海洋底のマントルが陸側に押し出され、陸地が隆起した。これによって相対的に海水面が下がったように見えた。このころ寒冷化するので、縄文後退の原因として説明しやすいので、そのような意見がかつてはあったが、実際にはそうではなく、地球の構造上の変化が、縄文後退の主要因とされている。

縄文海進は我々が住んでいるところ、あるいはその近くまでが海になったという衝撃的な現象なので、先ほど指摘したように、間違って相当の気候変動があったのではと思ってしまう場合も多いが、完新世になった11,700年前から現在まで、気候は極めて安定している。10℃以上も乱高下した更新世のときとは全く異なり、変動の幅は高々数℃だ。しかし小さな温度変化にもかかわらず、大きな影響を受けている。

縄文時代の気温変化は次のようになっている。前期後半(6,000年前)ごろから気温が高くなり、中期は温暖な状態が継続し、中期から後期に移行するころの4,200年前より冷涼化し2℃ほど低下する。中期を中心とした温暖化については、日本第四紀学会は、日本近海の海底コア堆積物の分析から判明したことだが、黒潮が東進したため、すなわち暖流が近海を流れるようになったためと説明している。

今回訪問する三内丸山地域の気候の変化については、東大大気海洋研の川幡穂高教授の論文がより詳細に教えてくれた。彼の論文は、陸奥湾の堆積物やこの地域の花粉群集を利用しての分析で次のように説明している。偏西風の北偏と夏季の強い東アジア季節風(南西モンスーン)により、6,000(前期後半)~4,300年前(中期から後期に移行するころ)の三内丸山地域は、比較的暖かかった。そのためクリやトチノキの半栽培を行うことで、単位面積当たり獲得できるカロリー量を著しく増加させることに成功し、大規模な集落で生活できるようになった。通常1人分の食料(1年あたり\(7.3 \times 10^5\)千カロリー)を得るためには、狩猟採集では1km四方(100ha)を必要とするが、三内丸山では1.5haで済んだ。なお、弥生時代の米作では0.25haでよい(農業革命の偉大さが分かる)。

4,200年前になると、東アジアの季節風が弱くなり、寒冷化(2度下がった)が始まった。クリやトチノキの半栽培は不可能となり、集落は消えてしまった。4,200年前の寒冷化はエジプト、インダス川メソポタミア、中国の古代文明衰退とも関係がありそうだと説明している。

題名がとても長いのだが、説明に用いた論文は以下の通りだ。Hodaka Kawahata (2019) Climatic reconstruction at the Sannai-Maruyama site between Bond events 4 and 3—implication for the collapse of the society at 4.2 ka event. Progress in Earth and Planetary Science.

温暖化と寒冷化という自然環境の変化は、三内丸山に限らず、東北地方北部に同じような影響を及ぼしたことだろう。温暖化によってクリやトチノキの半栽培が可能になった中期には、大規模な集落が現れ、寒冷化に伴ってクリやトチノキの生産性が低下し、後期・晩期には、人々は大規模な集落から離れて分散化し、小さな集落に住むようになった。しかし大規模集落時代の一族としての関係を維持するために、共同で大規模なストーンサークルを作り、折に触れて、一族が集まり、連帯を深めたことだろう。

また、土器や土偶に関する技術も、長い年月の知識の蓄積によって、後期・晩期には、芸術性に優れたものが花開いた。

このようなことを確認するのが、今回の「東北北部縄文の旅」の目的だ。

2.是川遺跡

前置きが長くなったが、初日の訪問先は、縄文時代の美を極めた「是川遺跡」だ。東北新幹線盛岡駅で下車し、この日の宿は青森駅近くのホテルだ。その中間地点に是川遺跡は位置し、八戸駅から南東に8kmのところにある。
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是川遺跡には国宝の「合掌土偶」があるのだが、あいにく長野県立歴史館に貸出中で見ることができなかった。その代りに普段は保管されている重要文化財を展示していた。国宝級の遺物は、あちらこちらで引っ張りだこなので、注意しないと、折角訪ねたのに見ることができなかったということになる。合掌土偶は去年トーハクで見たので、別のものが見られれば、損はしてないだろうと、なんとなく納得して訪問した。

是川遺跡(これは通称で、正式名称は是川石器時代遺跡)は、一王寺遺跡(前期・中期)、堀田遺跡(中期)、中居遺跡(晩期)の3遺跡の総称だ。一王寺遺跡は円筒式土器文化期を中心とした大規模集落だ。中居遺跡は、鮮やかな漆器や植物性遺物が特殊泥炭層から発見されたことで有名になった遺跡で、1920年(大正9年)に地元の素封家の泉山兄弟によって発掘された。1926年には泥炭層から完全な形を保った精巧な土器とともに、赤漆で塗られたさまざまな植物性遺物が発見された。彼らの尽力によって遺物は散逸することなく保管され、戦後になって5,000点余りの収蔵品が八戸市に寄贈された。そのなかの633点が重要文化財に指定された。そのあと1993年からの発掘調査により330点が重要文化財として追加指定された。

既に冬を迎えていた中居遺跡だが、入り口の紅葉は燃えるように朱色で、樹木までもが我々を温かく迎えてくれ、感激した。
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近くには、縄文時代の竪穴住居が復元されていた。
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中居遺跡の見取り図だ。
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舌状に張り出した台地があり、その北と南には低湿地がある。この遺跡では晩期前半から後半までの遺物が出土した。晩期前半の主要な遺構は、竪穴建物跡・土坑墓・土坑・捨て場・水場遺構だ。晩期後半には土遺構・配石遺構が加わった。低湿地の捨て場からは亀ヶ岡文化期を中心とした土器・土製品・石器・石製品などの遺物が発掘された。さらに台地からは居住跡も現れた。

遺跡を見学した後、2011年に開設した是川縄文館へと向かった。建物の下半分は渋い漆の色を模したのだろうか、周りの風景と心地よく溶け合い、落ち着いた構えだ。
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建物の内部だ。すっきりしているが、モダンな感じだ。
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館内に入ると、最大の貢献者である泉山岩次郎・斐次郎兄弟の胸像がある。この二人は血を分けた兄弟ではない。ボランティアガイドさんの話では、二人とも養子で、泉山家は女系家族だったそうだ。そして貴重な遺跡が出土した中居遺跡は泉山家の所有地だった。このため発掘・保存などが容易だった面は否めないが、全ての出土品が散逸されることなく保管されていたのは、彼らの偉大な業績だ。ちなみに彼らの養父の泉山吉兵衛は、泉山銀行を設立した。この銀行はのちに青森銀行となる。吉兵衛には3人の娘がいたが、3人とも養子を迎えた。上の2人の娘と結婚した養子は、先に述べた遺跡発掘の2人だ。末の娘と結婚したもう一人の養子の三六は、戦後大蔵大臣まで務めた。
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2階に上がって中居遺跡からの出土品を鑑賞した。まずは漆器だ。トチノキを切り抜いて作った皿や鉢などに文様を彫り込んだ木胎漆器
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同じく木胎漆器、3千年の時空を超えて、縄文の美がよみがえる。長い時間を経ているのに、赤い漆の色が見事だ。
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木ではなく、竹を網目状に編んだものに漆が塗ってある。籃胎漆器と呼ばれる。
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漆塗りの弓、
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漆塗り台付土器、
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漆塗り土器、精巧で、ユニークな模様だ。食卓に添えたいぐらいの一品だ。
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縄文人たちも髪を飾ったのだろう。漆塗り櫛だ。
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装身具が続く。漆塗り腕輪、
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漆塗り耳飾り、縄文の女性たちが着飾った姿を想像すると楽しくなる。
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漆塗り土器の勢ぞろいだ。
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拡大すると
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模様がとても美しい。
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次は土偶だ。
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遮光土偶の頭部だ。目がやけに強調されているのが特徴だ。
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胸がやけに強調されている。デフォルメだろう。
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上部はどうなっていたのだろう。
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全身がそろった土偶。足を曲げる土偶と呼ばれている。ひょうきんな姿が愛らしい。
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胸像かな?
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土器も、土偶に劣らず素晴らしい。まるで芸術品のようだ。ひとつずつ見ていこう。まずは壺型土器、
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輝くような灰色の硬質感が重厚な感じを与えてくれる。
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お酒を飲むのによさそうな注口土器、
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食器棚に飾っておきたいような皿型土器、
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模様がとても美しい浅鉢型土器、お気に入りの一つだ。
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土器の最後は、実用的な深鉢型土器
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木製品の技術には驚かされる。上部の曲物は、どのような技術を駆使して作ったのだろう。曲げたり、縫い目を合わせたりする技術は高度な技術だと思うが、彼らは既に獲得していたということを知って驚かされた。
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石斧に使われた柄の部分だ。見事な姿で残されている。
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ところで、合掌土偶が出土したのは中居遺跡ではない。隣の風張遺跡だ。

合掌土偶が出張中のため、その代わりをしている頬杖土偶だ。これも風張遺跡からのものだ。風張遺跡は、後期末葉に属し、中居遺跡よりもおよそ500年古く、今から3,500年前の遺跡だ。
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後ろ姿だ。
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合掌土偶のレプリカだ。レプリカだが、素晴らしい土偶だ。合掌土偶は国宝に指定されているが、これも風張遺跡からの出土だ。この土偶は座ってお産をしている様子を表しているという研究者もいる。
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横から、
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後ろから、
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風張遺跡から出土した深鉢土器だ。中居遺跡のと比較すると、何となく泥臭い感じがするのは、一つ前の時代のためだろう。
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たくさんの写真を挙げたが、それでも縄文館の一部に過ぎない。縄文館には、縄文の美の結晶がたくさん陳列させられていて、飽きることなく見入ってしまった。

晩秋というに冷え込んでいて、冬を迎えていると思われる東北路を、今日の宿泊地である青森市に向かった。紅葉が進んだ周りの景色を楽しんでいるのもつかの間、短い陽は5時を過ぎるころには沈んでしまい、雪の舞う青森市へと入った。この日は北海道には爆弾低気圧が到来し、猛吹雪になっていた。青森市はこの日が初雪で、相当の雪が夜には降り積もるのではないかと予想されていた。明日の三内丸山遺跡の見学は吹雪の中という予報もあり、逆の意味で楽しめそうだと期待して、早々と床に就いた。

藤沢の遊行寺にて

藤沢の遊行寺で、特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」が開催されていたので、26日(土曜日)に見学した。

遊行寺は、箱根駅伝で難所の一つとして知られている場所なので、耳にはなじみのある名前だが、それだけで、訪れたことはなかった。

藤沢という地名の由来だが、諸説あるようだ。今回の特別展の説明をしてくれた遊行寺宝物館館長の説明によれば、淵沢がなまって藤沢になったそうだ。淵沢は、水の淵を表すそうで、その場所は遊行寺境内の奥深くにある宇賀神神社の裏手とのことだった。これがその場所だ。
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藤沢は、江戸時代には東海道53次の宿場町として栄えた。天保14年(1843)の調べでは、人口4089人、家数919軒、旅籠数45軒で、神奈川県内では、城下町の小田原宿、湊町の神奈川宿に次いで人口が多かった。藤沢宿の歴史・文化を伝えてくれる施設が、ふじさわ宿交流館だ(写真で左手奥が遊行寺)。
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近くには遊行寺橋がある。この橋は旧東海道境川を渡るところにかけられており、江戸時代には大名行列が通ったところでもある。
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江戸時代からさらに時代を遡り、遊行寺が造られたころの鎌倉時代は、貴族の時代から武士の時代へと、政治・経済・社会の構造が大きく変化したときである。そして仏教もその変化から免れることはできなかった。

奈良時代は、東大寺国分僧寺・尼寺に代表されるように、朝廷による鎮護国家と学問を中心とした仏教、平安時代は、病気・災害などでの加持祈祷から分かるように、現世利益を中心とした貴族のための仏教であった。これに対して、鎌倉時代は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている人々で気が付くように、武士階級・一般庶民を対象に救いを説く仏教へと変わった。

遊行寺という名は通称で、正式な名前は清浄光寺という。本堂には、北朝後光厳天皇の直額がある。最後の「寺」という字は、「寸」の部分が左に45度傾いている。後光厳天皇は、南朝方が3人の上皇と皇太子を吉野に連行した後に、三種の神器もないなかで践祚したため、正当性に疑問がもたれて、基盤の弱い天皇であったが、文字をいじるような遊び心があったのであろう。
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なお、遊行寺には南朝後醍醐天皇御像もおさめられているので、南朝とも北朝ともうまく付き合ったのだろう。

遊行寺は、踊念仏で知られる時宗のお寺だ。時宗は、一遍上人によって鎌倉時代末期に開祖された、浄土教の一派である。浄土教は、念仏によって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生し、成仏できると説いている。浄土教は、平安時代にも受け入れられているが、飛躍的に発展したのは鎌倉時代に入ってからである。

平安時代末期から鎌倉時代の初めには、比叡山天台宗の教学を学んだ法然上人が、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。鎌倉時代中期になると、一遍上人が、時衆を率いて、遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算(南無阿弥陀仏、決定往生六十万人と記した念仏札を配ること)とで、極楽浄土へと導いた。

一遍上人には、自身の教えを、一つの宗派にする意図はなく、仲間たちを「時衆」と呼んだ。今回の特別展も時宗ではなく時衆が使われているのはこのためだ。ちなみに、時宗は江戸時代以降に使われるようになった。

一遍上人は遊行に明け暮れたので、寺院を建立することはなかった。しかし一遍上人が亡くなってからも、彼を慕う人々が多く、教えを継続して欲しいという要望が強かったために、他阿真教上人が、教団を実質的に築いた。真教は、41歳のとき、一遍上人が九州を遊行しているときに出会い、教えに感銘を受けて、最初の弟子となり、「他阿弥陀仏(他阿)」という名を授かった。出会いのあと、12年間遊行を共にしている。

真教は、1304年に遊行を止め、相模原当麻無量光寺で念仏道場を開いた。信教の跡を受けた3世智得が亡くなると、真教の弟子の呑海(どんかい)が当麻に入ろうとするが、執権北条高時の支持を得た智得の弟子の内阿がすでに相続していたため果たせなかった。そこで、呑海は、鎌倉郡俣野領内の藤沢にあった廃寺の極楽寺を、清浄光院として再興した。

呑海は、俣野の領主であった俣野氏の一族である俣野五郎景平の弟とされている。また、清浄光院の開基は俣野五郎景平である。ちなみに俣野五郎景平は、相模国俣野荘の地頭だ。

それではそろそろ遊行寺(清浄光寺)の散策へと移ろう。まずは本堂だ。木造銅葺の堂々とした建物だ。関東大震災(1923年)では、この地域は強い直下型の揺れを受けたため、建物がそのまま上に突き上げられ、柱がほぞから外れて、崩れたそうだ。そのため、柱が折れずに残ったそうで、それらを用いて昭和10年(1935)に上棟、12年に落成した。
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御本尊は阿弥陀如来坐像(像高141cm)だ。
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鐘楼には1356年に造られたとされる総高168cmの梵鐘がある。戦国時代には遊行寺は戦場となり、梵鐘は北条氏によって小田原城に持ち去られ、寺は廃寺同様となった。1607年再建されたが、梵鐘が戻ったのは1626年だ。
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徳川5代将軍の綱吉のとき、生類憐みの令(16941年)が出され、「金魚・銀魚を有する者は、その数を正確に報告し、差し出すように」というおふれが出た。そのとき集められた金魚・銀魚が放出されたのが、放出池である。
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宇賀神社の宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされている得川有親の守り本尊とされている。有親は遊行12代尊観上人の弟子となり、その子の泰親(独阿弥)は、遊行寺に宇賀神社を奉納し、また松平家の養子になった。泰親の長男竹若丸が松平を、次男竹松が徳川信光を称したと伝えられている。
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次は、浄瑠璃小栗判官・照手姫ゆかりの長生院。1422年常陸小栗の城主判官満重が、足利持氏との戦いに敗れて落城し、その子の判官助重が、一行とともに三河に逃げ延びるとき、藤沢で横山太郎に毒殺されそうになった。このとき妓女の照手が助重を逃がし、一行は遊行上人に助けられた。そのあと助重は家を再興し、照手を妻にした。助重の死後、照手は髪を下ろして長生尼となり、助重と一行の墓を守った。
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境内の東門近くには、敵御方供養塔がある。1416年に上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対して起こした反乱(禅秀の乱)で、氏憲は敗れ、双方に多くの死者が出た。両方の使者を供養するために建てられたのがこの碑で、博愛精神をもっとも古くから表すものとして国宝になっている。
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以上の話を宝物館館長の方から伺った後、宝物館で特別展の話を伺った。
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会場では、入り口近くに真教上人の像があった。この像は生前に造られたそうで、寿像だ。真教が82歳の時だそうで、右目の瞼が垂れ下がっているのが印象的だった。この像を真正面から見ると、背後に「南無阿弥陀仏」と記載された真教の六字名号が掛けられていた。時宗では六字名号が本尊となるので、名号の前で教えを説くこととなる。

このほかに一遍聖絵と遊行上人縁起絵が展示されていた。一遍聖絵は国宝で、ここ清浄光寺(遊行寺)が所蔵している。全部で12巻で、会場では興味をそそられそうな部分が展示されていた。遊行上人縁起絵は、いくつかの系統のものがあり、同じ場面が並べて置かれていたので、比較することができ楽しむことができた。

特別展「時宗二祖上人七百年御遠忌記念 真教と時宗」は、第一会場を遊行寺とし、第二会場を神奈川県立歴史博物館としているので、神奈川県立歴史博物館も見学し、理解を深めたいと思っている。

多胡碑・綿貫観音山古墳

秋晴れの中での運動会という、子供の頃の印象が強く残っているせいだろうか、秋は行楽の季節、天候に恵まれた時期と考えていた。しかし、今年のように複数回も大きな台風に襲われると、本当にそうなのかと疑ってみたくなる。逆に、恵まれた日が少なかったので、秋晴れの日が思い出の中に強く残っていて、錯覚しているのではと思ったりもする。

この秋はずっと雨の日が続いたので、真っ青に澄み渡った空が、とくに待ち望まれた。神様の恵みだろうか、群馬県に遺跡を訪ねるこの日(23日水曜日)は、雲一つない秋晴れとなった。

この日の行程だ。横浜の港北ニュータウンを8時に出発し、東名、圏央道、関越道を利用して、多胡碑、群馬県立博物館、綿貫観音山古墳を巡る、往復で350Kmのバス旅行だ。
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最初の訪問場所の多胡碑は、山上碑、金井沢碑とともにユネスコ「世界の記憶」に二年前に登録された。今年登録された百舌鳥・古市古墳群世界遺産だが、こちらはそれとは異なる「世界の記録」だ。藤原道長の『御堂関白記』も同じ仲間だ。

多胡碑へと向かう道は鏑川の沿線にある。道路と川に挟まれた吉井運動公園は、台風19号の大雨により浸水し、大量の砂に覆われていた。多胡碑と多胡碑記念館は小高いところにあったため、水害からは免れたとのことだった。ここののボランティアの方の案内で、多胡碑を見学した。劣化を防ぐために、多胡碑は小さな小屋の中に納められていて、特別な日にしか直に見ることができない。この日もガラス越しでの見学だった。
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目を凝らすと書かれている文字を読みとることができる。そこには、
弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
とある。内容は、弁官局からの命によって、上野国の片岡・緑野・甘良の3郡から300戸を分け、多胡と呼ばれる新しい郡を作り、羊に支配させるというものだ。命が宣せられたのは和銅4年(711)3月9日で、左中弁・正五位多治比真人、知太政官事・二品穂積親王、右大臣・正二位藤原不比等によるとなっている。

和銅4年は、女帝の元明天皇の時世である。元明天智天皇の娘で、諱は阿閇皇女、母は蘇我倉山田石川の郎女の娘・姪娘(めいのいらつめ)である。天武天皇持統天皇の子の草壁皇子の正妃となり、文武天皇と女帝の元正天皇の母でもある。

碑文に名前が載っている多治比真人は、誰であったのかは特定されていないが、建郡に当たって、地元に多大な貢献をしたのだろう。身分の高い二人に先んじて名前が記されていることが、これを伝えている。穂積親王天武天皇の皇子。知太政官事は律令制では定められていない令外官の一つで、太政官を統括する最高位の官職である。藤原不比等鎌足の子で、大宝律令(701年)、養老律令(757年)の編纂において中心的な役割を果たした公卿で、このころは権勢を誇っていた。

この時代は、律令制度の枠組みが整い、平城京に遷都(710年)し、仏教による鎮護国家(東大寺国分僧寺・尼寺の建立など)に向けて、奈良朝は次の時代をめざしていた。時を同じくして群馬のこの地も、渡来系の先進技術を導入し、活気に溢れていたのだろう。多胡郡の建郡もその表れだ。

高崎市のホームページには次のことが書かれている。律令制度が始まる以前のヤマト王権の時代、多胡郡の地域は、緑野屯倉・佐野屯倉だった。屯倉には、先進的な渡来系技術が導入されていて、この地域は、窯業、布生産、石材・木材の産出などの手工業が盛んだった。このような状況の中で、当時の政権(奈良朝)が、生産拠点の取りまとめと、郡の区割見直しを目的に、建郡したとなっている。

さらに次の記事もある。建郡に際しては、「羊」(名字ではなく名前)と呼ばれる渡来人が、大きな役割を果たし、初代の郡領(ホームページは郡長官)となった。碑を建てたのは、この「羊」とも考えられると書かれている。なお「羊」については、今日の学説では人名と解釈されているが、その他にも方角を示すとするものなどいくつかの説があり、羊太夫と呼ばれる伝説にもなっている。

上野三碑と言われるように、高崎市の南部には、多胡碑の他に、山上碑、金井沢碑が存在する。これらの碑は時間の関係から実物を見学することができなかったが、多胡碑記念館の中でレプリカを前にして、学芸員の方から話を伺った。

山上碑、金井沢碑とも、上野の豪族であった三家(みやけ)氏に関係するそうだ。山上碑はお坊さんになった息子が母を供養するために建てた碑で、そこには母を中心に、先祖が記載されている。息子の名前は長利、放光寺の僧である。母の名は黒売刀自(くろめとじ)、ヤマト王権の直轄地である佐野三家(ミヤケ・屯倉と同じ)を管理していた健守命(たけもりみこと)の孫娘である。黒売刀自の夫は、大児臣(おおごのおみ)。彼は斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫であり、斯多々弥足尼の父親は新川臣(にいかわのおみ)である。

この碑の冒頭には、辛巳歳集月(しんしとしじゅうがつ)に記したと書かれているので、681年ということになる。

碑文は、全て漢字で書かれているが、中国語での語順ではなく、日本語での語順にそって漢字を並べたものである。三つの碑ともこのようになっている。この碑から、群馬の地でも、漢字が受容され、仏教が伝わってきていることが分かる。また碑が母への供養になっていることから母系家族ではとも想像させられる。

次の写真はレプリカである。
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金井沢碑は、山上碑の45年後の726年に建てられた碑で、三家一族の祖先の供養をするために集まった人々の名前が記されている。彼らは、上野国(こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさぬのさと)高田里(たかだのこざと)に居住していた。これは、国・郡・郷・里による行政制度を、実証する貴重な資料だ。

7世父母と現在の父母の供養に集まった人々は、夫の三家子?、妻で家刀自の地位にある他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、娘の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、ひづめ刀自(ひづめは馬偏に爪と書かれている)、若ひづめ刀自の6人と、仏の教えで結ばれた三家毛人(えみし)、知万呂、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の3人だ。

この部分から、娘の夫が含まれていないことに気がつく。夫は子供の名前から察して物部君だろう。妻の家の行事には参加しないというのが、当時の習慣だったように見て取れる。さらに推測を重ねると、娘家族が、娘の両親のところに住んでいるようにも見える。これが正しければ、母系居住だ。この時代の家族システムについては、史料がほとんどなく、判然としないので、上野三碑は当時の家族構成を知る上でも貴重な資料だ。

また、同じ里に住んでいて、家族でない人々が、仏の縁で結ばれたということで、供養に参加している。このことは、仏教がこの地にさらに強く広まっていることを示すものだろう。地縁ではなく、知縁(思想・信条・関心を共有する共同体)の始まりとも見える。

次の写真はレプリカである。
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上野三碑から、律令制度、漢字文化、仏教が広まったことを確認したあと、この時代より前の時代の遺物を見るために、同じ高崎市内の群馬県立歴史博物館へと向かった。

歴史博物館では、企画展示『ハート型土偶大集合!!―縄文のかたち・美、そして岡本太郎―』が開催されていた。

この企画展では、横浜市稲荷山出土の筒型土偶、千葉県佐倉市江原台遺跡出土の山型土偶、同じく佐倉市宮内井戸作遺跡出土のみみずく土偶群馬県桐生市千網谷戸遺跡出土のみみずく土偶北秋田市藤株遺跡出土の遮光器土偶青森県田子町伝・野面平遺跡出土の屈折像土偶を始めとして270点もの土偶が展示されていて、目を楽しませてくれた。

しかし、何と言ってもこの展示での目玉は、群馬県出土のハート型土偶だ。トーハクから65年ぶりの故郷への帰還だ。この土偶は、戦時中に長野原線郷原駅の建設工事を行っているときに発見され、1951年になって公式に発表された。ハート形の顔が特徴で、この形の土偶は関東地方や東北地方南部に多く見受けられ、万博での『太陽の塔』で有名な岡本太郎の創作活動に大きな影響を与えたとされている。

また、常設展示室では、入り口から入ってすぐのコーナーは東国古墳文化展示室になっている。ここには綿貫観音山古墳から出土した埴輪や副葬品が展示されている。学芸員の方から30分ほど話を伺った。

綿貫観音山古墳は、墳丘長97mの前方後円墳で、6世紀後半以降の造営とされる。盗掘を免れたため、副葬品が多数出土し、当時の状況を教えてくれる貴重な古墳だ。展示室に入ると、古墳の模型があり、墳丘には、円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬、家)が配置されていて、当時の古墳の様子を伝えてくれる。

中に入ると、人形埴輪が置かれている。あぐらをかいた男子の埴輪の前に、正座する女子の埴輪があり、その横手には三人童女の埴輪がある。学芸員の方の説明によると、足まで備わっている埴輪は珍しいそうだ。その奥には、振分け髪の男子と甲冑で武装した兵士の埴輪があり、馬具を装着した馬の埴輪が続いている。家形埴輪もある。

さらに奥に入ると、盗掘されなかった石室から出土した副葬品がある。たくさんの馬具が置かれていてとても見事だ。さらに進むと、獣帯鏡が展示されている。これは百済武寧王の墓から出土したものと同型だそうだ。そして銅製の水瓶。中国の北斉の墓からも同様のものが出土している。これらは、綿貫観音山古墳に埋葬された豪族が、直接あるいは間接に朝鮮半島や中国と交流があったことを伝えてくれる。

この後、綿貫観音山古墳を見学に行った。全景は、
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石室は、
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埋葬者は、石棺ではなく、布を引いてその上に寝かされたそうである。さらに鉄製の釣り具が見つかっていることから、石室をカーテンで覆っていたのではないかともいわれている。

綿貫観音山古墳の頂を観察している頃には、短くなった秋の陽が、今回の旅行の終わりを告げていた。もう少し時間をかけて、じっくりと見学したかったが、横浜からだとこれが限度のようだ。この日は、即位の礼が行われた次の日ということもあって、交通規制がしかれ、都心に近づくにしたがって、渋滞が激しくなったが、7時半ごろには出発地点に戻ることができた。群馬には、このほかにも素晴らしい古墳があるので、泊りがけで、ゆっくりと見学できる機会を作りたいと思っている。

圏論をデータベースに応用する(1)

5 随伴とデータベース

これまで、圏論の理論的な面を重視しながら、重要な定理である随伴まで学んできた。これだけ学んだのだから素晴らしい応用に出会えるはずだ、と考えるのは当然のことだ。ここでは、情報技術の中でも特に重要なデータベースとの関連について、説明しよう。

5.1 Lensの説明

Haskellには、データベースのために、Lensと呼ばれるパッケージが用意されている。それでは、これをインストールしよう。Windows 10であればコマンドプロンプトを、linuxであれば端末(terminal)をひらいて、次のようにすればよい(Haskellがインストールされていることが前提になっているので、まだの場合にはHaskellを利用できるようにしてからだ)。

cabal install lens

それでは使ってみよう。データベースは、あることに関する情報を、テーブル(表)という形式で表したものだ。例えば、あるクラスの生徒の期末試験の成績を一覧表で示したものは、立派なデータベースだ。成績の一覧表には、縦方向に生徒名が記されているであろう。横方向には、生徒名、学籍番号、各科目での得点、合計点などが書き込まれているであろう。各生徒に対する情報、すなわち横一行の情報はレコードと呼ばれる。そして、レコードに刻まれた一つ一つの情報、生徒名、学籍番号、それぞれの科目の得点、合計点は、フィールドと呼ばれる。

ここでは車に関するデータベースを考え、レコードには、メーカーと形式が書き込まれていることとし、型式は車種名と製造年から成り立っているとしよう。

最初に、\(Lens\)のモジュールをロードし、\(car\)と名付けたレコードを用意しよう。このレコードでは、メーカーはホンダ、車種はアコードで2012年製であったとする。

{-# LANGUAGE TemplateHaskell #-}
import Control.Lens
car = ("Honda", ("Accord", 2012))

とすればよい。

\(Lens\)は虫眼鏡を意図して付けられた言葉だと思うが、\(car\)のフィールドを覗くために、\(view\)という関数が用意されている。例えばメーカー名は知りたいとしよう。これは最初のフィールドなので、

view _1 car

とすればよい。

また、形式は2番目のフィールドなので

view _2 car

とすればよい。

さらに、車種名を知りたいときは、2番目のフィールドの最初のデータなので、

view _1 $ view _2 car

とすればよい。

Haskellには、\(view\)に似ているが、\(getter\)と呼ばれる別の関数が用意されていて、\( ( \verb|^|.) \)で表される(これは中置関数にするとカッコが外れて\( \verb|^.| \)となる)。\(n\)番目のフィールドを取り出す時は、\( \verb|^| .n\)とする。さらに得られたフィールドの\(m\)番目のデータを取り出すためときは\( \verb|^| .n.m\)となる。

先ほどの\(view\)での操作と同じことを\( ( \verb|^|.) \)で行うと次のようになる。

car^._1
car^._2
car^._2._1

この記述はオブジェクト指向言語での記述と一緒なので、この言語に慣れている場合には、分かりやすいだろう( \(getter\)の関数の定義でピリオドを用いて、あたかも関数の合成のように見せかけているのは、ずるがしこいとも思えるが)。

フィールドを書き換えて新しいレコードを得るためには、\(set\)を用いる。この関数は3個のパラメータを有する。最初のパラメータはフィールドの場所、2番目のパラメータは書き換える内容、3番目のパラメータはレコードだ。ホンダをトヨタに書き換えたレコードを得るためには、

car1 = set _1 "Toyota" car

とすればよい。新しいレコードを\(car1\)に設定し直していることに注意して欲しい。もちろん古いレコード\(car\)はそのままだ。さらに、車種をアクアに変更するには、

car2 = set (_2._1) "Aqua" car1

\(set\)に対しては、\(setter\)と呼ばれる別の関数が用意されており、これは\( ( \verb|~|. )\)である(これも中置関数にすると\( \verb|~|.\)となる)。使い方は同じで、次のようになる。

car1 =  (.~) _1 "Toyota" car
car2 = (.~) (_2._1) "Aqua" car1

中置関数にすると、

car1 =  _1.~ "Toyota" $ car
car2 = (_2._1) .~ "Aqua" $ car1

\( ( \_2.\_1) .\verb|~| "Aqua" \)の部分が関数なので、\( \&\)を用いて、関数と変数の順序を入れ替えると、

car2 = car1 & (_2._1) .~ “Aqua” 

通常はこのように記述するのがふつうである。これもオブジェクト指向と同じ記述になり、読みやすい。

同じことの繰り返しになるが、実行例を示しておこう。

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図1:Lensの簡単な実行例
それではレコードと複合的な構造になっていたフィールドを本格的に定義してみよう。これには、\(data\)を用いて、\(Car\)と\(Spec\)を定義すればよいだろう。そしてLensで利用できるようにするためには、\(makeLenses\)という関数を施せばよい。このようにすると先ほどと同じように利用することが可能になる。

{-# LANGUAGE TemplateHaskell #-}

import Control.Lens

data Car = Car {_maker :: String , _spec :: Spec} deriving Show
data Spec = Spec {_name :: String, _year :: Int} deriving Show 

makeLenses ''Car
makeLenses ''Spec

今までの説明では、フィールドは何番目にあるかで示していたが、ここでは、フィールドはキーで呼ばれる。キーはフィールドに割り振られた名前の\(maker\),\(spec\),\(name\),\(year\)だ。実行例に示すように、合成関数でキーを連ねることで、ターゲットとするデータにアクセスできる。これは重要な点である。すなわちオブジェクト指向のときと全く同じ操作でたどり着くことができる。なぜ可能なのかについては後半で説明する。

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図2:フィールドをデータ型で定義し、これをLensで利用する

パッケージのLensにはいくつかの例が用意されているので、興味がある場合には利用するとよい。例えば、\(Turtle\)は、亀が指示により位置、色、進行方向を変える単純な遊びだ(追加パッケージとしてStreams,glossを必要とする)。また\(Pong\)は球をパドルで撃ち合う単純なゲームだ(追加パッケージとしてdefault-data-classを必要とする)。これらから、データベースとアニメーションの関係がどのようになっているかを知ることができ、面白いことと思う。

5.2 F-余代数でデータベースを定義する

\(getter\)と\(setter\)の型シグネチャを求めてみよう。

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図3:\(getter\)と\(setter\)の型シグナチャ

\(getter\)の\( ( \verb|^|.) \)では、\(s\)はレコードで、最初の\(a\)はデータを取り出すフィールドで、最後の\(a\)は取り出したデータだ。\(Getting \ a \ s \ a\)は指定されたフィールドからデータを取り出すための関手(あるいは関数)だ。

\(setter\)の\( (. \verb|~|) \)では、\(s\)は入力のレコード、\(t\)は出力のレコード、\(a\)はフィールドで、\(b\)はそのフィールドに書き込む入力値だ。\(ASetter \ s \ t \ a \ b \)は指定されたフィールドを修正した新たなレコードを得るための関手(あるいは関数)だ。

Haskellの関数を簡略化し、ここではアクセスするフィールドの場所が関数の名前の中に含まれる\(getter\)と\(setter\)を、用意することにしよう。そうすると、先ほどの型シグネチャの中の\(Getting \ a \ s \ a\)と\(ASetter \ s \ t \ a \ b \)とが省かれることになるので、次のようになる。

get :: s -> a
set :: s -> b -> t

例を挙げることにしよう。今、2つの要素からなる簡単なレコードがあったとしよう。第1、第2番目のフィールドにアクセスする\(getter\)と\(setter\)は、例えば、次のように実現できる。

get_1 :: (a,b) -> a
get_1 (x,y) = x
set_1 :: (a,b) -> c -> (c,b)
set_1 (x,y) z = (z,y)
get_2 :: (a,b) -> b
get_2 (x,y) = y
set_2 :: (a,b) -> c -> (a,c)
set_2 (x,y) z = (x,z)

Lensにでは、\(setter\)と\(getter\)の合成関数が満たさなければならない条件を定めている。3個の条件があり、これをLensの3法則と呼ぶことにしよう。我々が定めた\( (set \_1,get \_1) \)の組に対して3法則を定めると以下のようになる( \( (set \_2,get \_2) \)の組に対しても同じ)。詳しくはパッケージLens参照。

set_1 s (get_1 s) = s
get_1 (set_1 s a) = a
set_1 (set_1 s a) b = set_1 s b

\(setter\)と\(getter\)の型シグネチャをまとめると、\(s \rightarrow (a, b \rightarrow t) \)になる。

ここまではHaskellでの記述であったが、圏論での記述に代えてみよう。ここでは話を簡単にするために、\(a\)と\(b\)は同じデータ型であるとし\(a\)で表すことにする。同様に、\(s\)と\(t\)も同じだとし、\(s\)で表すことにする。従って、\(s \rightarrow (a, b \rightarrow t) \)の代わりに\(s \rightarrow (a, a \rightarrow s) \)で考えることとする。

Haskellでの型変数\(s,a\)は、圏論での対象\(S,A\)として記述できる。これより、Haskellでの\(s \rightarrow (a, a \rightarrow s) \)は、圏論では\( \forall S \rightarrow (A, A \rightarrow S) \)となる。そして、\(S,A\)は圏\( \mathcal{C}\)の対象としよう。ここで射の合成が保存されるならば、自己関手\(F\)が存在する。


いま自己関手\(F\)が存在するものとしよう。関手\(F\)は、\(S\)を\(A \cup (S \times A) \)に写していると考えることができる(下図)。

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図4:データベースのレコード\(S\)に対する操作\(getter,setter\)を自己関手\(F\)を用いて、F-余代数へ写す

これから\(α:S \rightarrow A \cup S \times A=F (S) \)となり、F-余代数\( (S,α)\)が得られる。

それではこのF-余代数をHaskellで実現することを考えよう。

まず代数的データ型を定義しよう。

data Store a s = Store a (a -> s)

それではいま定義した代数型データ型\(Store \ a \ s\)を、ファンクタにしよう。\(s\)が\(Store \ a \ s\)となるので、ファンクタは\(Store \ a\)となる。またファンクとするためには射の合成が保存されるように\(fmap\)を定義する必要がある。これは以下のようになる。

instance Functor (Store a) where
  fmap g (Store a f) = Store a (g . f)

図で表すと以下のようになる。

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図5:データベースでの操作を表すための関手をHaskellでは\(Store\)で表すことにする

しかしこの図だけからは何とも分かりにくい。そこで、汎用性を失わないようにしながら、議論が平易に進められるようにするために、データベースは、二つのフィールド\(a,b\)からなる単純なものとし、これを\(s=(a,b)\)としよう(ここでは先ほど設けた制限を緩めて\(a\)と\(b\)の対象(データ型)は異なってもいいものとする)。そしてこれへの操作も最初のフィールドにアクセスする関数\(get \_1,set \_1\)だけとしよう。

このようにすると、上の図は次のように表すことができる。

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図6:データベースの操作との対応をより具体的に表現する

この図で、操作を施そうとしているレコードは\( (a,b)\)である。ここでは最初のフィールドに対して操作が施される。\(get \_1\)であれば、\(a\)が読みだされる。また、任意の\(x \in A\)が\(set \_1\)によって書き込まれると、新しい内容は\( (x,b)\)となる。図では任意の\(x\)なので、新しい状態を\( ( \_,b) \)とした。

データベースでのこのような操作(図の左側)を、関手(ここではファンクタ\(Store\ a\))で写したのが図の右側である。\(Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)のうち\(a\)は\(get \_1\)の操作を\( ( λx \rightarrow (x,b))\)では\(set \_1\)の操作を表している。これを青色の小文字\( get \_1,set \_1 \)を明示した。カリー化を利用して、\(get \_1 : S \rightarrow A, get \_1 : S \rightarrow A \rightarrow S \)であることに注意して欲しい。

今までの説明は、\(set \_1\)を一回だけ施したものであったが、何回も繰り返した場合はどうなるだろうか。図で示すように\( (x,b)\)を\(Store \ x ( λy \rightarrow (y,b)) \)で置き換えればよい。同じように\( (y,b) \)を置き換えれば、\(set \_1\)を繰り返したときにファンクタ\(Store \ a\)に写された側を得ることができる。ここでもまた青色の小文字\( get \_1,set \_1 \)で明示し、写像された空間での操作が実際どのように表現されるかを明らかにした。

ここから分かることは、データベースへの繰り返しの操作は、これらに対する関数の合成として表されるということであり、オブジェクト指向的に表されるということである。このことについては、このあとより数学的に厳密に説明する。

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図7:データベースを複数回アクセスしたときの対応関係

代数的データ型で表されたファンクタはF-代数で表すことができた。もし、\(F(A) \rightarrow A\)であるならば、F-代数で表すことができる。しかしここでは\(A \rightarrow F(A) \)となっていて、矢印が反対向きだ。でもひるむことはない。双対関係にあるF-余代数を用いればよい。それは次のようになる。

type Coalgebra f a = a -> f a

coalge ::  Coalgebra (Store a) (a,b)
coalge (a,b) = Store (get_1 (a,b)) (set_1 (a,b)) 

5.3 コモナドでデータベースを定義する

それでは\(Store \ a\)を\(Comonad\)のインスタンスにしてみよう。コモナドは\(extract: W (A) \rightarrow A\)と\(duplicate:W (A) \rightarrow W (W (A)) \)を用意しなければならない。そこで、次のようにしよう。

class (Functor w) => Comonad w where
  extract :: w s -> s
  duplicate :: w s -> w (w s)

instance Comonad (Store a) where
  extract (Store a f) = f a
  duplicate (Store a f) = Store a ( \q -> Store q f)

少し使ってみよう。

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図8:自己関手\(Store\)をコモナドにして利用する

上図では次のことを行っている。現在のレコードの内容を\( (a,b)\)とする。このレコードへのアクセス( \(setter, getter\)による )を、ファンクタ\(Store \ a \)で写した空間で\(Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)と表すことができる。これに\(extract\)を施すと、元の状態の\( (a,b)\)を得る。

\( (a,b)\)に対する2度の繰り返しのアクセスを、\(Store \ a \)に写像した空間では、\(duplicate \ Store \ a \ ( λx \rightarrow (x,b))\)となる。もちろんこれに\(extract\)を2回施すと、元の状態の\( (a,b)\)を得る。

ここまでの議論から、ファンクタ\(Store \ a\)から作られた余代数\(coalg\)は、コモナドの特殊な例であることが分かる。そして、下図の可換図式が成り立つとき、\(coalg\)はコモナド余代数(comonad coalgebra)と呼ばれる。

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図9:コモナド余代数となるための条件

可換図式をHaskellで表すと次のようになる。

extract.coalg = id 
fmap  (coalg) . coalg = duplicate . coalg

それではこの可換図式を用いて、\(Lens\)の3法則

set_1 s (get_1 s) = s
get_1 (set_1 s a) = a
set_1 (set_1 s a) b = set_1 s b

が成り立っていることを示そう。

最初の式より、

(extract.coalg)  s = s

を得る。
左辺を展開すると、

(extract . coalg)  s) 
= extract (Store (get_1  s) (set_1  s)) 
= set_1  s  (get_1  s)

となる。これが右辺と等しくなるので、

set_1  s  (get_1  s) = s

これで、3法則の最初が満たされていることが分かった。

2番目の式より

(fmap  (\s’ -> coalg  s’) . coalg)  s = (duplicate . coalg)  s

左辺を展開すると、

(fmap  (\s’ -> coalg  s’) . coalg)  s 
= fmap  (\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’))  Store  (get_1  s)  (set_1  s) 
= Store (get_1  s) ( (\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’)) . (set_1  s))

右辺を展開すると、

duplicate . coalg  s 
= Store  (get_1  s)  (\y -> Store  y  (set_1  s))

これより

((\s’ -> Store  (get_1  s’)  (set_1  s’)) . (set_1  s))

\y -> Store  y  (set_1  s)

が等しくなる。

そこで、\(y\)は任意の値に対して有効であるので、\(a1\)という値が入力されたとしよう。右辺の式は

((\s' -> Store (get_1 s’)  (set_1 s’)) . (set_1 s)) a1
= (\s' -> Store (get_1 s’)  (set_1 s’))  (set_1 s a)
= Store (get_1 (set_1 s a1)) (set_1 (set_1 s a1))

となり、左辺は

(\y -> Store  y  (set_1  s)) a1
= Store a1 (set_1 s)

となる。これより、それぞれの\(Store\)の項目同士が等しいことから

get_1 (set_1 s a1) = a1
set_1 (set_1 s a1) = set_1 s

が得られる。

これにより、\( (get \_1,set \_1)\)に対して、\(Lens\)の3法則が成り立っていることが示すことができた。ここでは\( (get \_1,set \_1)\)に限定して行ったが、汎用な\(getter,setter\)に対しても成り立つ。これについては次の記事で説明する。

ピーナッツかぼちゃの冷製ポタージュスープ

かぼちゃのポタージュスープの時期がやってきた。この料理がおいしいと感じるようになったのは、オーストラリアにいたころだと思う。戦時中、田舎に疎開していた母は、かぼちゃばかり食べていたせいもあって、かぼちゃは嫌いと言っていた。その影響をうけた子供の頃は、かぼちゃは何もない時に食べる野菜と思っていて、煮つけなどを食べても、おいしいと思うことはなかった。

その頃はごみ収集車もなかったので、家庭ごみは庭に捨てていた。春になると、前の年の種が残っていたのだろう。にゅきにょきとかぼちゃの芽が出て、あれよあれよというまに、庭中に茎が張り巡らされた。大輪の黄色い花を咲かせ、やがて立派なかぼちゃになったが、皮が堅いこともあって、そのまま庭に放置されてごろごろと転がっていた。これほど我が家では期待されていなかった。

オーストラリアのかぼちゃは、日本のそれと比べると甘みが少ない。むしろないといった方が良いくらいだ。オーストラリアの乾燥した風土ともあったのだろう。滞在中にいつの間にか、淡白なかぼちゃのスープを好んで食べるようになった。帰国して、日本でかぼちゃのスープを食したときは、甘すぎると感じた。そのこともあって、それ以降はすすんでかぼちゃのスープを注文することはなかったが、数年前に野菜売り場でピーナッツかぼちゃを見つけて、ポタージュスープを作ってからは、好みを変えた。

このかぼちゃは、見慣れた丸い姿ではなく、瓢箪のように下の方が膨らんでいる。バターのように滑らかで、ナッツのように甘いことからバターナッツかぼちゃとも呼ばれるが、店頭ではピーナッツかぼちゃとして売り出されている方が多いようだ。南アメリカ原産で、アメリカではポピュラーだそうだ。

ピーナッツかぼちゃは、日本の在来のかぼちゃと同じように甘みが強い。いや、もっと強いと思った方が良いだろう。初めてピーナッツかぼちゃをみたとき、そのかわいらしい形に惹かれて思わず購入し、店頭に紹介されたレシピに従って、スープを作ったところ、甘いにもかかわらずとても美味しいと感じた。この頃には、淡白なオーストラリアのかぼちゃスープの味を忘れてしまい、湿潤な気候にあった濃厚な味に嗜好が徐々に変わっていたことも一因だろうが、素直においしいと感じた。

これがきっかけとなり、ピーナッツかぼちゃを探しては、スープを作っている。今年も探し求めていたら、近くの農協の直売でたくさん売られているのを見つけた。今回はそれを用いての記事だが、実は一回失敗した後の、二回目の作品だ。スープにする時は、かぼちゃの実をペースト状にする必要があるが、一回目はフードプロセッサで試みた。残念ながら、粒々の状態になってしまい、食べたときの触感がいまいちだった。そこで今回はミキサーで砕いた。こちらからは見事に綺麗なペースト状のかぼちゃを得ることができた。

それではレシピを紹介しよう。野菜は主役のピーナッツかぼちゃと脇役の玉ねぎ、各一個だ。その他に、マギーブイヨン3個、水500cc、牛乳300cc、生クリーム、パセリだ。
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まず皮むき器でかぼちゃの表面の皮をむく。在来のかぼちゃと違って、皮は柔らかいので、簡単だが、手まで一緒にむかないように注意しよう。
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次に包丁で半分に切る。お店で見かける丸いかぼちゃだと、半分に切るときに手が滑って怪我をすることがあるが、ピーナッツかぼちゃは柔らかく、包丁が入りやすいので、怪我の心配は少ない。下部のふくらみがあったところに、種がある。
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スプーンで種を取り除く。前回、かぼちゃの皮を十分に取り除かなかったので、皮の繊維質が含まれてしまったことを思い出し、皮むき器でさらに丁寧に表面をむいて、黄色い部分が一様に現れるようにした。この段階で、かぼちゃは650gの重さだった。水や牛乳の量をこの重さで調整する。通常は、500gに対して、水400cc、牛乳200ccがよいと思う。今回は、水500cc、牛乳300ccにした。濃厚なスープを作りたいときはこれを減らすとよい。
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かぼちゃを一口大に切る。
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玉ねぎは薄切りに切る。
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水500ccでかぼちゃが柔らかくなるまで中火で煮る。
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粗熱を取った後、ミキサーでペースト状にする。
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牛乳300cc、マギーブイヨン3個を加えて中火で煮立てる。
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冷蔵庫で冷やして、夕飯に備える。
カップに移し、生クリームでアート作品を完成させた。
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パセリも加えて、食卓に供した。
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とても美味しかった。普段は水の量を少なくして濃厚なポタージュスープを作っているが、今回のはレストランで食するような濃さで、これもまた良かった。このスープは2日前につくったが、今日その残りを朝食に出したところ、もっと良い味になっていて、自賛だが、素晴らしかった。近いうちにまた農協に行ってピーナッツかぼちゃを仕入れてこようと思っている。

初秋の北海道:十勝・美瑛・富良野・小樽・札幌

先月の29日から3日間北海道を旅行した。同じ時期に、カリフォルニアの友人の知人夫婦が、北海道旅行をしているのだが、彼らは9日間。そのあとは広島に飛んで東京に向かってくるそうだ。1カ月にも及ぶ日本滞在をしたあと、ハワイでさらに休暇を過ごすとのこと。アメリカ人の旅行と比べると、日本人の旅行は短すぎ、旅行と言えるのかとさえ思うときがある。

今回もバス旅行。車を借りてドライブするのもよいのだが、観光地を散策したあとの運転は、疲れるし、居眠り運転をしかねないので、最近はのんびりと車窓からの景色を楽しむことに決め込んでいる。

羽田空港への航空手段は、かつては時間的な正確さもあって電車を利用していたが、空港バスの路線が増えて便利になり、必ず座れるという安堵感もあって、最近はもっぱらバスだ。29日は日曜日ということもあり、いつもは70分かかるのだが、わずか30分で到着した。空港でのんびりとコーヒーを楽しむことができた。

道路の交通量は少なかったにもかかわらず、空はとても混んでいたようで、飛行機の到着が遅れたため、30分遅れの出発となり、空港では思いがけず長い時間滞在する羽目になった。

無事に千歳に到着したが、前日の天気予報で北海道は晴れと聞いていたのに、小雨が降っていた。前回の北海道縄文の旅もずっと雨だったので、またかと意気消沈しながら、空港に降り立った。

この日は千歳から層雲峡へと向かったが、途中でNHKの朝ドラ「なつぞら」の舞台となった十勝を訪問。なんと300Kmの行程で、5時間近くのドライブ。飛行機が遅れたので、12時からのスタートとなったが、初日からせわしない旅となった。
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北海道も高速道路が伸びて、千歳から十勝までは高速道路。このようなインフラがないころに国道を使ってこの地域をドライブした経験があるが、そのときは日勝峠越えやくねくねと曲がった坂道などドライブを楽しむこともできたし、針葉樹林や落葉樹林に囲まれた自然を愛でることもでき、今でも楽しかった思い出が残っている。高速道路は速く運ぶという効率を優先しているため、移動中の楽しみは激減されてしまった。

道東自動車道に入ったころ、山々の木々が色づき始めていた。
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トマム。遠くに見える4つの高い建物は星野リゾート
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十勝平野が前方に開けてきた。
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最初の見学場所は、十勝牧場の白樺並木道だ。「なつぞら」でもロケに使われたとのこと。
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次は公共牧場の中では日本一広いと言われているナイタイ高原牧場だ。写真で見ると何ということはないのだが、ひたすら広い。
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この後は陽も落ちてしまった中を層雲峡のホテルへと向かった。

2日目は早朝に起きて、黒岳ロープウェイを利用して、黒岳5合目付近を見学した。高松台と呼ばれる展望台からの風景。紅葉がきれいだ。
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ロープウェイの中から。大雪山を構成する峰々が雲の間から顔をのぞかせた。
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朝食を取った後、この日も長い旅が始まった。全行程350Km、5時間半の車中だ。
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最初に訪れたのは銀河・流星の滝。この二つの滝は並んでいることから夫婦滝とも呼ばれている。

始めに現れたのは120mの銀河の滝。
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続いて90mの流星の滝。
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石狩川にそそぐ清流。
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滝の説明。
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バスの車窓からは柱状節理が右に左にと展開。柱状節理は、マグマが冷えて固まるときに、体積が縮まることにより、ハチの巣に似たひび割れが形成されてできた岩石の柱だ。ここの岩石は溶結凝灰岩だ。
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そして美瑛・富良野へと向かった。まずは青い池。この池は人工池で、1988年に噴火した十勝岳の堆積物による泥流被害を防ぐために、美瑛川に造られた堰堤の一つだ。近くの湧水が水酸化アルミニウムなどの白色系の微粒子を含んでおり、美瑛川の水と混ざることで、分散化され、コロイド状態になる。そして太陽光でコロイドが散乱されて、青い色の池となるという仕掛けだ。

高橋真澄さんが1998年に写真集『blueriver』を出版、2014年テレビ朝日『奇跡の地球物語』」で紹介され、青い池は有名になった。
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次の訪問地は四季彩の丘。カラフルな花のジュータンを引き詰めた広大な丘だ。前田真三さんの幻想的な写真集『丘の四季』で、美瑛と富良野はファンタジーな世界として、多くの人に認識されるようになった。どこも美しいのだが、その中でも最も彩のある光を放っているのは、四季彩の丘だろう。皆に愛されるラベンダーの時期ではなかったが、秋の花がなだらかな丘をきれいに覆っていた。
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このトラクターに引っ張られたトロッコに乗って見学した。
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次もお花畑のファーム富田だ。
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温室で咲くラベンダー。畑一面に咲いていたならば、どんなに綺麗なことだろうと思いを巡らした。
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ゼラニウムも温室で同居していた。
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そして今日の宿泊場所の登別温泉へと向かった。今回のツアーの参加者は、決められた集合時間よりも常に何分も前に集まるので、時間に余裕ができたということで、明日の見学場所である登別温泉の地獄谷を繰り上げて見学することになった。

幻想的な世界から阿修羅の世界へと踏み込んだ。
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3日目は小樽、札幌の散策。そして千歳からの帰路。全行程は230Km、三日間の中で一番短い。
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例によって小樽の運河。
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ナナカマドの実がきれいだ。
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小樽から銭函まで電車に乗った。
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海岸線ぎりぎりを列車は通り抜けていった。
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銭函駅だ。ご利益があるといいのだが、地名にちなんだ箱も置かれていた。
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札幌では時計台(旧札幌農学校演武場)を見学。
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時計台の中は資料館になっていて、札幌農学校の説明資料が備えられていた。札幌時計台ができたころのジオラマ
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“Boys be ambitious.”で有名なクラーク博士の像
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時計台内部の演武場。
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そしてテレビ塔
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これで今回の旅は終了した。一日の移動距離が長いということもあって、それぞれの場所での見学時間が少なかったのは残念だったが、北海道に到着した頃の小雨も、バスに乗っている頃には止み、そのあとは秋晴れの中、北海道の秋を満喫できた。
あと2週間ぐらい遅い時期に来ると、もっと紅葉はきれいだと思うが、良い時期に当たるかどうかは運しだいだ。晩秋には、東北縄文の旅をしようと思っているが、是非天候に恵まれて欲しいと願っている。

横浜ブランド:浜なし

殆どの方になじみがないと思われるのが、今日のデザートで食べた「浜なし」。

横浜市の特産なのだが市場に出回っていない。時々立ち寄るJA横浜でたまたま見つけた。

なしと言えば、かつては「二十世紀」、最近は「豊水」が有名だが、浜なしは品種名ではない。
横浜市で生産されたなしのブランド名だ。「幸水」でも「豊水」でも横浜で生産されたものであれば浜なしになりえる。

但し、ブランドは保持する必要があるので、生産者は横浜農協果樹部から認定を受けて、生産・販売をしている。
今回購入した「浜なし」にも、生産者名、電話・FAX番号、収穫日などが記入された紙が添付されていた。

完熟させて直売しているので、なるべく早く食べたほうがよい。
今日食べたのがこれ、
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糖度が高く、とてもみずみずしい。農協の野菜や果物は格安なのだが、「浜なし」は例外で、買うときに一瞬躊躇した。
ものは試しと購入したのだが、美味しいものがいただけてとてもラッキーだった。
再度、購入しようと思っている。

中世城郭跡:八王子市滝山城

北海道に縄文遺跡を見学に行ったときに、八王子から参加したという人から、滝山城の近くに住んでいて、よく訪れるという話を聴いた。

この城は築造された時期については諸説あるようだ。滝山城が戦場となったのは永禄12年(1569)だ。このとき武田信玄は2万の兵を率いて、甲府を出発し、北条氏政小田原城へと攻め上った。その途中で、氏政の弟氏照が守る滝山城において、武田と北条の間で攻防があり、北条側は2千と少ない兵でよく凌いだ。

天文23年(1554)に、北条氏康武田信玄今川義元の3者で、いわゆる甲相駿三国同盟が結ばれたが、上杉謙信との川中島の合戦が収束すると、武田信玄は、信濃から相模・駿河へと目を転じ、永禄11年には今川との同盟を破棄して駿河に攻め込み、次の年には同じように氏康との関係も断ち切って、関東に攻め込んだ。その時に攻められたのが滝山城だ。氏照はこの城が脆弱であることを知り、八王子城を築造することになった。

八王子城と同じように立派な駐車場があるものと思って出かけた。滝山街道の滝山城祉下というバス停の近くに、滝山城跡入口という大きな看板があったので、そこを曲がったところ、駐車場はありませんと注意書きがあった。後で分かったのだが、角にある滝山観光駐車場を利用してくださいとも書かれていた。残念ながら、見落としてしまったので、近くのお店でおにぎりを買い、少しの時間だけ置かしてもらって駆け足で見学した。

滝山城に入っていく道はいくつかあったが、バス停の滝山城祉下から入った。すぐに大きな看板があった。
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かつてはこの入り口は大手口と呼ばれていたそうだ。公園の中に入ると孟宗竹で鬱蒼としていた。
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さらに天野坂から桝形虎口(出入口)へと向かった。この辺りは攻め上る敵が脅威にさらされるところだ。
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そして小宮曲輪だ。道沿いにこのような道しるべが立てられているので、どこにいるのかがすぐにわかる。この名は、西多摩地域出身の小宮氏に因んだのではと言われている。曲輪には、土塁で囲われたいくつかの屋敷があったと思われている。
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さらに進むとコの字型土橋の案内があった。三の丸を通り抜けたあたりだ。
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千畳敷、広い公園になっている。
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二の丸、草が茂っていてわかりにくいがくぼ地になっている。恐らく空堀だ。
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中の丸だ。
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中の丸からは、眺望が開け、多摩川昭島市の市街地などを見ることができた。
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本丸への道は閉鎖されていた。このため紹介の中でよく出てくる木橋を見ることはできなかった。

八王子城と比較すると、平坦で散策しやすかったが、その分、山城としての機能は低かったのだろう。武田氏に攻められた後、八王子城を築造し、移転したというのもうなずけた。
この日は、気温は少し高かったが、全国的な秋晴れで、短い時間だったが楽しむことができた。